崔龍源「会いにゆく」(「サラン橋」15、2015年12月27日発行)
崔龍源が何篇かの詩を書いている。そのなかに「うけいれる(うけいれてくれている)」ということばが何回か出てくる。
「あっけらかん」は「ぼく」が「ぼく」よりも大きなもの(大地、海、空)がつつみこむと言い換えることができる。「主語」は「大地、海、空」。「まなざし」「少年」は逆に「ぼく」が「主語」。書かれていないが、そう読むことができる。
「うけいれてくれている」は「うけいれられている」、つまり受け身。これに対して、「うけいれる」は能動。運動の形は反対なのだが、絶対に反対、つまり「対立する動き」という感じがしない。
「うけいれる」というのは、どういうことなのだろう。崔は「うけいれる」をどうとらえているのだろう。
「会いにゆく」の後半。
ここには「あっけらかん」と似たことばの動きがある。空や海や誰かが「ぼくをつつんでゆく」。これは空や海や誰か、「ぼく」よりも大きな存在が「ぼく」を「うけいれる」ということ。「ぼく」は「うけいれられている」ということ。このときの「うけいれられている」は「許されていた」「むくわれていた」「見守られていた」を言い直したものだとも言える。
しかし、崔の「うけいれられている」は、そんな簡単には「要約」できない。
「ぼくをつつんでゆく」(ぼくをうけいれてゆく)の前に、不思議な一行がある。「無順」することばがある。
「なかに入ってくる」は「つつむ」ではない。「なかに入ってくる」ものは逆に「つつまれる」。さらに言い直すと、「なかにつつまれる」。なにかが、入れ違っている。「主語(?)」と「補語(?)」の関係が、ねじれている。
何が起きているのか。
「入ってくる」を読み直してみる。
空や海が「ぼくのなかに入ってくる」というのは「比喩」では可能だが、現実には不可能だ。あるいは「具体的」なひろがり(大きさ)をもたないものなら可能だが、具体的な大きさをもっていて、それが「ぼく」の存在よりも大きいときは、その大きなものが小さな「ぼく」のなかに入ってくるということは不可能だ。だから「空/海」とは書かずに「青」と書いているのかもしれないが、「青」では「具体的」でありながら、どこか「抽象的」だ。「空/海」は「青」とはかぎらないし……。「誰かが入ってくる」というのも「比喩」でなら可能だが、「誰かの肉体」がそのまま「ぼくの肉体」に入ってくることはできない。「青」も、その「比喩」に似ているかもしれないなあ。
「比喩」というのは、このとき「ことばの論理」のことかもしれない。ことばでなら、そういうことができる、というだけのこと。あくまで、ことばの世界。
簡単なことばで書かれているだけに、逆にむずかしいのだが、ここでは「ことば」が「ことば」の「肉体」として動いているといえる。「ぼくの肉体」にはできないことだが、「ことばの肉体」にはできる「運動」があって、それが書かれている。「ことばの肉体」で、「ある運動(動詞)」の本質(事実)をつかみなおそうとしているだ。
これは、このままでは、「ぼく」が「入ってきたもの」を「つつみこむ」ことになる。「ぼくの内部」に「空/海/誰か」が「ある」ということになる。「ぼく」が「空/海/誰か」を「うけいれる」。
そうすると、何が起きるのか。
崔は、次の行でいきなり「そしてぼくをつつんでゆく」と書いてしまっているが、ここには「何か」を補ってみる必要がある。次の行へゆくまえに、「ぼくのなかに入ってくる」を「比喩」だと認識し、そこで「ことば」を動かしてみる必要がある。「ぼくの肉体」ではなく、「ことばの肉体」そのものを動かして、ことばがどんなふうに動けるかを確かめてみる必要がある。
「ことば肉体(論理)」としての「可能性」をみつめる。
「何か」が「ぼくのなかにはいってきた」なら、「ぼく」はそれまでの「ぼく」ではありえない。「ぼく」のなかの「何か」が変わってしまう。変わらないことには「うけいれられない」だろう。
変わってしまった「ぼく」は、どうなるのだろう。「ぼく」ではなくなる。「ぼく」ではなくなったものは、「ぼく」から除外される。これを「除外される」と「受け身」ではなく、積極的に読み直す。
「外」へ出てゆく。
「ぼくではなくなったぼく」は「外」に出てゆき、そして「ぼくをつつむ」のである。「つつむ」というのは、あくまで「外部」からの動き。「内部」からとらえると「つつまれる」。
は、
ということなのだと思う。「書かれなかったことば」が二行のあいだに動いている。「ことばの肉体」として動いている。
こういうことを崔は次のように言っている。書き直している。
