北川透「海象論B」(追加)(「KYO響」9、2015年12月01日発行)
北川透「海象論B」で書いたことの追加。(目の調子が悪く、本がなかなか読めない。前回書いたことの追加を書いておく。体調が悪いと、ことばはどうしても抽象的に動いてしまうが、どんなふうに抽象的になるのか、見つめなおすことができるかもしれない。)
この部分について、私は、ここには「区別/区別する」ということが省略されていると考えて、次のように補足した。
この「区別/区別する」を、「分節/分節する」ということばで言い直したが、これをさらに補足すれば、
ということになる。
「流通言語」なら「波の音」「貝の泣き声」として「分節」される。(「貝の泣き声」の方は比喩であるが……。)そう認めた上で、「波の音」「貝の泣き声」という表現にとらわれずに「世界」に向き合うということ。
そのとき、その冒頭に出てきた「あれ」が問題になる。
「あれ」とは何か。
「あれ」は「あれ」でしかない。「あれとは何か」という問いの形でしか存在しない、存在のありようである。「あれ」と言ったときに、そこにすべてが含まれてしまう。含まれている。
「あれ」と言ったとき、詩は始まり、詩は完成している。
などと書いてしまっては、感想にならないかもしれないが、実際に、北川は「あれ」と書いた瞬間に、もうその詩完成させていると思う。そのあとにつづくことばは「分節」をめぐる行ったり来たりである。
こんなことを書いていると禅問答か一元論のあれこれみたいで、にっちもさっちもいかなくなる。そこで私は、前回は、「分節」ということばに逃げ込んだ。
そのとき書いたことの補足。
井筒俊彦は「分節/無分節」という表現をつかっている。
「無分節」とは「分節されていない状態」であり、「混沌」であり、「エネルギーの場」のようなものだ。そこから、たとえば「波の音」が「分節」されてくる。「波の音」ということばと同時に、「波の音(現実)」があらわれてくる。
「無分節」→「分節」という運動がある。
こういう「運動」に、もし「無」そのものをあてはめると、どうなるか。「無」を「分節する」とどうなるか。「無」ではなく「空」になると、私は思う。「無分節」の「無」が混沌としたエネルギーの塊のようなものであるのに対して、「空」はそれが純粋に結晶化されたようなもの。完璧に概念化された抽象のようなもの。「空」は「完璧/全存在」のことである。
「無/混沌(全存在)/矛盾/不完全」であるのに対して「空/完璧/全存在」。「無」が「分節」されて「空」になる。
この「無-分節-空」という運動が、私には、少し「美しすぎる数式」のように思えて不安である。「頭」のなかだけでことばが動いている感じがして、私の「実感」にはならない。
それで、私は「無分節」ということばを避けている。「分節」についてもう少し考えたいことがある。「分節/無分節」ということばをつかうかぎり、井筒俊彦の考えをふまえないといけないのだが、私は井筒俊彦の考えを理解しているとは言えない。著作も読んでいないので、「分節/無分節」ということばから離れたいという思いもある。
私は「分節」という名詞を「分節する」という「動詞」に読み替えることができるかどうか、から考えはじめた。「分節する」という動詞に読み替えることが可能だと私は思う。「動詞」であるということは、そこに「肉体」が入り込む余地がある。「分節する」という運動を「精神的/頭脳的(概念的)」な運動と考えることもできるが、どんな概念的な運動であっても、最初は「肉体」を動かすと思う。
森田真生は『数学する身体』のなかで、人間はまず肉体(手足や指)をつかって数を確かめ、計算をし、それを積み重ねることで、「肉体」をつかわずに「頭」で数字を動かすようになると書いていた。同じように、世界に向きあったとき、最初に「動く」のは「肉体」だろうと私は考えている。
このことばから考え直してみる。
「あれは波の音ではない」と、ことばが動くとき、「耳」が動いている。「耳」というのは手のように何かを選り分ける力がない(「選り分ける」に「分節する」の「分」ということばが入り込んでいる)。「耳」に入ってきたものを受け入れるだけである。だから「分ける/分節する」という動詞になじまないような気がするかもしれないが、やはり「分けている」のだと思う。むかし聞いた幾つかの音と比較しながら識別/区別を繰り返し、「あれは波の音」であると「聞く」。それが「分節する」ということ。そのうえで、「あれを波の音として分節しない」と北川は書いている。これは、いま「聞こえている」音を「波の音」として「聞かない」ということである。「波の音」と呼ばれるよりも「前」にもどって、そこにあるものをつかみなおそうとしている。つまり「分節」しようとしている。ほかのものを「聞き」取ろうとしている。
