詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中本道代「夏の響き」、阿部日奈子「サバ」

2015-12-04 09:27:43 | 詩(雑誌・同人誌)
中本道代「夏の響き」、阿部日奈子「サバ」(「ウルトラ・パズル」25、2015年11月25日発行)

 中本道代「夏の響き」は描写が美しい。

ブルーサルビアが根元から折れている
藍から次第に碧くなっていくくちびるがいくつも
陽の欠片を吐いている
けものが後ろ肢をやわらかく揃えて横たわる

 サルビアの花を「くちびる」に譬え、それが「吐く」という動詞で結びつけられるとき、そこに「ひと」の「肉体」が見えてくる。その瞬間、ブルーサルビアは中本自身の「比喩」になる。その「肉体」は、前の行に戻ると「折れる」という「動詞」ともつながる。何かしらの「力つきた感じ」のようなものがあり、くちびるから息を吐いている。それは苦しい息かもしれない。しかし、それ「陽の欠片」と呼んでみる。「欠片」に「折れる」に似た弱いものがある。弱いけれど「陽の」ということばが、それを傷つきながらも「美しい」ものにしている。中本は彼女自身の「力尽きた感じ」のようなものを「美化」しながら把握している。センチメンタルである。一種の「酔い」のようなもの、「陶酔」がそこに感じられる。「陶酔」というのは傍から見ていると、まあ、どうでもいいのだ。それを承知しているからこそ、中本は「美」への意識がうるさくならないように配慮している。「藍から次第に碧くなっていく」という、意識をこらさないと明確にはつかみとれないようなものを書くことで、読者を、ことばのなかに誘っている。「わからないひとはかまいません」というような、一種の拒否がそこにあるかもしれない。これは「陶酔」の「極致」のようなものではあるのだけれど……。
 このままブルーサルビアの描写がつづくとうんざりしてしまうかもしれないが、「折れる」「吐く」という「動詞」のあとに、「けもの」という「野蛮」が出てきて、「美」を異化している。「折れている」は「横たわる」と言い直されて、「ブルーサルビア」が「けもの」と言い直されて、中本の「肉体」は「比喩」のなかでひろがっていく。手触りのあるものになっていく。ただし「けもの」はあくまで「抽象的」である。「ブルーサルビア」が特定された花であるのに対し「けもの」は固有の姿形をもたない。「なまなましい」けれど、直接的ではない。「前肢」ではなく「後ろ肢」というのは、下半身、性器を想像させる。けれど「やわらかく」というようなことばで、それを抑制している。隠している。
 中本のことばが美しさを保っているのは、拒否と抑制があるからかもしれない。

 この「肉体」(比喩)はさらに言い直される。

夏が割れて
山百合の純白の花弁に斑点が浮き上がる
そりかえり放射されていく斑点が
遠い雷鳴を聞いている

 「割れる」「浮き上がる」「そりかえる」。それは女の「肉体」のセックスの動きをそのまま語っているように思える。「動詞」というのは、いつでも「肉体」が覚えていることを思い出させる。何が「割れる」のか、何が「浮き上がる」のか、何が「そりかえる」のか、その「何が」を言わなくても、「動詞」が「何が」を含んでしまう。
 この四行は、先に引用した四行の「前」のことかもしれない。
 セックスがあって、そのあと、一連目にある「折れる」「吐く」「横たわる」という状態がある。この四行は、横たわりながら思い出している官能である、ということができる。「折れる」は官能が高みまでのぼりつめ、そこで力が尽きたという達成感にかわる。「折れる」と「脱力感」である。
 このあと、

耳鳴り

 ぽつんと一行一連のことばが、ほうりだされている。「遠い雷鳴」と「耳鳴り」が、「肉体」の「外」と「内」を融合させる。「雷鳴」が耳に「内に」入ってきて「耳鳴り」になったのか、「耳鳴り」が「外に」出て行って「雷鳴」になったのか。
 エクスタシー(自分の枠の外に出てしまう)ということから言うと、「耳鳴り」が出て行って、「雷鳴」になったのだろう。それは「遠い」。「遠く」まで行ってしまった。
 いろっぽいね。
 でも、なんだか美しすぎて、こまる。
 いろっぽいのはわかるが、引き込まれない。それでは、なんだか読んだかいがないとも思う。私は欲張りな読者なのだ。



 阿部日奈子「サバ」は短編小説風な散文。そのストーリーを紹介するのは面倒くさいので省略してしまうのだけれど、最後の方。

あなたと知り合う前に、オートバイで事故を起こしたことがあるのですが、深夜に走っていてカーヴを曲がりきれずに転倒し、体が前方へ投げ出されて宙を飛ぶあいだ、目の端に、路面をこすって火花を散らしながら後方へと滑っていくバイクが見えました。どちらが行いでどちらが心だかわからないけれど、一方は宙を泳いで落下してゆき、もう一方は火花をまち散らしつつ闇へ吸い込まれてゆく……

 ここが、とてもおもしろい。
 ことばにできることは何でもことばにしてしまう阿部の強い文体が効果的だ。「宙を飛ぶ体」と「滑るバイク」を「行い」と「心」と言い直している。「宙を飛ぶ体」が「行い」であり、「バイク」が「心」と特定できるわけではなく、「滑るバイク」が「行い」で「宙を飛ぶ体」が「心」かもしれない。「体」が「心」と言ってしまうと、一種の「矛盾」になるけれど、「矛盾」だからこそ「真実」かもしれないなあ。
 わからないけれど、この「正確」を装った文体には飲み込まれてしまうなあ。そんなことを体験すると「痛い」のかもしれないが、この「痛み」には「痛み」を体験したものにしかわからない「見る快感」がある。その快感に陶酔してみたい。バイクで転倒して、宙を飛びながら、遠くへ滑っていくバイクを見たい、そのときの火花の美しさを見たい、という欲望をそそられる。
 中本の作品に比べ阿部のことばの方が、はるかに強いセックスを感じる。セックスをしている気持ちにさせられる。セックスのことを書いていないのに。
 詩は不思議だ。

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