大山元『記憶の埋葬』(土曜美術社出版販売、2015年10月30日発行)
大山元『記憶の埋葬』は具象と抽象(概念)が交錯する。「こころの底」という作品の書き出し。
知らないことばはない。しかし、知っていることばでもない。
「眠る」という動詞は「私は眠る」という具合につかう。そのときの「私」は「こころ」と限定されていない。これ大山は「こころ」を「主語」にして、限定してしまう。
「声の渦」というのは「声が渦巻いている/見分けがつかないように動いている」ということだろうか。「声」は「耳」で聞き取る。そのときの「感じ」を用言(動詞の一種であると私は考えている)をつかって言えば「うるさい」あるいは「静かだ」ということになる。大山は、これを「まぶしさ(名詞)/まぶしい(形容詞/用言)」であらわしている。
「まぶしい」は「目」で感じるものだけれど、大山は、それを「耳」で感じている。「目」のための「用言」が「耳」の感覚を表現するのためにつかわれている。
「主語」と、それにともなって動く「用言(動詞/形容詞)」がふつうの日本語(学校教科書の日本語)と違う。そのために、そのことばを読むと、私の「肉体」は、奇妙にねじれる。刺戟を感じる。「意味」はだいたい「わかる」が、この「わかる」は「論理的」に「わかる」のではなく、「雰囲気」として「わかる」。
「誤読」かもしれない。
「こころ」のなかで「声」が渦巻いている。それが「聞こえる」だけでなく、目を刺戟してくる。目の記憶と耳の記憶が、「肉体」のどこかでつながって、それが「錯覚」を引き起こしている。耳を閉ざしても聞こえてくる「声」がある。それはまぶしすぎる光が目を閉ざしても見えるような感じかもしれない。目をつむっても、まぶしいもをの見たという記憶が網膜の奥に残るように、声が鼓膜にこびりついている。その「こびりついている」感じが交錯し、「声」なのに「まぶしい」と感じるのかもしれない。
はっきりとは言い切れないが、そういういろいろな「感じ」が「肉体」のなかで動き回る。光がぶつかりあって、さらに光るように、抑えきれない声がぶつかり、うずまき、その衝突する火花が光っている感じかもしれない。
こういう感じが、このままずーっとつづいていけば、とてもおもしろいと思う。けれど……。
「愛憎」ということばが「種明かし」のような感じで動く。「声」は「愛憎」の入り交じった「声」。
「わかりやすい」、かもしれない。
けれど、私は「わからない」と言いたい。私の「肉体」は「愛憎」ということばだけでは抽象的すぎて、動かない。
「耳/まぶしい」ということばのつながりに反応した「肉体」は、ここでは動かなくなる。かわりに「頭」が動く。
「頭」では「愛憎」とは「愛と憎しみ/相反する感情」と理解できるが、その「愛憎」の瞬間、大山の「肉体」がどんなふうに動いているか、それがわからない。最初の二行にあったような「耳」と「目」の交錯のような刺戟が「肉体」を突き動かさない。だから「わからない」。私の「肉体」は「愛憎」の「あらがい/あらがう」ということばでは、どう動いていいかわからない。「目の前」と書かれても、その「目」も実感できない。
うーん。
いまばらばらに引用した三行を、大山は、つぎのように言い直す。
「こころがねむれない」は「胸さわぎ」のため。このとき、「こころ」と「胸」は通い合う。「胸さわぎ」は「(こころの)声の渦」。それは「具体的」には言えない。「喩え/比喩」でしか言えない。つまり、何か別なものをとおしてしか言えない。
で、ここからが、大山の特徴。
比喩は何かを別なものをとおして言うこと。「美女」を「花」と呼ぶとき、その「花」という比喩(喩え)は「美女」とは別のものだね。こういうとき、「比喩」は「花」のように「具体的な存在」であることが多いのだが、大山は「具体的な存在」をつかわない。具体的ではないものをとおる。
突然、抽象的に「考え」を語ってしまう。「概念」へ行ってしまう。これをさらに
「直接のことば」とは「概念」である。「花」とか「目」とか「耳」とかは、大山にとっては「直接のことば」ではない。「時代の感性」とか「情念」とかいう「抽象語」が大山にとっては「直接のことば」なのだ。
何に「直接」なのか。何と「直に/接している」のか。
「頭」だね。
「花」も「目」も「耳」も「頭の外」にある。でも「概念」は「頭の中(内)」にある。大山は「頭の外」にあるものと「頭の内」にあるものを別個に考えている。そして「頭の内」を優先させている。