「分節する」ということばでは「抽象的」になり、そこに「肉体」が入り込む余地が見当たらないが、「分節する」ということばのかわりに「聞く/聞かない」という動詞をつかって言い直すと、そこに「肉体/耳」がしっかりと組み込まれる。
「肉体」が組み込まれると、そこに書かれていることを、「自分の肉体」で確かめることができる。「波の音」が「聞こえてくる」。しかし、それを「波の音」とは「聞かない。「波の音」とは言わない。そうではないもの、まだ「ことば」になっていない何かであると「聞き」とろうとする。こういう「肉体」と「意識」のあり方なら、想像できるだろう。「あれは波の音ではない」と書いたとき、「波の音」であると「聞き」、またそう書くことができるのだけれど、そう「書かない」、そう「聞き取らない」北川がそこにいる、と「肉体」の存在としてつかみとることができるだろう。
それでは「あれ」とは何なのか、と言えば……。
私なら「あれは私だ/あれは私の肉体だ」と言ってしまいたいのだが、それでは北川の詩ではなくなるかもしれないから、いまはそこまでは書かない。「あそこにあるものは、私の肉体そのものであり、それが波の音と呼ばれることを拒絶している。なぜなら、それは波の音ではなくて、私の肉体(存在)そのものであるから」とは、書いてしまってはいけないと思う。(書いているのだけれど……。)北川のことばを追いかけながら、私が「肉体」でつかみとったのは、そういうことである。
もう一度、「分節する」という動詞に引き返す。
「分節/無分節」に動詞(肉体)を関係づけることで、「無分節」を「未分節」に書き換えられないか考える。「分節する」とき「肉体」がなんらかの形で動いている。
そう書くとき、そこに「耳」という「肉体」が「聞く」という動詞といっしょになって動いている。「波の音」という「流通言語(流通する分節)」によって表現されているものに対して「肉体」が違和感を感じている。その「違和感」をことばによって表現しようとしたものが詩。生まれてきたことばが詩。言い換えると、このとき北川は「流通言語(流通分節)」とは違った形で世界を作りなおそうとしている。新しく「分節」しようとしている。「波の音ではない」と書くことで、世界を新しく生み出そうとしている。
そういう仕事は「分節された世界」そのものの中ではできない。いったん「分節以前」にもどらないといけない。「あれは波の音ではない」と書くことで、北川は「波の音」という具合に分節された世界を拒絶するだけではなく、「分節以前」に戻ろうとしている、と私は考える。
「詩」は、詩人が「分節以前」にもどって、そこから詩人の「肉体」をつかって、もう一度世界を「分節する」ときに生まれる。そういうとき、とりあえずの「出発」は「あれは……ではない」という形をとるのだと思う。既成の「分節」を否定する。あれは、「波の音」として「聞こえる」。しかし、「耳」を「流通する常識」から解き放して、世界に向き合う。「耳」を常識から解き放つために、まず「波の音ではない/波の音として聞かない/波の音として書かない」という運動がある。
そうすることで「分節以前」に戻る。「無分節→分節」と進むのではなく、「分節」から「分節以前」に戻ってみる。私たちは生まれたときから(「肉体」をもって、この世界に入り込んだときから)、「分節」された世界と向き合っている。「無分節」というのは、出発点として想定するのは、とても難しい。(と、私は感じている。)
で、この「分節以前」を「無分節」ではなく、ほかのことばで言いなおすとどうなるだろうか。
「以前」というのは「過去」。その「過去」を起点にして考えると「分節された世界」というのは「未来」かもしれない。「分節以前」が「未来」に「分節」になる。その「未来」とは、どういう意味か。「未だ、来ない」。その「未だ」をつかって、「分節以前」を「未だ、分節される前」と言い直すことができるのではないだろうか。
ここから、私は「未分節」ということばを思いついた。「未だ、分節していない世界」。そして、何によって未だ分節されていないかというと、「肉体」によって未だ分節されていないということ。「私の肉体」によって未だ分節されていないということ。
