梁川梨里「溢れる」ほか(「 a calm 」3、2015年12月発行)
梁川梨里「溢れる」の書き出し。
「肉」か。その「肉」はどこからきたのかな? 「筋肉」とは違う感じ。筋肉なら、ぷるぷるとは揺れない。「筋」を持っていない、もっとやわらかい何かだ。
梁川は「筋」がないとは言わずに「骨がない」と書く。このとき「肉」と「骨」は、では何でつながっているのか。よくわからない。そのあとの「焼き場……」は、「骨がない」の「ない」からつづいていく「喪失感」を書いているのだろうけれど、ちぐはぐな感じがする。「沸騰させた」というような比喩は抽象的、おおげさだなあ。
この二連目は、一連六行を言い直したものだろう。「水」は「海」、表面張力でふくらんだ形は「盛り上がった」と言い直され、さらに表面張力がくずれ(雪崩れ)ていく様子をに波が重ねられ、「引き摺り込む」(ひとをまきこむ)という「動詞」が重なる。そこから、「死」が引き出されるのだが、これは「焼き場(死)」の言い直しである。
わかるのだけれど(わかるからかもしれないが、といってもこれは私の「誤読」だが)、どうもしっくりこない。「肉」の「比喩」がどこかへ消えてしまっている。
そう思っていると、「死」をさらに言い換えた三連目のあと、つまり四連目に、突然「肉」が復活する。そこから、詩はおもしろくなる。
「注いだ水」が「涙」にかわっている。「海」が「なみなみ(波波)」に変わっている。それが「頂点」にまで達し、零れようとしている。
何か悲しいことがあって(それは「死」ということばで象徴される喪失感のようなものだろう)、その悲しみが涙という「もの」に具体化されて、「肉体」から溢れる、その寸前の不安定な恍惚感が書かれている。
で、そういう「意味」ではなくて、私は、ここに出てきた「肉」がとてもおもしろいと思った。
「胎内」ということばを手がかりにすれば、「坂道」の先の「行き止まり」は「子宮の壁」かもしれない。男の連想というものは、こんなふうに「定型」を動くだけなのだが、そんなことを思っていると、「穴が空いている」ということばが出てきて、びっくりする。えっ、「穴」って「膣」? そこから子宮へと坂道を駆け上ってきたのじゃなかったのかい? 混乱するのだが、その「穴」は、実は「まなこ」。目。
子宮と目は直接つながっている?
たぶん、梁川にとっては、そうなのだ。
そしてその「直接」を「肉」と言い換えると、もっと正確になるのかもしれない。子宮と目(涙/感情)は「ぷるふぷる揺れる/肉」によってつながっている。あいだに「骨」が入ることはない。「骨」は「感情」の揺らぎを支える「理性」かもしれない。
こういう「誤読」の仕方も、男の思考の「定型」にすぎないのだと思うが、「定型」だとしても、このとき、私の「定型」は一度破壊されている。
女の「穴」を「膣」と見て、それが「子宮」につながっている、というところまではどんな男でも「連想」する。そういう連想しかない。けれど、梁川はその「穴」を「膣」とは反対方向(?)のところに見つけ出している。「目」につないでいる。「子宮」から「目」までは、物理的に(肉体的に?)かなり距離があるが、その距離を無視して「直接」つないでいる。膣から女のなかに入り込んだペニスは、どんなにがんばってみても、目にまでは到達しない。精子だって、そんなことろまでは遠征しない。だから、男は子宮の、膣とは反対側の「穴」が「目」であるとは考えないし、それを「肉」というひとことでつないでしまおうとも思わない。
そうか、女にとって(梁川だけかもしれないが……)、「肉」とは「ひとつ」であり、区別されないものなのだ。手の「肉」、足の「肉」、内臓の「肉」というような区別はなくて、全部が「肉」なのだ。「肉体」、からだ、なのだ。
私は「肉体」ということばをよくつかう。そして、そのとき「肉体」のなかで目とか耳とか手とか足とか、つまり視覚、聴覚、触覚などが融合する「場」があると考えているのだが、女(梁川)はそんなめんどうなことを考えず、すべてを「直接」むすびあっているものと感じている、すべては融合してしまっていて、区別なんかする必要がないと感じているのかもしれないなあ。
