野村喜和夫『久美泥日誌』(書肆山田、2015年11月15日発行)
野村喜和夫『久美泥日誌』は「くみね」日誌と読む。「くみね」とは「組み寝」らしい。万葉仮名から着想を得ているらしい。私は万葉集も万葉仮名も知らないから、野村がそう書いているからといって、それをそのまま信じていいかどうか、わからない。そうか、と思って読むだけである。私の知っていることを手がかりにして読むだけである。
「久美」は一般的に女の名前。女は一般的に美しい(「久美」には「美」という文字も含まれている。)。「泥」は一般的に汚い。「久美泥」ということばのなかには美しいものと汚いものがしっかりと結びついている。
男が女を考えるとき、そこにはどうしてもセックスが入ってくる。「久美泥」が「くみね」であり、それが「組み寝」という意味なら、その「組み」は男と女の組み合った形、それも「寝る」姿で組み合った形なので、どうしてもセックスになる。
で、この詩集にどんなことが書いてあるかというと、まあ、いろいろ書いてあってそれを全部説明するのは面倒くさい。だいたい私がことばを読むときはいかがわしいことを妄想しながら読む。つまり、セックス描写を探して読んでしまう。だから全部をきちんと書こうとしても、どうしてもセックスにまつわる部分が多くなる。「正確に」読んだことにはならない。
だから。
私は最初から開き直って、私がいちばん関心を持ったことだけを書く。
この詩集で、私は「また」ということばと「あるいは」ということばに気づいた。
ほかにも「また」「あるいは」は出てくるかもしれないが、詩集の後半に入って、そのことばがくっきりとみえてきた。
ふたつのことばは少し似ている。
「また」は「死んでゆく」「甦ってゆく」という反対の運動をつないでいる。つないでいるといっても、いっしょに動くわけではない。どっちでもいい、という「また」である。決定しない。そのための「また」である。
「あるいは」の方は「群れている」という「動詞」はひとつで、「事後」と「人」が入れ違っている。「主語」が「あるいは」を挟んで反対になっている。
どこが似ているかというと「反対」のものを同居させているということが似ている。
野村は、この詩集で「反対」のものを次々に組み合わせているのである。
「私/野村(男)」と「久美(女)」、「女(美しい)」と「泥(汚い)」。もちろん男と女、美しいと汚いが「反対」のものであるかどうかは絶対的ではない。むしろ組み合わせることで、そういう「既成概念」が絶対的なものではないということを野村は書こうとしている。「反対」と思われるものを結びつけてみると、そのあいだでことばは自在に動く。「あいだ」そのものを解体し、さらに組み立てる形でことばは動きつづける。その「動く」ということが詩である。固定されないことが詩である。
だから「また」であり、「あるいは」なのだ。
「81」の「あるいは」を含む文のつづき。
これが詩集の「要約」になるかもしれない。「二度三度」について言い直せば、「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」ということばが「二度三度」出てくる。(何度でてきたか、数え直したくない)。「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」というようなことばも「二度三度」出てくる。(これも、回数は数え直したくない。)そのたびに「戻ってきたような気がする」。どこへ? どこかわからないが、あ、これは読んだことがあると感じる。その「感じ」へ戻ってくるのかもしれない。「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」と「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」は、ことばの「見かけ」は違っている。しかし、ほんとうに「違ったもの」であるかどうかはわからない。「違ったもの」であるにしろ、それは「野村のことば」のなかでつながっている。
そのつながりがあると仮定して、では、それは「また」という構文でつながることができるのか、「あるいは」という構文でつながることができるか。この問題を追いつづければ、この詩集のことばの肉体に触れることができるかもしれない。追いつづけたい気持ちもあるのだが、いまは目が疲れ切っているので、やめておく。追いつづけても「どこといってどこでもない」ということになるだろうなあと感じているからである。
「二度三度」繰り返せば、それは「どこといってどこでもない」ではなく、徐々に「ここ」という具合に固定化するはずなのだが、野村のことばの運動は、逆。固定化の否定、「また」「あるいは」という言い換えの「本領」としている。
このことを野村のつかっている動詞を借りて言えば「超える」ということになる。「どこといってどこでもない」とは、「ここ」という特定(固定)を「超える」ということである。超越。逸脱。エクスタシー。「ここ」という枠を「超える」だけではなく、運動そのものをも「超える」。
