詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「夕焼け空」

2015-12-02 09:58:23 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「夕焼け空」(「青い階段」44、2015年11月15日発行)

 詩の、どこがおもしろいか、それを言うのはむずかしい。おもしろいと思う部分だけを取り出しても、ぜんぜんおもしろくないからだ。
 坂多瑩子「夕焼け空」は

アイスください
百個ください
千個ください

 この三行で私は大笑いしてしまったのだが、これだけじゃわからないでしょ? そんなに買ってどうする? 冷蔵庫に入らないぞ、腹を壊すぞ。
 で、全体を引用し直すと。

アイスあります
アイスあります
軒下にぶら下がった紙に黒々と
書かれている
アイスちょうだい
そんなものないよ
ハタキかけながら
おばあさんがいった
あっちへ行きな
あたしの顔に斑点があるから
ちがう
ソバカスだらけだから
お前は大きくなると美人になるよ
そういわれて
育ったけれど
アイスなんてないといったおばあさんとこの
ノブちゃん
アイス舐めてた
みんなうそばっか
いまじゃ
ひろい敷地のはしっこに
コンビニができて
アイスください
百個ください
千個ください
夕焼け空は
かわらないけど
どこか とおくで
トタンの屋根がパカパカしている
おばあさんおばあさん
漏斗形の花がまきついているよ

 「みんなうそばっか」。怒っているのだ。大人の言うことは、みんな嘘。「アイスがない」も「ソバカスは美人になる」も嘘。その嘘に怒って、その怒りのあまりに、「百個ください/千個ください」と口走っている。でも、それは実際に声にはしていない。だって、コンビニで「アイス百個ください、いや千個ください」って、言うわけないでしょ?
 で、実際に声に出して言わないからこそ、それは「大声」なのだ。「叫び」なのだ。
 これが、おかしい。これが、おもしろい。
 コンビニでおばさん(坂多はおばさんだと思う。会ったことがないが「美人の若い娘」ではないと思う)が「アイス百個ください、千個ください」と言っていたら、私は少し離れる。それが「大声」だったから、ぱっとコンビニから逃げ出すかもしれない。
 でも「声」に出さず、胸のなかで叫んでいるから、おもしろい。
 「こころのなか」という言い方もできるかもしれないが、「胸のなか」。
 これが大事。
 私がきょう書きたいのは、このことかもしれないなあ。
 「アイス百個ください」の三行を読んだとき、私が笑い出してしまったのは、そこに「意味」ではなく「肉体」を感じたからだ。怒っているという「意味」ではなく、怒っているときの「肉体」。ことばは「声」にはならないが、「声」にならないまま、のどや口が動いている。大声を出すときの、息をいっぱいに吸い込む「肺(胸)」も動いている。手足もばたばたしている。子どもがだだをこねるときみたいに。
 こういうとき、「こころ」って、どこにある?
 私は、「こころ」とか「精神」というものが「ある」と信じていない。「肉体」だけが「ある」と思っているのだが、それは、こういうことがあるから。
 つまり、子どもが「アイスがほしい」とだだをこねているとき、それは「こころ」が主張していること? そのとき、「こころ」はどこにある? 私はばたばたふりまわす手足だとか、めちゃくちゃにくずれる顔だとか、涙だとか、あるいは外からは見えない内臓だとか、そういう「肉体」のすべての場所にあるような気がしてならない。抽象的な場所ではなく、手や足、開く口、動いてしまう「肉体」、それが「こころ」なのだと思う。
 で、「こころ」のなかで叫ぶのではなく、「肉体」、つまり「胸」のなかで叫ぶ。その「胸」とつながっている「のど」が動き、それが手足にまで伝わっていく。
 坂多はおばさんだから、子どものように手足はばたばたさせないだろうけれど、「肉体」は手足をばたばたさせた昔を覚えていて、それを思い出している。
 そういうことを、私は「肉体」で感じてしまう。
 この「肉体」の「共感」を、私は「セックス」と言い直すので、いろんなひとから叱られる。顰蹙をかうのだが。
 でも、「胸のなかで叫んでいる」と感じた瞬間、私の「肉体」は「私の肉体」ではなく、「坂多の肉体」になってしまっている。区別がない。どこからどこまでが「私の肉体」か、どこからどこまでが「坂多の肉体」が言うことができない。これって、最高のセックスでしょ? 「他人の肉体」なのに「自分の肉体」と思ってしまう。「他人の肉体」のなかで「自分の快感」が暴走する。
 で、「そう、ソバカスなのに美人にならなかったのかあ。私もソバカスだらけだった。私は美男子になりました」というような冗談というか、ちゃちゃをいれて、からかいたい気持ちにもなってしまう。
 でも、こういうことは「とおく」で起きていること。終わりから四行目の「とおく」。そして、その「とおく」は「遠い時間/過去」なんだけれど、思い出すたび「いま/ここ」を突き破ってあらわれる「近く」。「近く」を通り越して「いま/ここ」の中心。「近く」と区別できない「とおく」。あるがままの「いま/ここ」。
 だから、「トタンの屋根がパカパカしている」「漏斗形の花がまきついているよ」と、描写が「現在形」。昔「パカパカしていた」のではない。「まきついていた」のでもない。「いま/ここ」に、それが坂多の「肉体」とつながったもの(連続したもの)としてあらわれてきている。
 詩のことばが「連」に分かれずに、全部つながっているのも「肉体」の連続感を強めている。「ハタキをかけながら」ではなく「ハタキかけながら」と助詞を省略する密着感もそれを後押ししている。


ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人

*

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