これは別な言い方をすると、「肉体」とともに「分節」がはじまるということでもある。人間は「肉体」をもって生まれてくる。その「肉体」が世界を「分節」する。もちろん他者のつくりだす「分節」の世界に向き合い、その世界が絶対的に大きいのだけれど、それでもその大きさに対抗するように自分自身の「肉体」で「分節」をこころみ、自分の世界と他人の世界を合致するようにかえていくのだと思う。そうやって生み出されたのが「詩」。
ある「音」を耳で、聞く。その音を、周りの人が「波の音」と呼ぶ。波の音は波が岸辺(岩や何か)にぶつかる音だから、それは「岩の音」でもありえるのだが、「波の音」と「分節する」のが、世界にとっては「合理的」なのだ。そういうことを「肉体」でととのえていく。「波」を見て、「波」に触って、というような「肉体」による体験を積み重ねて、自分の世界と他人の世界を合致させる。
「肉体/動詞」が「未分節(分節以前)」を「分節」にかえていく。私は、そう考えている。「未分節」を「分節する」のが「肉体/動詞」であると私は考えている。だから、「動詞/肉体」にこだわって、「ことば」がどう動いているかを追いかける。「波の音」なら「耳/聞く」が「分節する」と木の「主語」と「動詞」になる。そう把握した上で、その「動詞/肉体」を追いかけると、私自身の「肉体」が「ことば」を書いたひとの「肉体」に重なる。この瞬間、私は「わかる(わかった)」と感じる。「誤読」かもしれないが、私自身は「わかった」つもり。
「あれは波の音ではない」。「波の音」と呼ばれているが「波の音」として「耳」は聞かない。「聞かない」ということは、別の「音」として「聞き取る」方へと「肉体(耳)」動かしていくことである。その「耳(肉体)」を動きを思うとき、私は私の「肉体」が北川の「肉体」と重なったように「錯覚」する。「一体」になったように「錯覚」する。北川の「肉体」といっしょになって、世界を「分節しなおそう」としているように「錯覚」する。詩の体験である。
その「錯覚」のなかで、私は「無分節」「分節」「空」というような世界(概念)があるのではなく、「肉体」だけが「世界」であるとも考えている。
このとき「肉体」というのは、もちろん「私の肉体」ある。「この世界にあるのは私の肉体だけ」。こう書くと、私は「自己中心的な存在」になってしまうが。
しかし、私はときどき、街路樹を見ながら、あの木のところまでが「私の肉体」と感じるときがある。そこに「木」という「私以外のもの」があるのではなく、「あそこに私の一部が木として立っている」と感じることがある。そこまで行って、木に触れると、ふっと力が抜ける。あるいは力が満ちる。
それは生きものではなく、無機物に対しても感じることがある。
たとえば道に迷いながらフィレンツェを歩く。ドーモを目指す。屋根が見える。その瞬間、自分がドーモとつながった感じになる。そうすると、それから先は私が歩いてゆくというよりも、そこにある「肉体」が私の「ほんとう」であって、その「ほんとう」に誘われ、導かれて、「ほんとう」になりにゆく、という感じ。
こんなことを書くと、個人の「肉体」のひろがりは限定的であり、世界の広さと比較するとありまりにも小さい。「世界」すべてを「肉体」に一元化してとらえるのは絶対無理である、と言われそうである。「私」を超えるところに、「私」の知らない(わからない)何かが動いている、と。しかし、ひとり、私「一個」の「肉体」にしたって、そのすべてを把握して私は生きているわけではない。こうやってワープロを打っているときは、手と目はつかっているが(無意識に声を出して、声帯を動かしてもいるだろうが)、意識しないまま動いている「肉体」もある。心臓とか。「わからない/知らない」ものはある。それでも「世界(肉体)」は存在している。「わからない/知らない」からこそ、その「わからない/知らない」部分を少しずつ「肉体」で「分節」してゆくのである。
だんだん書いていることが抽象的になり、どんどん北川の詩から遠ざかってしまったかもしれない。抽象的なことばは、どうしても、こんな具合に暴走する。だが、前回、抽象的に書きすぎたので、どうせなら抽象を暴走させてしまっておいた方がいいだろうと思って、追加した。私はこの日記でしきりに「肉体/動詞」という表現をつかうが、その理由も少し説明しておきたかった。私の書いていることを伝える参考になるかもしれないと思って。
北川透「海象論B」で書いたことの追加。(目の調子が悪く、本がなかなか読めない。前回書いたことの追加を書いておく。体調が悪いと、ことばはどうしても抽象的に動いてしまうが、どんなふうに抽象的になるのか、見つめなおすことができるかもしれない。)
