福田拓也「「倭人伝」断片」ほか(「hotel第2章」37、2015年12月01日発行)
詩とは何か。散文ではないもの、と定義すると簡単かもしれない。散文は論理でもある。だから論理ではないものが詩。論ではないは、論理を逸脱/破壊すると言い直すこともできるかもしれない。だから、詩とは論理を逸脱/破壊するものとできる。
でも、この定義は危険だ。論理というものに頼りすぎている。論理とは何? 論理とはどこにある? そのことが明らかにならないかぎり、詩を定義したことにならない。つまり、繰り返しに陥ってしまう。
--と、書いてわかることは、こういう抽象的なことは、ただ延々とつづいていくだけで、何も書いたことにならないということ。
だったら書かなければいいのだが、なんとなく書いてしまった。書かないと、次のことばが出て来ないのだ。
福田拓也「「倭人伝」断片」。その一連目。読点「、」はあるが、句点「。」は出て来ない。文章が終わらない。完結しない。つまり「論理」がない。「論理」とは、結論によって成立するものだからだ。(と、また抽象的なことを書く。)福田は、文章を終わらせない、という方法で詩を生み出そうとしている、と言い直すことができる。
では、どうやって完結させない?
前を歩く者の見えないくらい丈高い草の生えた道とも言えぬ道を歩くう
ちにわたしのちぐはぐな身体は四方八方に伸び広がり丹色の土の広場に
出るまでもなくそこに刻まれたいくつかの文身の模様を頼りに、しきりに
自分の身体に刻された傷、あの出来事の痕跡とも言えぬ痕跡、あるいは四
通八通する道のりを想うばかり、編んだ草や茎の間から吹き込む風にわた
しの睫毛は微かに揺れ、もう思い出すこともできないあの水面の震え、光
と影が草の壁に反射して絶えず揺れ動き、やがてかがよい現われて来るも
のがある、
読点「、」に目を向けると、「頼りに、」「傷、」「痕跡、」「想うばかり、」「揺れ、」「動き」、「ある、」。「傷、」「痕跡、」は名詞+「、」だが、あとは動詞に連続している。動詞には「終止形」というものがある。終止形にすれば、文章は「終わる」。福田は、それを避けている。ある動詞から、次の動詞へと、ことばを連続させている。そうすることで、完結を避けている。最後の「ある、」も、福田の意識としては「あり、」だろう。
この連続は、しかし、完全な連続とは言えない。「たよる」「想う」「揺れる」「震える」「ゆれ動く」「ある」は、その動詞自体として相互に関係があるわけではない。むしろ、断絶/切断している。連続しているのは「主語」である。
この作品で言えば「わたしの身体」「わたしの睫毛」が「は」という格助詞をもって「主語」となっている。それは「わたし」と言い直すことができると想う。
福田の意図がどうであれ、私は、ここには「わたし」というもの(わたしの身体、と福田は言うだろうか)が「連続」していると読んでしまう。
後半の「震え、」「揺れ動き、」の「主語」は「水面」「光と影」なのだが、それは「わたし」が「見た」(把握した)情景であり、やはり強引に「わたし」というものが世界を連続させていると読むことができる。最後の「ある、」も「かがよい現われてくるものがある」と認識する「わたし」によってとらえられた世界と読むことができる。
「わたし」という存在(身体)が連続している。それを利用して、福田は、動詞の不連続性を連続に変える。
そう読むと……。
これは結局、「わたし」の連続性を少し変わった手法で書き直した「抒情詩」に見えてくる。「わたし」が切断されながら、なお連続(持続)していくとき、「抒情詩」が見えてくる。
抒情詩というのは、「わたし」が切断される瞬間、連続性が否定される瞬間の「陶酔」が大きなテーマになっているが、この詩でも「傷」「痕跡」というような「切断」を象徴することばが動いている。それは「象徴」として「こころ」に刻まれるものだけれど、それを「身体」そのものに刻まれた形で書いていることが見えてくる。
この「傷」「痕跡」が「年」ではなくて「名詞(イメージ)」であることが「叙情性」に拍車をかける。「名詞」は静止している。「身体」を静止状態でとらえるということは、ある瞬間(時間)の強調である。スローモーションではなくストップモーション。動くことを忘れ、「身体」に陶酔する。ナルシズム。センチメンタル。ここから抒情まではほんの少しだ。隣接するというよりも、ほとんどまじりあっている。
その延長に「睫毛」とか「微かに」とか抒情詩っぽい、ことばも見つけ出すことができる。
しかし、このことばの動きが「抒情詩」であることを、何よりも証明するのが、二回登場する「あの」である。
「あの出来事」「あの水面」。
「あの」とは「ここ」にないもの。「ここ」から遠くにあるもの。それは読者にはどこにあるかわからない。知っているのは書いている作者(福田)だけである。「わたし(福田)」の「肉体/意識」のなかには「あの」が残っていて、それが「わたし」の「連続性」と一致している。
「あの」と呼ぶことができる「連続性」が「わたし」の「連続性」となって、存在している。それがあるから、動詞は瞬間瞬間に逸脱して行くことができる。論理を分断していくことができる。論理が切断されることで、そこに逆に「こころ」の連続性も見えてきて、それが「抒情」へと結晶していく。
で、これが、と私は飛躍するのだが……。
三連目。
いつもそうだった、このように私は山の岨道を辿りながら曲がりくね
る草深い道沿いの山の中に迷い込み、
その連続性が「いつもそうだった」と言い直される。そして、そう言い直されるとき、その「いつも」は「わたし(福田)」の「いつも」をはみ出し、すべての人間の「いつも」のように響いてくる。
抒情は共有されて詩になる。「いつも」のなかには、その「共有」があると感じてしまう。
最初は「わたし(福田)」だけの「連続性」だったものが、「抒情」という形で読者(他者)へと連続して行き、そのことで同時に「わたし(福田)」の感じだ「切断/断絶」が読者のものとなる。
こんなめんどうくさいいい方をしなくても「倭人伝」という書物を主題にしているのだから、そのなにか「歴史=共有された時間」があると言ってしまった方が感嘆なのかもしれないが。そこから出発すると、共有された時間という歴史を「わたし(福田)」がことばで分断し、読者の「身体」に傷をつくり、それが読者の「身体」に「痕跡」を残し、その「痕跡」という「事実」から「叙事」が動くということになる。「あの」もひとりの記憶ではなく、「共有」された「事実」になる。--福田の思いは、「抒情詩」ではなく「叙事詩」なのかもしれないから、ほんとうはそう書いた方がいいのかもしれないという思いは残るのだが、
私には「抒情詩」に見えたので、こういう書き方になった。
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根本明「風車ではなく」には、
街道の夜の鉄はしへと変化(へんげ)のひとつ〔そして希望とは何か〕略して〔希望〕が唐突ながら突き進むのだとする。
という魅力的なことばがあって、後半には、その〔希望〕が何度か出てきて、ことばをひっかきまわす。それがおもしろい。福田の詩と関連づけながら、そのおもしろさを書きたかったのだが、目が痛くなったので、今年の感想はここでやめる。中途半端だが。
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