宇佐美孝二「手のひと」(「アルケー」11、2015年12月01日発行)
宇佐美孝二「手のひと」はレストランでのひとこま。ガラス戸越しに赤ん坊と出会う。
手を「合わせる」、手が「触れあう」。それは直接の接触ではない。二重の意味で直接ではない。ガラス戸越し、赤ん坊の手と「触れあう」のは妻の手。宇佐美の手ではない。だが「合わせる」「触れあう」という「動詞」のなかで、宇佐美の手は妻の手になる。そして、また赤ん坊の手になる。
ここから詩が(ことばが、思想が)動きはじめる。
赤ん坊の手のひらに「生命線」を認めたとき、赤ん坊は、もう赤ん坊ではない。隠された「未来」を、そして「時間」を宇佐美は見ている。
これはしかし、ほんとうに赤ちゃんの「未来」だろうか。そうではなくて、宇佐美の「過去」ではないのか。
その「過去」のなかに、とてもおもしろい「ことば」がある。
このことばのなかには、先に読んできた「合わせる」の「合」の文字が出てくる。
この「合流する」は、「合流した」あと、変化する。「ひとつの道すじをつくる」。
ひとは「ひとり」では「道すじ」をつくれない。だれかと会って、そのひとと「手を合わせて」、その結果、「ひとつの道すじをつくる」。
宇佐美は妻と出会い、こうして生きている、という「過去」を思い出している。
自分の「体験」から、赤ん坊の「未来」を想像している。
それだけではない。
赤ん坊の「未来」を想像することをとおして、自分自身の「過去」をととのえているのだ。いま、自分の生きていることが「ひとつの道筋をつくっている」としたら、それは妻と出会い、手を合わせて、いっしょに生きてきたからだと、ことばで「時間」をととのえている。
「過去」は、こんな「比喩」になって、宇佐美の前にあらわれる。
ここにも「出会い」と「あう」という動詞が出てくる。そのあとの「可変性に満ちた川」とは、出会いによって、川の流れは必ず変わり、変わることが「ひとつの道筋をつくる」ことだと言い直されていることになる。
ここまでは、いわば宇佐美の「経験」。静かに語られた「人生」。
このあと、ことばが突然飛躍する。
ほーっと、声が漏れた。美しいイメージだなあ。
一呼吸おいて、考えた。
「川」が「舟」に「主役」の座を譲っている。
「舟」はなんだろう。どうしても赤ん坊を思い浮かべてしまうが、赤ん坊は「川」という「比喩」ではなかったか。いや「川」は「時間」の比喩であって、赤ん坊の比喩ではなかったのか。
うーん。
こういうことは、厳密に「論理」にしてはいけないのだろう。
「川」は赤ん坊でもあり、時間でもある。そして、そういう比喩で語られるとき「川/赤ん坊」は宇佐美自身でもある。
その比喩に、もうひとつ「舟」という比喩が重なったのだ。
赤ん坊/川/舟と、瞬間瞬間にことばは変わってしまうが、それはその瞬間に何かが一番前に出てきて、それが「目立つ」というだけのことであって、それは「ひとつ」のもののだ。
だから、というわけではないが、
ここに「ともに」という副詞が「ひとつ」を強調するように動いている。副詞は動詞とかたく結びついている。動詞のあり方を鮮明にする。
川はただ流れるのではない。舟とともに流れる。そして、そのとき、川には天空の星がいっぱいに輝いている。川は天空の星とともに流れる。つまり、このとき川は天空の星とも一体(ひとつ)なのだ。
舟を乗せて川は流れ、川の流れは他の川の流れと出会い、「ひとつ」になることで、さらに天空の星(宇宙)そのものにもなる。
これは、宇佐美の「過去」か。「過去」かもしれないが、「祈り」でもあるだろう。残された人生への「祈り」であり、また、きょうであった赤ん坊のための「祈り」でもある。「あう/合う/会う」とは、こういう「ひとつ」へ向けて、自分自身が変わってしまうことをいうのかもしれない。
詩は次のことばで閉じられる。
*
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宇佐美孝二「手のひと」はレストランでのひとこま。ガラス戸越しに赤ん坊と出会う。
児の小ちゃな手がガラス戸にのびた
妻が手を差し出すと、児もおずおずと手を合わせてきた
透明なガラスをはさんで手と手が触れあった
児の手にはすでに生命線と呼ばれるものが刻まれていた
手の中にこの児の未来が隠されている