あれは波の音ではない
貝の泣き声でもない
光る海の切っ先たちの穏やかな孤独
われらに神もけだものもなく
嵐を孕む海の感情の盛り上がりもないが
この部分について、私は、ここには「区別/区別する」ということが省略されていると考えて、次のように補足した。
あれは波の音(として「区別」できるもの)ではない
貝の泣き声(として「区別」できるもの)でもない
この「区別/区別する」を、「分節/分節する」ということばで言い直したが、これをさらに補足すれば、
あれは波の音である。しかし、波の音として分節はしない
貝の泣き声である。しかし、貝の泣き声として分節はしない
ということになる。
「流通言語」なら「波の音」「貝の泣き声」として「分節」される。(「貝の泣き声」の方は比喩であるが……。)そう認めた上で、「波の音」「貝の泣き声」という表現にとらわれずに「世界」に向き合うということ。
そのとき、その冒頭に出てきた「あれ」が問題になる。
「あれ」とは何か。
「あれ」は「あれ」でしかない。「あれとは何か」という問いの形でしか存在しない、存在のありようである。「あれ」と言ったときに、そこにすべてが含まれてしまう。含まれている。
「あれ」と言ったとき、詩は始まり、詩は完成している。
などと書いてしまっては、感想にならないかもしれないが、実際に、北川は「あれ」と書いた瞬間に、もうその詩完成させていると思う。そのあとにつづくことばは「分節」をめぐる行ったり来たりである。
こんなことを書いていると禅問答か一元論のあれこれみたいで、にっちもさっちもいかなくなる。そこで私は、前回は、「分節」ということばに逃げ込んだ。
そのとき書いたことの補足。
井筒俊彦は「分節/無分節」という表現をつかっている。
「無分節」とは「分節されていない状態」であり、「混沌」であり、「エネルギーの場」のようなものだ。そこから、たとえば「波の音」が「分節」されてくる。「波の音」ということばと同時に、「波の音(現実)」があらわれてくる。
「無分節」→「分節」という運動がある。
こういう「運動」に、もし「無」そのものをあてはめると、どうなるか。「無」を「分節する」とどうなるか。「無」ではなく「空」になると、私は思う。「無分節」の「無」が混沌としたエネルギーの塊のようなものであるのに対して、「空」はそれが純粋に結晶化されたようなもの。完璧に概念化された抽象のようなもの。「空」は「完璧/全存在」のことである。
「無/混沌(全存在)/矛盾/不完全」であるのに対して「空/完璧/全存在」。「無」が「分節」されて「空」になる。
この「無-分節-空」という運動が、私には、少し「美しすぎる数式」のように思えて不安である。「頭」のなかだけでことばが動いている感じがして、私の「実感」にはならない。
それで、私は「無分節」ということばを避けている。「分節」についてもう少し考えたいことがある。「分節/無分節」ということばをつかうかぎり、井筒俊彦の考えをふまえないといけないのだが、私は井筒俊彦の考えを理解しているとは言えない。著作も読んでいないので、「分節/無分節」ということばから離れたいという思いもある。
私は「分節」という名詞を「分節する」という「動詞」に読み替えることができるかどうか、から考えはじめた。「分節する」という動詞に読み替えることが可能だと私は思う。「動詞」であるということは、そこに「肉体」が入り込む余地がある。「分節する」という運動を「精神的/頭脳的(概念的)」な運動と考えることもできるが、どんな概念的な運動であっても、最初は「肉体」を動かすと思う。
森田真生は『数学する身体』のなかで、人間はまず肉体(手足や指)をつかって数を確かめ、計算をし、それを積み重ねることで、「肉体」をつかわずに「頭」で数字を動かすようになると書いていた。同じように、世界に向きあったとき、最初に「動く」のは「肉体」だろうと私は考えている。
あれは波の音ではない
このことばから考え直してみる。
「あれは波の音ではない」と、ことばが動くとき、「耳」が動いている。「耳」というのは手のように何かを選り分ける力がない(「選り分ける」に「分節する」の「分」ということばが入り込んでいる)。「耳」に入ってきたものを受け入れるだけである。だから「分ける/分節する」という動詞になじまないような気がするかもしれないが、やはり「分けている」のだと思う。むかし聞いた幾つかの音と比較しながら識別/区別を繰り返し、「あれは波の音」であると「聞く」。それが「分節する」ということ。そのうえで、「あれを波の音として分節しない」と北川は書いている。これは、いま「聞こえている」音を「波の音」として「聞かない」ということである。「波の音」と呼ばれるよりも「前」にもどって、そこにあるものをつかみなおそうとしている。つまり「分節」しようとしている。ほかのものを「聞き」取ろうとしている。