そうか、そうなのか。
「犇くわたし」(複数)と「小さな、わたし」(複数のうちのひとつ)。これは、「涙(感情)」と「意識(精神/理性?)」の関係を言い直したものだろうか。 「小さな、わたし」に対して「大きな、わたし(全体としてのわたし)」があり、それを「肉」と、梁川は呼んでいるのかもしれない。
*
麻生有里「缶の行方」は小説のように、人間の行動と心理を描いている。
「笑い方が痛い」の「痛い」というようなつかい方は、最近「口語」でよく耳にするが、「痛い」ということばをつかわずに「痛い」と書いてくれると、「(あ、そうか隠れなきゃ)」から「身を隠した」までのことば、「缶蹴り遊び」と現実の交錯が、より強くなると思った。
深町秋乃「まちかど」は、世界と内面の「断絶」が、逆に世界と人間の「接続」を覚醒させるという感じの作品だが、私にはカッコのつかい方が記号的すぎるように思える。カッコをつかわずに書かれた断絶と接続の交錯を読みたい。
*
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梁川梨里「溢れる」の書き出し。
注いだ水が溢れ出す頂点で膨らんだ
針の先で突けば雪崩る、その表面の
ぷるぷると揺れる様が、肉を帯びている
「肉」か。その「肉」はどこからきたのかな? 「筋肉」とは違う感じ。筋肉なら、ぷるぷるとは揺れない。「筋」を持っていない、もっとやわらかい何かだ。
骨がない不安定な揺らぎは
焼き場から立ち上る煙ほどに
地球の大気を沸騰させた
梁川は「筋」がないとは言わずに「骨がない」と書く。このとき「肉」と「骨」は、では何でつながっているのか。よくわからない。そのあとの「焼き場……」は、「骨がない」の「ない」からつづいていく「喪失感」を書いているのだろうけれど、ちぐはぐな感じがする。「沸騰させた」というような比喩は抽象的、おおげさだなあ。
海も盛り上がった姿をして引き摺り込もうとしている
身投げ寸前の魂の切れ端を
この二連目は、一連六行を言い直したものだろう。「水」は「海」、表面張力でふくらんだ形は「盛り上がった」と言い直され、さらに表面張力がくずれ(雪崩れ)ていく様子をに波が重ねられ、「引き摺り込む」(ひとをまきこむ)という「動詞」が重なる。そこから、「死」が引き出されるのだが、これは「焼き場(死)」の言い直しである。
わかるのだけれど(わかるからかもしれないが、といってもこれは私の「誤読」だが)、どうもしっくりこない。「肉」の「比喩」がどこかへ消えてしまっている。
そう思っていると、「死」をさらに言い換えた三連目のあと、つまり四連目に、突然「肉」が復活する。そこから、詩はおもしろくなる。
回帰する。
胎内の坂道を一気に駆け上がり
盛り上がったぴんく色の肉で行き止まりだった
はずの場所に穴が空いている
ドクンドクンと揺れる壁の闇を抜けた
安堵が歪ませた水晶体の縁に沿って
押し上げる水の、ふくよかな丸み
ああ、ここはわたしのまな裏か、
涙がなみなみと注がれ、零れる寸前で停止している
「注いだ水」が「涙」にかわっている。「海」が「なみなみ(波波)」に変わっている。それが「頂点」にまで達し、零れようとしている。
何か悲しいことがあって(それは「死」ということばで象徴される喪失感のようなものだろう)、その悲しみが涙という「もの」に具体化されて、「肉体」から溢れる、その寸前の不安定な恍惚感が書かれている。
で、そういう「意味」ではなくて、私は、ここに出てきた「肉」がとてもおもしろいと思った。
「胎内」ということばを手がかりにすれば、「坂道」の先の「行き止まり」は「子宮の壁」かもしれない。男の連想というものは、こんなふうに「定型」を動くだけなのだが、そんなことを思っていると、「穴が空いている」ということばが出てきて、びっくりする。えっ、「穴」って「膣」? そこから子宮へと坂道を駆け上ってきたのじゃなかったのかい? 混乱するのだが、その「穴」は、実は「まなこ」。目。
子宮と目は直接つながっている?