これを詩集の最後「82」(97ページ)で野村は、次のように言い直している。
「アクセス」は名詞形だが「アクセスする」という「動詞」として読み直すと、「超えて」と中途半端な形で動いている「超える」ものが何であるかがわかる。「超える」のかまたは「破壊する」のか、あるいは「破壊する」のか、よくわからないが、その瞬間、そこに存在するすべては「ひろがる」。中心を失うのではなく、ひろがりが中心になる。うーん、矛盾だ。たぶん、俳句で言う「遠心・求心」のような感じだな。
で。
こんなふうに書いてしまうと、ほんとうに「要約」という「誤読」になってしまうので、最後に、私の書いたことをひっくりかえしておこう。
「82」から「49」(60ページ)へ引き返してみよう。そうすると、「82」が「二度三度」であることが、よくわかる。野村は同じことを「また」「あるいは」で言い直していることがよくわかる。「49」の方が「書く」という詩人の行為を含んでいる(つまり、自画像になっている)ので、「49」を中心に感想を書いた方が「論理的」になるというか「構造的」になるのかもしれないが、まあ、そういうことはほかの人に任せたい。ここに出てくるあからさまな「概念語」を「肉体化」するのは、私にはめんどうくさい。
それに……。
私はここで大爆笑してしまった。笑いすぎて涙が出てくるくらい。「書くのをやめて」? まあ、ことばが暴走したのだろうけれど、野村が「書くのをやめる」ということは、「また」「あるいは」ということばをつかってしまったかぎり、あり得ないじゃないか。書くことがなくなったとき(書くことにゆきづまったとき)、書くことを邪魔するものを突き破るために「また」「あるいは」はいう「論理の述語」をつかって論理を否定した以上は、その運動は止まりようがない。
止まることを拒絶したことばの運動(ことばの肉体)を追いつづけても、どこへもたどりつけない。「止まらない運動」であると指摘することしかできない。
野村喜和夫『久美泥日誌』は「くみね」日誌と読む。「くみね」とは「組み寝」らしい。万葉仮名から着想を得ているらしい。私は万葉集も万葉仮名も知らないから、野村がそう書いているからといって、それをそのまま信じていいかどうか、わからない。そうか、と思って読むだけである。私の知っていることを手がかりにして読むだけである。
「久美」は一般的に女の名前。女は一般的に美しい(「久美」には「美」という文字も含まれている。)。「泥」は一般的に汚い。「久美泥」ということばのなかには美しいものと汚いものがしっかりと結びついている。
男が女を考えるとき、そこにはどうしてもセックスが入ってくる。「久美泥」が「くみね」であり、それが「組み寝」という意味なら、その「組み」は男と女の組み合った形、それも「寝る」姿で組み合った形なので、どうしてもセックスになる。
で、この詩集にどんなことが書いてあるかというと、まあ、いろいろ書いてあってそれを全部説明するのは面倒くさい。だいたい私がことばを読むときはいかがわしいことを妄想しながら読む。つまり、セックス描写を探して読んでしまう。だから全部をきちんと書こうとしても、どうしてもセックスにまつわる部分が多くなる。「正確に」読んだことにはならない。
だから。
私は最初から開き直って、私がいちばん関心を持ったことだけを書く。
この詩集で、私は「また」ということばと「あるいは」ということばに気づいた。
われわれは日々刻々、その巌のうえで死んでゆき、また甦ってゆく。
(「52」、63ページ)
事後のようにまばらに人が群れている。あるいは、人のようにまばらに事後が群れている。
(「81」、96ページ)
ほかにも「また」「あるいは」は出てくるかもしれないが、詩集の後半に入って、そのことばがくっきりとみえてきた。
ふたつのことばは少し似ている。
「また」は「死んでゆく」「甦ってゆく」という反対の運動をつないでいる。つないでいるといっても、いっしょに動くわけではない。どっちでもいい、という「また」である。決定しない。そのための「また」である。
「あるいは」の方は「群れている」という「動詞」はひとつで、「事後」と「人」が入れ違っている。「主語」が「あるいは」を挟んで反対になっている。
どこが似ているかというと「反対」のものを同居させているということが似ている。
野村は、この詩集で「反対」のものを次々に組み合わせているのである。
「私/野村(男)」と「久美(女)」、「女(美しい)」と「泥(汚い)」。もちろん男と女、美しいと汚いが「反対」のものであるかどうかは絶対的ではない。むしろ組み合わせることで、そういう「既成概念」が絶対的なものではないということを野村は書こうとしている。「反対」と思われるものを結びつけてみると、そのあいだでことばは自在に動く。「あいだ」そのものを解体し、さらに組み立てる形でことばは動きつづける。その「動く」ということが詩である。固定されないことが詩である。
だから「また」であり、「あるいは」なのだ。
「81」の「あるいは」を含む文のつづき。
異様とも思える静けさ。二度三度とここに戻ってきたような気がするが、どこといってどこでもない。