「肉体」に邪魔されず(?)、「頭」と直結したことばなら、「こころの底」で起きていることが見える。それは「具体的」なものを借りて語ろうとすると「間違い」になる、と大山は感じているのだと思う。
これは逆に言い直せば、私たちが肉体(目や耳、手など)でつかみとっている世界は誤謬に満ちている、ということ。そういう世界を「頭(概念/抽象)」で整理し直したものが正しいということ。「頭」が「正しい/間違い」を判断するということになる。
あ、これは私の要約。
大山なら、そんなふうに言わずに、概念/抽象のことばで世界を整理し直した方が、世界がわかりやすい。合理的な世界は概念/抽象によって整理されているからこそ、人間になじみやすい。人間は概念/抽象によって世界を整理することで、美しく生きている、ということになるかもしれない。
「こころ」というごちゃごちゃした世界も、概念/抽象で整理すると美しい「抒情」になる--ごちゃごちゃした「こころ」を概念/抽象のことばで整理し、「頭」とってわかりやすい形にしたのが詩、抒情詩。
そのとおりにことば実践された作品群であると思う。
あとは「好き嫌い」の問題。
という鮮やかな一行もあるけれど、うーん、この一行剽窃してみたいなあという欲望に襲われたりするけれど、一方で、世界を概念/抽象で整理するなんて、古くさくていやだなあとも感じてしまう。
私の「好み」はもっと「肉体」に結びついたことばである、としか言えない。
きちんと書かれてるから、わかるし、けっして「嫌い」ではない。でも「好き」とは言えないなあ……。
いま触れた「こころの底」のような行分け詩のほかに、大山は散文形式の詩も書いている。「ラオ先生」。散文形式は、散文に近いだけあって概念や抽象となじみやすい。事実の本質を抽象化しながら、抽象でしかたどりつけない「論理的結論」をつかむこと、「現実の底にある真理」をつかみ出すことが散文の仕事である。そういうことばの運動の方が、山本のことばを落ち着かせているように感じた。
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大山元『記憶の埋葬』は具象と抽象(概念)が交錯する。「こころの底」という作品の書き出し。
こころがねむれないのは
声の渦のまぶしさのためではなく
知らないことばはない。しかし、知っていることばでもない。
「眠る」という動詞は「私は眠る」という具合につかう。そのときの「私」は「こころ」と限定されていない。これ大山は「こころ」を「主語」にして、限定してしまう。
「声の渦」というのは「声が渦巻いている/見分けがつかないように動いている」ということだろうか。「声」は「耳」で聞き取る。そのときの「感じ」を用言(動詞の一種であると私は考えている)をつかって言えば「うるさい」あるいは「静かだ」ということになる。大山は、これを「まぶしさ(名詞)/まぶしい(形容詞/用言)」であらわしている。
「まぶしい」は「目」で感じるものだけれど、大山は、それを「耳」で感じている。「目」のための「用言」が「耳」の感覚を表現するのためにつかわれている。
「主語」と、それにともなって動く「用言(動詞/形容詞)」がふつうの日本語(学校教科書の日本語)と違う。そのために、そのことばを読むと、私の「肉体」は、奇妙にねじれる。刺戟を感じる。「意味」はだいたい「わかる」が、この「わかる」は「論理的」に「わかる」のではなく、「雰囲気」として「わかる」。
「誤読」かもしれない。
「こころ」のなかで「声」が渦巻いている。それが「聞こえる」だけでなく、目を刺戟してくる。目の記憶と耳の記憶が、「肉体」のどこかでつながって、それが「錯覚」を引き起こしている。耳を閉ざしても聞こえてくる「声」がある。それはまぶしすぎる光が目を閉ざしても見えるような感じかもしれない。目をつむっても、まぶしいもをの見たという記憶が網膜の奥に残るように、声が鼓膜にこびりついている。その「こびりついている」感じが交錯し、「声」なのに「まぶしい」と感じるのかもしれない。
はっきりとは言い切れないが、そういういろいろな「感じ」が「肉体」のなかで動き回る。光がぶつかりあって、さらに光るように、抑えきれない声がぶつかり、うずまき、その衝突する火花が光っている感じかもしれない。
こういう感じが、このままずーっとつづいていけば、とてもおもしろいと思う。けれど……。
目の前の愛憎に強くあらがうためでもない
「愛憎」ということばが「種明かし」のような感じで動く。「声」は「愛憎」の入り交じった「声」。
「わかりやすい」、かもしれない。