「分節する」ということばでは「抽象的」になり、そこに「肉体」が入り込む余地が見当たらないが、「分節する」ということばのかわりに「聞く/聞かない」という動詞をつかって言い直すと、そこに「肉体/耳」がしっかりと組み込まれる。
「肉体」が組み込まれると、そこに書かれていることを、「自分の肉体」で確かめることができる。「波の音」が「聞こえてくる」。しかし、それを「波の音」とは「聞かない。「波の音」とは言わない。そうではないもの、まだ「ことば」になっていない何かであると「聞き」とろうとする。こういう「肉体」と「意識」のあり方なら、想像できるだろう。「あれは波の音ではない」と書いたとき、「波の音」であると「聞き」、またそう書くことができるのだけれど、そう「書かない」、そう「聞き取らない」北川がそこにいる、と「肉体」の存在としてつかみとることができるだろう。
それでは「あれ」とは何なのか、と言えば……。
私なら「あれは私だ/あれは私の肉体だ」と言ってしまいたいのだが、それでは北川の詩ではなくなるかもしれないから、いまはそこまでは書かない。「あそこにあるものは、私の肉体そのものであり、それが波の音と呼ばれることを拒絶している。なぜなら、それは波の音ではなくて、私の肉体(存在)そのものであるから」とは、書いてしまってはいけないと思う。(書いているのだけれど……。)北川のことばを追いかけながら、私が「肉体」でつかみとったのは、そういうことである。
もう一度、「分節する」という動詞に引き返す。
「分節/無分節」に動詞(肉体)を関係づけることで、「無分節」を「未分節」に書き換えられないか考える。「分節する」とき「肉体」がなんらかの形で動いている。
あれは波の音ではない
そう書くとき、そこに「耳」という「肉体」が「聞く」という動詞といっしょになって動いている。「波の音」という「流通言語(流通する分節)」によって表現されているものに対して「肉体」が違和感を感じている。その「違和感」をことばによって表現しようとしたものが詩。生まれてきたことばが詩。言い換えると、このとき北川は「流通言語(流通分節)」とは違った形で世界を作りなおそうとしている。新しく「分節」しようとしている。「波の音ではない」と書くことで、世界を新しく生み出そうとしている。
そういう仕事は「分節された世界」そのものの中ではできない。いったん「分節以前」にもどらないといけない。「あれは波の音ではない」と書くことで、北川は「波の音」という具合に分節された世界を拒絶するだけではなく、「分節以前」に戻ろうとしている、と私は考える。
「詩」は、詩人が「分節以前」にもどって、そこから詩人の「肉体」をつかって、もう一度世界を「分節する」ときに生まれる。そういうとき、とりあえずの「出発」は「あれは……ではない」という形をとるのだと思う。既成の「分節」を否定する。あれは、「波の音」として「聞こえる」。しかし、「耳」を「流通する常識」から解き放して、世界に向き合う。「耳」を常識から解き放つために、まず「波の音ではない/波の音として聞かない/波の音として書かない」という運動がある。
そうすることで「分節以前」に戻る。「無分節→分節」と進むのではなく、「分節」から「分節以前」に戻ってみる。私たちは生まれたときから(「肉体」をもって、この世界に入り込んだときから)、「分節」された世界と向き合っている。「無分節」というのは、出発点として想定するのは、とても難しい。(と、私は感じている。)
で、この「分節以前」を「無分節」ではなく、ほかのことばで言いなおすとどうなるだろうか。
「以前」というのは「過去」。その「過去」を起点にして考えると「分節された世界」というのは「未来」かもしれない。「分節以前」が「未来」に「分節」になる。その「未来」とは、どういう意味か。「未だ、来ない」。その「未だ」をつかって、「分節以前」を「未だ、分節される前」と言い直すことができるのではないだろうか。
ここから、私は「未分節」ということばを思いついた。「未だ、分節していない世界」。そして、何によって未だ分節されていないかというと、「肉体」によって未だ分節されていないということ。「私の肉体」によって未だ分節されていないということ。
