詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

声/異聞

2015-12-24 15:08:42 | 
声/異聞

呼ばれて振り返ったが誰もいなかった。声が残っていて、その暗い部分に窓があった。窓の外には夜があった。夜の樹がカポーティの部屋をのぞいていた。

そんなことがありうるのか。ありえないからこそ、あったのだ。覚えている。あったとこは、けっしてなくなることはない。

何を言っていいのかわからなかった。声もわからないまま、ことばを探しているのがわかった。

夜が鏡になった。鏡が窓になった。その部屋。私は半透明の自分の内部をのぞいているか。輪郭のない樹になって、声を茂らせているのか。
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弘井正「須磨の雲」、近澤有孝「坂道の有る風景」ほか

2015-12-24 09:07:25 | 詩(雑誌・同人誌)
弘井正「須磨の雲」、近澤有孝「坂道の有る風景」ほか(「space」125 、2015年12月20日発行)

 弘井正「須磨の雲」の一連目。

舗装道路で固められた神戸の街の斜面には
汽車の高架があって
その上に初冬の青空が雲を走らせている

 描写の連続感がおもしろい。「斜面」の傾斜が視線を動かす。水平に動くのではなく、斜めに動く。この詩では、斜め上。その視線が動いた先に「高架(の線路)」がある。さらにそのまま視線は上へのぼっていく。そこに「初冬の青空」と「雲」。
 視線の動きに連続感があるので、街を歩いている気持ちになる。
 「青空が雲を走らせている」というのは、翻訳調。あるいは「新感覚派」という感じ。雲を走らせているのは「空」ではない。強いて言えば風。まあ、そんなことよりも、「雲」は自然に走るのであって、何かが走らせるわけではない。
 このちょっとした「違和感」が風景を「切断」する。風景ではないものが二連目に出てくるのを誘い出すようだ。二連目は「風景」ではなくなるのだが、「風景」でなくなることが、「走らせている」という語調の「切断」によって、スムーズになる。

親友と散歩を楽しんだ後にはおいしいコーヒーを飲む
僕の学生時代は遠い昔
大学生の子供と散歩をすれば
どこかになんとか昼のご馳走をひねりださなくてはいけない

 ここでは、連続感は「視線」ではない。誰かといっしょに歩く。そういう「肉体」の記憶の連続感。子供と歩いていると、友人と歩いたことを思い出す。歩いた街(過去)を思い出す。
 で、そこにも、妙な「ずれ」がまぎれこむ。子供に昼飯を食べさせる。
 「青空が雲を走らせる」と同じ「文体」ではないのだけれど、ずれていく感じがなんとなく、どこかで通い合っている。
 「ご馳走をひねりだす」は「ご馳走」のための金を「ひねりだす」。ひねりだすというほどのものではなく、まあ、子供に昼飯を食べさせる。そのとき、まさか子供にお前の分はお前が払え、とはいえない。親だから。そこが親友とは違うのだが、そのあたりの「事実」の隠し方が、なんとなく「青空が雲を走らせる」という「事実」の隠し方に似ているなあ、と私は感じる。
 そこからさらに、

子供が治らない病気を持ってしまったので
大丈夫だよと無意識に飾れる明るさを着なくてはいけない

 あ、大変なんだ。
 大変なんだと感じながら……。この、「客観」なのか「主観」なのか、よくわからないことばの動きがおもしろいなあと、感心する。
 何かを「切断」して、別の角度から見ている。
 「青空が雲を走らせている」に似た、「主語/述語」の「ずれ/切断」を感じる。「切断」なのだけれど、「ずれ」ながら「接続」する感じでもある。
 弘井が「大丈夫だよ」と言ったからといって、子供が「大丈夫」になるわけではない。「客観的」には変わらない。けれど「大丈夫だよ」と「明るく装う(飾る)」と「主観的」な「見え方」が違ってくる。子供の不安がやわらぐ(だろう)。
 「青空が雲を走らせる」わけではないが、そう言ったって誰も困らない、というのに似ているのかなあ。
 「主観」によって「事実」が違ってくる。
 これが一連目一行目の「斜面」ということばからはじまっている。「斜面」というのは「坂」だよね。「坂」といわずに「斜面」といったときから、不思議な「切断/接続」がことばを動かしている。その動きで詩が統一されている。



 近澤有孝「坂道のある風景」も、ことばの「統一感」がそのまま詩になっている作品。

じゃっかん傾いだ電信柱の立っている地点から
坂道はまっすぐにのびている
風はかすかな音をたて
まだ塗り立てのアスファルトの傾斜の向こうには
色鮮やかな住宅群を呑みこんでのっぺりした
初夏の青空がひろがっている

 「じゃっかん傾いだ」と「まっすぐにのびている」ということばが出合うとき、そこに「ずれ」が生まれる。不思議な「衝突」がある。それが「かすかな」と「のっぺり」という衝突に動いていく。「かすかな」は「少ない」印象があるが、「のっぺり」と感じるときは、それが「少ない」というよりは「多い」という「ずれ/衝突」がある。
 ことばのひとつひとつを具体的にいうのはめんどうだが、「傾いだ」と「立っている」の「矛盾」、「向こう」と「ひろがっている」の「連続感」、「矛盾」の対立ではなく、何か起きていることを「押し進める」のような感じ。
 ことばが、ことばにならないものをつかんだまま、いっしょになって動いている。いっしょになって動くことで、ことばにならない何かを生み出そうとしている感じがいいなあ。
 近澤はもう一篇「黒猫の質量」はタイトルの「質量」が象徴するように、いささか「形而上学的(抽象的?)」なことばの運動なのだが、ここでもことばが「統一感」をもって動いている。「黒猫」と「質量」という一種の「切断」を含んだ出合いが、「無」「実体」へとつづいていく。そのたびに、「常識」が「切断」され、異質なものが「接続」される。しかし、その異質(抽象)を、だれもが読んだり聞いたりしたことがあることばに限定しているのも効果的だなあ。

*

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