けれど、私は「わからない」と言いたい。私の「肉体」は「愛憎」ということばだけでは抽象的すぎて、動かない。
「耳/まぶしい」ということばのつながりに反応した「肉体」は、ここでは動かなくなる。かわりに「頭」が動く。
「頭」では「愛憎」とは「愛と憎しみ/相反する感情」と理解できるが、その「愛憎」の瞬間、大山の「肉体」がどんなふうに動いているか、それがわからない。最初の二行にあったような「耳」と「目」の交錯のような刺戟が「肉体」を突き動かさない。だから「わからない」。私の「肉体」は「愛憎」の「あらがい/あらがう」ということばでは、どう動いていいかわからない。「目の前」と書かれても、その「目」も実感できない。
うーん。
いまばらばらに引用した三行を、大山は、つぎのように言い直す。
胸さわぎするかがみのまえにたたずみ
こころの切実なかたまりを伝えるのに
思ったことを喩えでしか言えないためだ
「こころがねむれない」は「胸さわぎ」のため。このとき、「こころ」と「胸」は通い合う。「胸さわぎ」は「(こころの)声の渦」。それは「具体的」には言えない。「喩え/比喩」でしか言えない。つまり、何か別なものをとおしてしか言えない。
で、ここからが、大山の特徴。
比喩は何かを別なものをとおして言うこと。「美女」を「花」と呼ぶとき、その「花」という比喩(喩え)は「美女」とは別のものだね。こういうとき、「比喩」は「花」のように「具体的な存在」であることが多いのだが、大山は「具体的な存在」をつかわない。具体的ではないものをとおる。
喩えは時代の感性に深くまどろむから
情念は時の急な変化にたえられない
突然、抽象的に「考え」を語ってしまう。「概念」へ行ってしまう。これをさらに
網膜の青空にはっきり見たいこころの底は
直接のことばでしか見えはしない
「直接のことば」とは「概念」である。「花」とか「目」とか「耳」とかは、大山にとっては「直接のことば」ではない。「時代の感性」とか「情念」とかいう「抽象語」が大山にとっては「直接のことば」なのだ。
何に「直接」なのか。何と「直に/接している」のか。
「頭」だね。
「花」も「目」も「耳」も「頭の外」にある。でも「概念」は「頭の中(内)」にある。大山は「頭の外」にあるものと「頭の内」にあるものを別個に考えている。そして「頭の内」を優先させている。
「肉体」に邪魔されず(?)、「頭」と直結したことばなら、「こころの底」で起きていることが見える。それは「具体的」なものを借りて語ろうとすると「間違い」になる、と大山は感じているのだと思う。
これは逆に言い直せば、私たちが肉体(目や耳、手など)でつかみとっている世界は誤謬に満ちている、ということ。そういう世界を「頭(概念/抽象)」で整理し直したものが正しいということ。「頭」が「正しい/間違い」を判断するということになる。
あ、これは私の要約。
大山なら、そんなふうに言わずに、概念/抽象のことばで世界を整理し直した方が、世界がわかりやすい。合理的な世界は概念/抽象によって整理されているからこそ、人間になじみやすい。人間は概念/抽象によって世界を整理することで、美しく生きている、ということになるかもしれない。
「こころ」というごちゃごちゃした世界も、概念/抽象で整理すると美しい「抒情」になる--ごちゃごちゃした「こころ」を概念/抽象のことばで整理し、「頭」とってわかりやすい形にしたのが詩、抒情詩。
そのとおりにことば実践された作品群であると思う。
あとは「好き嫌い」の問題。
疲れた沈黙は闇のかがみの裏に落ちる
という鮮やかな一行もあるけれど、うーん、この一行剽窃してみたいなあという欲望に襲われたりするけれど、一方で、世界を概念/抽象で整理するなんて、古くさくていやだなあとも感じてしまう。
私の「好み」はもっと「肉体」に結びついたことばである、としか言えない。
きちんと書かれてるから、わかるし、けっして「嫌い」ではない。でも「好き」とは言えないなあ……。
いま触れた「こころの底」のような行分け詩のほかに、大山は散文形式の詩も書いている。「ラオ先生」。散文形式は、散文に近いだけあって概念や抽象となじみやすい。事実の本質を抽象化しながら、抽象でしかたどりつけない「論理的結論」をつかむこと、「現実の底にある真理」をつかみ出すことが散文の仕事である。そういうことばの運動の方が、山本のことばを落ち着かせているように感じた。
記憶の埋葬―詩集 | |
大山 元 | |
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