手を「合わせる」、手が「触れあう」。それは直接の接触ではない。二重の意味で直接ではない。ガラス戸越し、赤ん坊の手と「触れあう」のは妻の手。宇佐美の手ではない。だが「合わせる」「触れあう」という「動詞」のなかで、宇佐美の手は妻の手になる。そして、また赤ん坊の手になる。
ここから詩が(ことばが、思想が)動きはじめる。
赤ん坊の手のひらに「生命線」を認めたとき、赤ん坊は、もう赤ん坊ではない。隠された「未来」を、そして「時間」を宇佐美は見ている。
児は成人になり、河口に向かうように老いてゆくだろう
川の流れはほかの流れと合流し、やっとひとつの道すじをつくるだろう
これはしかし、ほんとうに赤ちゃんの「未来」だろうか。そうではなくて、宇佐美の「過去」ではないのか。
その「過去」のなかに、とてもおもしろい「ことば」がある。
合流
このことばのなかには、先に読んできた「合わせる」の「合」の文字が出てくる。
この「合流する」は、「合流した」あと、変化する。「ひとつの道すじをつくる」。
ひとは「ひとり」では「道すじ」をつくれない。だれかと会って、そのひとと「手を合わせて」、その結果、「ひとつの道すじをつくる」。
宇佐美は妻と出会い、こうして生きている、という「過去」を思い出している。
自分の「体験」から、赤ん坊の「未来」を想像している。
それだけではない。
赤ん坊の「未来」を想像することをとおして、自分自身の「過去」をととのえているのだ。いま、自分の生きていることが「ひとつの道筋をつくっている」としたら、それは妻と出会い、手を合わせて、いっしょに生きてきたからだと、ことばで「時間」をととのえている。
「過去」は、こんな「比喩」になって、宇佐美の前にあらわれる。
木の葉の堆積によって
あるいは雨季や乾期によって
川は流れをさまざまに変えるだろう
そこに出会いがあればなお、川は可変性に満ちた川になりえるのだ
児の手の中を流れる川
ここにも「出会い」と「あう」という動詞が出てくる。そのあとの「可変性に満ちた川」とは、出会いによって、川の流れは必ず変わり、変わることが「ひとつの道筋をつくる」ことだと言い直されていることになる。
ここまでは、いわば宇佐美の「経験」。静かに語られた「人生」。
このあと、ことばが突然飛躍する。
川には一艘の舟が浮かんでいる
くらい空の、誰ひとり乗っていない、
水を漕ぐための櫂さえもたない舟は、天空の星をいっぱい湛えた川とともに流れていく
ほーっと、声が漏れた。美しいイメージだなあ。
一呼吸おいて、考えた。
「川」が「舟」に「主役」の座を譲っている。
「舟」はなんだろう。どうしても赤ん坊を思い浮かべてしまうが、赤ん坊は「川」という「比喩」ではなかったか。いや「川」は「時間」の比喩であって、赤ん坊の比喩ではなかったのか。
うーん。
こういうことは、厳密に「論理」にしてはいけないのだろう。
「川」は赤ん坊でもあり、時間でもある。そして、そういう比喩で語られるとき「川/赤ん坊」は宇佐美自身でもある。
その比喩に、もうひとつ「舟」という比喩が重なったのだ。
赤ん坊/川/舟と、瞬間瞬間にことばは変わってしまうが、それはその瞬間に何かが一番前に出てきて、それが「目立つ」というだけのことであって、それは「ひとつ」のもののだ。
だから、というわけではないが、
舟は、天空の星をいっぱい湛えた川とともに流れていく
ここに「ともに」という副詞が「ひとつ」を強調するように動いている。副詞は動詞とかたく結びついている。動詞のあり方を鮮明にする。
川はただ流れるのではない。舟とともに流れる。そして、そのとき、川には天空の星がいっぱいに輝いている。川は天空の星とともに流れる。つまり、このとき川は天空の星とも一体(ひとつ)なのだ。
舟を乗せて川は流れ、川の流れは他の川の流れと出会い、「ひとつ」になることで、さらに天空の星(宇宙)そのものにもなる。
これは、宇佐美の「過去」か。「過去」かもしれないが、「祈り」でもあるだろう。残された人生への「祈り」であり、また、きょうであった赤ん坊のための「祈り」でもある。「あう/合う/会う」とは、こういう「ひとつ」へ向けて、自分自身が変わってしまうことをいうのかもしれない。
詩は次のことばで閉じられる。
手の
そこから流れ出る日々の
手のひとよ
きみは流れつづけよ。
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宇佐美 孝二 | |
書肆山田 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。