これは別な言い方をすると、「肉体」とともに「分節」がはじまるということでもある。人間は「肉体」をもって生まれてくる。その「肉体」が世界を「分節」する。もちろん他者のつくりだす「分節」の世界に向き合い、その世界が絶対的に大きいのだけれど、それでもその大きさに対抗するように自分自身の「肉体」で「分節」をこころみ、自分の世界と他人の世界を合致するようにかえていくのだと思う。そうやって生み出されたのが「詩」。
ある「音」を耳で、聞く。その音を、周りの人が「波の音」と呼ぶ。波の音は波が岸辺(岩や何か)にぶつかる音だから、それは「岩の音」でもありえるのだが、「波の音」と「分節する」のが、世界にとっては「合理的」なのだ。そういうことを「肉体」でととのえていく。「波」を見て、「波」に触って、というような「肉体」による体験を積み重ねて、自分の世界と他人の世界を合致させる。
「肉体/動詞」が「未分節(分節以前)」を「分節」にかえていく。私は、そう考えている。「未分節」を「分節する」のが「肉体/動詞」であると私は考えている。だから、「動詞/肉体」にこだわって、「ことば」がどう動いているかを追いかける。「波の音」なら「耳/聞く」が「分節する」と木の「主語」と「動詞」になる。そう把握した上で、その「動詞/肉体」を追いかけると、私自身の「肉体」が「ことば」を書いたひとの「肉体」に重なる。この瞬間、私は「わかる(わかった)」と感じる。「誤読」かもしれないが、私自身は「わかった」つもり。
「あれは波の音ではない」。「波の音」と呼ばれているが「波の音」として「耳」は聞かない。「聞かない」ということは、別の「音」として「聞き取る」方へと「肉体(耳)」動かしていくことである。その「耳(肉体)」を動きを思うとき、私は私の「肉体」が北川の「肉体」と重なったように「錯覚」する。「一体」になったように「錯覚」する。北川の「肉体」といっしょになって、世界を「分節しなおそう」としているように「錯覚」する。詩の体験である。
その「錯覚」のなかで、私は「無分節」「分節」「空」というような世界(概念)があるのではなく、「肉体」だけが「世界」であるとも考えている。
このとき「肉体」というのは、もちろん「私の肉体」ある。「この世界にあるのは私の肉体だけ」。こう書くと、私は「自己中心的な存在」になってしまうが。
しかし、私はときどき、街路樹を見ながら、あの木のところまでが「私の肉体」と感じるときがある。そこに「木」という「私以外のもの」があるのではなく、「あそこに私の一部が木として立っている」と感じることがある。そこまで行って、木に触れると、ふっと力が抜ける。あるいは力が満ちる。
それは生きものではなく、無機物に対しても感じることがある。
たとえば道に迷いながらフィレンツェを歩く。ドーモを目指す。屋根が見える。その瞬間、自分がドーモとつながった感じになる。そうすると、それから先は私が歩いてゆくというよりも、そこにある「肉体」が私の「ほんとう」であって、その「ほんとう」に誘われ、導かれて、「ほんとう」になりにゆく、という感じ。
こんなことを書くと、個人の「肉体」のひろがりは限定的であり、世界の広さと比較するとありまりにも小さい。「世界」すべてを「肉体」に一元化してとらえるのは絶対無理である、と言われそうである。「私」を超えるところに、「私」の知らない(わからない)何かが動いている、と。しかし、ひとり、私「一個」の「肉体」にしたって、そのすべてを把握して私は生きているわけではない。こうやってワープロを打っているときは、手と目はつかっているが(無意識に声を出して、声帯を動かしてもいるだろうが)、意識しないまま動いている「肉体」もある。心臓とか。「わからない/知らない」ものはある。それでも「世界(肉体)」は存在している。「わからない/知らない」からこそ、その「わからない/知らない」部分を少しずつ「肉体」で「分節」してゆくのである。
だんだん書いていることが抽象的になり、どんどん北川の詩から遠ざかってしまったかもしれない。抽象的なことばは、どうしても、こんな具合に暴走する。だが、前回、抽象的に書きすぎたので、どうせなら抽象を暴走させてしまっておいた方がいいだろうと思って、追加した。私はこの日記でしきりに「肉体/動詞」という表現をつかうが、その理由も少し説明しておきたかった。私の書いていることを伝える参考になるかもしれないと思って。
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