「ぼくは生まれようとしている」。その「生まれたぼく」が、それ以前の「ぼく」をつつむのである。「生まれたぼく」は「ぼくでありながら/だれでもないだれか」である。まだことばになっていない「ぼく」。「生まれた」けれど、ことばとしては「未生のぼく」。
この「矛盾」が「ぼくのなかに入ってくる/そしてぼくをつつんでゆく」という「矛盾」とぶつかり、「矛盾」を帳消しにする。
「うけいれる/うけいれられる」「つつむ/つつまれる」は反対の運動だけれど、その運動は一方的な運動ではない。能動/受け身は入れ替わる。その「入れ替わる」こと、その立場の変化を、崔は「生まれる」という「動詞」でとらえ直している。「生まれる」という「動詞」なのかに「受けいれる/受けいれられる」を結びつけている。
「あす」会いにゆくのは、これから「生まれるぼく」である。「あす生まれるぼくに」会いにゆくのである。そして、その「あす生まれるぼく」というのは、「空/海/誰か」を「うけいれたぼく」である。「空/海/だれかが入ってきたぼく」である。
なんだかごちゃごちゃしてきて、めんどうになったが、「うけいれる/うけいれられる」「はいってくる(つつまれる)/つつむ」というのは、一方からだけの運動としてとらえても、運動の全体がわからない。「世界」にならない。ひとつの動きには、その反作用の動きがあり、それら絡み合って「ひとつ」になっているのだから、「うけいれる」からみつめた世界は「うけいれられる」からもみつめなおしてみることが必要なのだ。
ことばのうえでは「矛盾」した「動き」は、ふたつの方向から見つめなおすと、あたらしい「動き」もみえてくる。何かが「生まれる」。
「生まれる」と「うけいれる」が密接な関係にあること、切り離せない関係にあるとこは、最初に引用した「まなざし」でも明らかだ。
「向けられているまなざし」は「ぼくのなかに入ってくる」。それは「ぼく」を「はじらわせる」。「ぼく」は「はじらい」に変わる。「はじらい」にかわり、「はじらい」が「ぼく」から「出て行く」。「はじらい」をもって「生まれる」。そうすることで、いま自分が「ここに 在る」ということに気付く。そうすることで「ぼく」は「すべてを 受けいれる」。これは、ただ他者を「受けいれる」だけではなく「受けいれられる」(つつまれる)であり、同時に他者を「受けいれる」でもある。
ここにはことばが二重、三重に互いを浸食しあい、そうすることで「融合」し、「ひとつ」になる。何度も繰り返し、「ことばの肉体(論理)」を読み直しながら、「矛盾」を乗り越えていく。
こういう二重、三重の「読み直し/言い直し」を誘うように、詩は、ときどき不規則な「行変え」をしている。「誰かに 世界がふわっと」という一行は、「誰かに」は前の行に、「世界がふわっと」は後の行に「意味」としてつづいている。このことから作品を読み直した方がいいのかもしれないが……。またの機会にする。
さらに「矛盾」した動きについて書くと、
ここにも「受け入れる」と「返す」という逆向きの「動詞」がある。逆向きの「動詞」が「ひとつ」のように動く。そこに「世界」の連続性がある。
「姉・まりも・星・きゃべつ、その他」には次の行がある。
「生きる」は「生まれる」でもある。「死んで/生まれる」のである。「矛盾」だけが「世界」を連続させる。つまり「立体化」する。「動き」のあるものに変える。
(目が痛くなったので、後半は端折ってしまったが、そんなことを考えた。「矛盾」した「動詞」を何度も読み替えながら、新しい「ひとつ」のいのちを生み出してゆく、生まれかわってゆく運動が、世界そのものを豊かにしていく、という崔の思想/肉体を感じた。「要約」すると、そんなことになるのかなあ。)
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崔龍源が何篇かの詩を書いている。そのなかに「うけいれる(うけいれてくれている)」ということばが何回か出てくる。
大地も海も空も
ぼくをあたたかくやさしく
うけいれてくれている
ぼくをありのままに (「あっけらかん」)
向けられているまなざしに はじらい
ながらも また生まれようとする いま
ここに 在ることに気付かされたものたちよ
すべてを 受けいれるはじまりよ (「まなざし」)
海の波がはね返すひかりを どこまでも
受け入れ始めたのは そのひかりを
宙[そら]に返すすべを覚えたのは
いつのことであったろう 少年の内部にあって (「少年」)
「あっけらかん」は「ぼく」が「ぼく」よりも大きなもの(大地、海、空)がつつみこむと言い換えることができる。「主語」は「大地、海、空」。「まなざし」「少年」は逆に「ぼく」が「主語」。書かれていないが、そう読むことができる。