これが詩集の「要約」になるかもしれない。「二度三度」について言い直せば、「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」ということばが「二度三度」出てくる。(何度でてきたか、数え直したくない)。「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」というようなことばも「二度三度」出てくる。(これも、回数は数え直したくない。)そのたびに「戻ってきたような気がする」。どこへ? どこかわからないが、あ、これは読んだことがあると感じる。その「感じ」へ戻ってくるのかもしれない。「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」と「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」は、ことばの「見かけ」は違っている。しかし、ほんとうに「違ったもの」であるかどうかはわからない。「違ったもの」であるにしろ、それは「野村のことば」のなかでつながっている。
そのつながりがあると仮定して、では、それは「また」という構文でつながることができるのか、「あるいは」という構文でつながることができるか。この問題を追いつづければ、この詩集のことばの肉体に触れることができるかもしれない。追いつづけたい気持ちもあるのだが、いまは目が疲れ切っているので、やめておく。追いつづけても「どこといってどこでもない」ということになるだろうなあと感じているからである。
「二度三度」繰り返せば、それは「どこといってどこでもない」ではなく、徐々に「ここ」という具合に固定化するはずなのだが、野村のことばの運動は、逆。固定化の否定、「また」「あるいは」という言い換えの「本領」としている。
このことを野村のつかっている動詞を借りて言えば「超える」ということになる。「どこといってどこでもない」とは、「ここ」という特定(固定)を「超える」ということである。超越。逸脱。エクスタシー。「ここ」という枠を「超える」だけではなく、運動そのものをも「超える」。
これを詩集の最後「82」(97ページ)で野村は、次のように言い直している。
ひとりの女、久美、きみへのアクセスを超えて。何の輪だろう、輪が、ふわっとひろがる。
「アクセス」は名詞形だが「アクセスする」という「動詞」として読み直すと、「超えて」と中途半端な形で動いている「超える」ものが何であるかがわかる。「超える」のかまたは「破壊する」のか、あるいは「破壊する」のか、よくわからないが、その瞬間、そこに存在するすべては「ひろがる」。中心を失うのではなく、ひろがりが中心になる。うーん、矛盾だ。たぶん、俳句で言う「遠心・求心」のような感じだな。
で。
こんなふうに書いてしまうと、ほんとうに「要約」という「誤読」になってしまうので、最後に、私の書いたことをひっくりかえしておこう。
「82」から「49」(60ページ)へ引き返してみよう。そうすると、「82」が「二度三度」であることが、よくわかる。野村は同じことを「また」「あるいは」で言い直していることがよくわかる。「49」の方が「書く」という詩人の行為を含んでいる(つまり、自画像になっている)ので、「49」を中心に感想を書いた方が「論理的」になるというか「構造的」になるのかもしれないが、まあ、そういうことはほかの人に任せたい。ここに出てくるあからさまな「概念語」を「肉体化」するのは、私にはめんどうくさい。
ぼくは恐れる。書くことによって、ますます久美、きみを見失ってゆくのではないかと。一年ものあいだ、書くことによってひそかにきみとともに在るつもりでいたのだが、錯覚であったかもしれぬ。じっさい、久美という名のまわりに、それと引き合い、また反発し合うさまざまなレベルの言葉を蝟集させるとき、内界と外界との、豊穰と不毛との、生気と死との、驚くほど自在な共謀に担われて、久美、きみそのものはいつしか消失してしまうのではないだろうか。あるいは、久米川辻や久美泥という語以外のどこに久美、きみはいるというのだろう。やがてぼくは、書くことをやめて、どこにいるのだ久美、と叫びながら、夜の武蔵野をさようことになるのかもしれない。
それに……。
私はここで大爆笑してしまった。笑いすぎて涙が出てくるくらい。「書くのをやめて」? まあ、ことばが暴走したのだろうけれど、野村が「書くのをやめる」ということは、「また」「あるいは」ということばをつかってしまったかぎり、あり得ないじゃないか。書くことがなくなったとき(書くことにゆきづまったとき)、書くことを邪魔するものを突き破るために「また」「あるいは」はいう「論理の述語」をつかって論理を否定した以上は、その運動は止まりようがない。
止まることを拒絶したことばの運動(ことばの肉体)を追いつづけても、どこへもたどりつけない。「止まらない運動」であると指摘することしかできない。
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