たぶん、梁川にとっては、そうなのだ。
そしてその「直接」を「肉」と言い換えると、もっと正確になるのかもしれない。子宮と目(涙/感情)は「ぷるふぷる揺れる/肉」によってつながっている。あいだに「骨」が入ることはない。「骨」は「感情」の揺らぎを支える「理性」かもしれない。
こういう「誤読」の仕方も、男の思考の「定型」にすぎないのだと思うが、「定型」だとしても、このとき、私の「定型」は一度破壊されている。
女の「穴」を「膣」と見て、それが「子宮」につながっている、というところまではどんな男でも「連想」する。そういう連想しかない。けれど、梁川はその「穴」を「膣」とは反対方向(?)のところに見つけ出している。「目」につないでいる。「子宮」から「目」までは、物理的に(肉体的に?)かなり距離があるが、その距離を無視して「直接」つないでいる。膣から女のなかに入り込んだペニスは、どんなにがんばってみても、目にまでは到達しない。精子だって、そんなことろまでは遠征しない。だから、男は子宮の、膣とは反対側の「穴」が「目」であるとは考えないし、それを「肉」というひとことでつないでしまおうとも思わない。
そうか、女にとって(梁川だけかもしれないが……)、「肉」とは「ひとつ」であり、区別されないものなのだ。手の「肉」、足の「肉」、内臓の「肉」というような区別はなくて、全部が「肉」なのだ。「肉体」、からだ、なのだ。
私は「肉体」ということばをよくつかう。そして、そのとき「肉体」のなかで目とか耳とか手とか足とか、つまり視覚、聴覚、触覚などが融合する「場」があると考えているのだが、女(梁川)はそんなめんどうなことを考えず、すべてを「直接」むすびあっているものと感じている、すべては融合してしまっていて、区別なんかする必要がないと感じているのかもしれないなあ。
そうか、そうなのか。
あふれる先を知らぬまま消される意識もまた溢れだし
溢れたものたちが犇くわたしの中で
小さな、わたし、が消えたり点いたりして回っている
「犇くわたし」(複数)と「小さな、わたし」(複数のうちのひとつ)。これは、「涙(感情)」と「意識(精神/理性?)」の関係を言い直したものだろうか。 「小さな、わたし」に対して「大きな、わたし(全体としてのわたし)」があり、それを「肉」と、梁川は呼んでいるのかもしれない。
*
麻生有里「缶の行方」は小説のように、人間の行動と心理を描いている。
その夜カイさんが
土砂降りの雨の中に立っていた
轟音の中で髪もシャツも水浸しだ
カイさん と声をかけると
何も答えずこちらを見てにっと笑い
空き缶を足元に置いて
勢いよく蹴り飛ばした
(あ、そうか隠れなきゃ)
反射的に思って
わたしは雨粒の陰に身を隠した
轟音が響いて止まない
雨と汗とで全身がずぶ濡れて
いつもとは違ったカイさんの笑い方が痛い
「笑い方が痛い」の「痛い」というようなつかい方は、最近「口語」でよく耳にするが、「痛い」ということばをつかわずに「痛い」と書いてくれると、「(あ、そうか隠れなきゃ)」から「身を隠した」までのことば、「缶蹴り遊び」と現実の交錯が、より強くなると思った。
深町秋乃「まちかど」は、世界と内面の「断絶」が、逆に世界と人間の「接続」を覚醒させるという感じの作品だが、私にはカッコのつかい方が記号的すぎるように思える。カッコをつかわずに書かれた断絶と接続の交錯を読みたい。
詩誌「妃」17号 | |
仲田 有里,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,マチュー マンシュ,梁川 梨里,広田 修,長谷部 裕嗣,月読亭 羽音,後藤 理絵,瓜生 ゆき | |
妃の会 販売:密林社 |
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。