「うけいれてくれている」は「うけいれられている」、つまり受け身。これに対して、「うけいれる」は能動。運動の形は反対なのだが、絶対に反対、つまり「対立する動き」という感じがしない。
「うけいれる」というのは、どういうことなのだろう。崔は「うけいれる」をどうとらえているのだろう。
「会いにゆく」の後半。
許されていたのだ
むくわれていたのだ
見守られていたのだ
空の青や海の青にひそんでいる何かに
誰かに 世界にふわっと
ぼくのなかに入ってくる
そしてぼくをつつんでゆく
ここには「あっけらかん」と似たことばの動きがある。空や海や誰かが「ぼくをつつんでゆく」。これは空や海や誰か、「ぼく」よりも大きな存在が「ぼく」を「うけいれる」ということ。「ぼく」は「うけいれられている」ということ。このときの「うけいれられている」は「許されていた」「むくわれていた」「見守られていた」を言い直したものだとも言える。
しかし、崔の「うけいれられている」は、そんな簡単には「要約」できない。
「ぼくをつつんでゆく」(ぼくをうけいれてゆく)の前に、不思議な一行がある。「無順」することばがある。
ぼくのなかに入ってくる
「なかに入ってくる」は「つつむ」ではない。「なかに入ってくる」ものは逆に「つつまれる」。さらに言い直すと、「なかにつつまれる」。なにかが、入れ違っている。「主語(?)」と「補語(?)」の関係が、ねじれている。
何が起きているのか。
「入ってくる」を読み直してみる。
空や海が「ぼくのなかに入ってくる」というのは「比喩」では可能だが、現実には不可能だ。あるいは「具体的」なひろがり(大きさ)をもたないものなら可能だが、具体的な大きさをもっていて、それが「ぼく」の存在よりも大きいときは、その大きなものが小さな「ぼく」のなかに入ってくるということは不可能だ。だから「空/海」とは書かずに「青」と書いているのかもしれないが、「青」では「具体的」でありながら、どこか「抽象的」だ。「空/海」は「青」とはかぎらないし……。「誰かが入ってくる」というのも「比喩」でなら可能だが、「誰かの肉体」がそのまま「ぼくの肉体」に入ってくることはできない。「青」も、その「比喩」に似ているかもしれないなあ。
「比喩」というのは、このとき「ことばの論理」のことかもしれない。ことばでなら、そういうことができる、というだけのこと。あくまで、ことばの世界。
簡単なことばで書かれているだけに、逆にむずかしいのだが、ここでは「ことば」が「ことば」の「肉体」として動いているといえる。「ぼくの肉体」にはできないことだが、「ことばの肉体」にはできる「運動」があって、それが書かれている。「ことばの肉体」で、「ある運動(動詞)」の本質(事実)をつかみなおそうとしているだ。
ぼくのなかに入ってくる
これは、このままでは、「ぼく」が「入ってきたもの」を「つつみこむ」ことになる。「ぼくの内部」に「空/海/誰か」が「ある」ということになる。「ぼく」が「空/海/誰か」を「うけいれる」。
そうすると、何が起きるのか。
崔は、次の行でいきなり「そしてぼくをつつんでゆく」と書いてしまっているが、ここには「何か」を補ってみる必要がある。次の行へゆくまえに、「ぼくのなかに入ってくる」を「比喩」だと認識し、そこで「ことば」を動かしてみる必要がある。「ぼくの肉体」ではなく、「ことばの肉体」そのものを動かして、ことばがどんなふうに動けるかを確かめてみる必要がある。
「ことば肉体(論理)」としての「可能性」をみつめる。
「何か」が「ぼくのなかにはいってきた」なら、「ぼく」はそれまでの「ぼく」ではありえない。「ぼく」のなかの「何か」が変わってしまう。変わらないことには「うけいれられない」だろう。
変わってしまった「ぼく」は、どうなるのだろう。「ぼく」ではなくなる。「ぼく」ではなくなったものは、「ぼく」から除外される。これを「除外される」と「受け身」ではなく、積極的に読み直す。
「外」へ出てゆく。
「ぼくではなくなったぼく」は「外」に出てゆき、そして「ぼくをつつむ」のである。「つつむ」というのは、あくまで「外部」からの動き。「内部」からとらえると「つつまれる」。
ぼくのなかに入ってくる
そしてぼくをつつんでゆく
は、
ぼくは空/海/だれかをぼくの内部に受けいれ、空/海/誰かをぼくの「肉体」でつつむ
大きなものをつつむこと(うけいれること)でぼくは大きくなり
大きくなったぼくはぼくから「外部」へあふれだし
ぼくをつつんでゆく
ということなのだと思う。「書かれなかったことば」が二行のあいだに動いている。「ことばの肉体」として動いている。
こういうことを崔は次のように言っている。書き直している。
信じられる 昨日があって
今日があるということが
ぼくは生まれようとしている
ぼくはぼくでありながら
だれでもないだれか
かけがえのない誰か
あす
会いにゆく
「ぼくは生まれようとしている」。その「生まれたぼく」が、それ以前の「ぼく」をつつむのである。「生まれたぼく」は「ぼくでありながら/だれでもないだれか」である。まだことばになっていない「ぼく」。「生まれた」けれど、ことばとしては「未生のぼく」。
この「矛盾」が「ぼくのなかに入ってくる/そしてぼくをつつんでゆく」という「矛盾」とぶつかり、「矛盾」を帳消しにする。
「うけいれる/うけいれられる」「つつむ/つつまれる」は反対の運動だけれど、その運動は一方的な運動ではない。能動/受け身は入れ替わる。その「入れ替わる」こと、その立場の変化を、崔は「生まれる」という「動詞」でとらえ直している。「生まれる」という「動詞」なのかに「受けいれる/受けいれられる」を結びつけている。
「あす」会いにゆくのは、これから「生まれるぼく」である。「あす生まれるぼくに」会いにゆくのである。そして、その「あす生まれるぼく」というのは、「空/海/誰か」を「うけいれたぼく」である。「空/海/だれかが入ってきたぼく」である。
なんだかごちゃごちゃしてきて、めんどうになったが、「うけいれる/うけいれられる」「はいってくる(つつまれる)/つつむ」というのは、一方からだけの運動としてとらえても、運動の全体がわからない。「世界」にならない。ひとつの動きには、その反作用の動きがあり、それら絡み合って「ひとつ」になっているのだから、「うけいれる」からみつめた世界は「うけいれられる」からもみつめなおしてみることが必要なのだ。
ことばのうえでは「矛盾」した「動き」は、ふたつの方向から見つめなおすと、あたらしい「動き」もみえてくる。何かが「生まれる」。
「生まれる」と「うけいれる」が密接な関係にあること、切り離せない関係にあるとこは、最初に引用した「まなざし」でも明らかだ。
向けられているまなざしに はじらい
ながらも また生まれようとする いま
ここに 在ることに気付かされたものたちよ
すべてを 受けいれるはじまりよ
「向けられているまなざし」は「ぼくのなかに入ってくる」。それは「ぼく」を「はじらわせる」。「ぼく」は「はじらい」に変わる。「はじらい」にかわり、「はじらい」が「ぼく」から「出て行く」。「はじらい」をもって「生まれる」。そうすることで、いま自分が「ここに 在る」ということに気付く。そうすることで「ぼく」は「すべてを 受けいれる」。これは、ただ他者を「受けいれる」だけではなく「受けいれられる」(つつまれる)であり、同時に他者を「受けいれる」でもある。
ここにはことばが二重、三重に互いを浸食しあい、そうすることで「融合」し、「ひとつ」になる。何度も繰り返し、「ことばの肉体(論理)」を読み直しながら、「矛盾」を乗り越えていく。
こういう二重、三重の「読み直し/言い直し」を誘うように、詩は、ときどき不規則な「行変え」をしている。「誰かに 世界がふわっと」という一行は、「誰かに」は前の行に、「世界がふわっと」は後の行に「意味」としてつづいている。このことから作品を読み直した方がいいのかもしれないが……。またの機会にする。
さらに「矛盾」した動きについて書くと、
海の波がはね返すひかりを どこまでも
受け入れ始めたのは そのひかりを
宙[そら]に返すすべを覚えたのは
いつのことであったろう 少年の内部にあって
ここにも「受け入れる」と「返す」という逆向きの「動詞」がある。逆向きの「動詞」が「ひとつ」のように動く。そこに「世界」の連続性がある。
「姉・まりも・星・きゃべつ、その他」には次の行がある。
テーブルの上に 銀河のように
こぼれている塩
結晶するぼくの思念
それは死してなお生きるということ
子どもたちのなかに生きるということ
「生きる」は「生まれる」でもある。「死んで/生まれる」のである。「矛盾」だけが「世界」を連続させる。つまり「立体化」する。「動き」のあるものに変える。
(目が痛くなったので、後半は端折ってしまったが、そんなことを考えた。「矛盾」した「動詞」を何度も読み替えながら、新しい「ひとつ」のいのちを生み出してゆく、生まれかわってゆく運動が、世界そのものを豊かにしていく、という崔の思想/肉体を感じた。「要約」すると、そんなことになるのかなあ。)
遊行―詩集 | |
崔 竜源 | |
書肆青樹社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。