詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」

2015-12-07 08:50:21 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」(「ココア共和国」18、2015年12月01日)

 秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」に、

わたしがわたしでしかない可能性と

 という行がある。これは、とてもおもしろい。
 「わたしでしかない」は「わたしである」の強調形である。「わたしであるしかない」その「ある」が省略されているのかもしれない。わたし以外のものでは「ありえない」と言い換えることもできる。
 「ある」を強調するのに「ない」という反対のことばがつかわれるのが、とてもおもしろい。
 で、その強調を読んだあと、

わたしがわたしでなかった可能性は

 とつづけられると、ちょっと錯乱する。この「なかった」はそのまのの「ない」。強調形ではない。
 その二行が対になり、

わたしがわたしでしかない可能性と
わたしがわたしでなかった可能性は

 と並ぶとき、「ない」「なかった」が、「ある」と「ない」の対比ではなく、「現在形(ない)」と「過去形(なかった)」の比較のようにも見えてしまう。
 「意味」を考えると「ない」と「なかった」は「現在形/過去形」の比較ではないことがあきらかだけれど、「音」そのもののなかで、「現在形/過去形」のように響いてしまう。
 で、そう感じた瞬間。
 「音」が秋亜綺羅にとっての「肉体」なのだ、ということがわかる。
 「意味」というのは、ことばが連続してつくりあげるもの。そのことばが連続してつくりあげるものを、連続から開放する。連続を解体する。そのときにあらわれる「無意味」を秋亜綺羅は詩と呼ぶのだが、この「連続を解体する」ものが「音」なのである。
 「音」のなかで、本来の「意味」とは別のものがまじりあい、分かれてゆく。
 ある存在にふれて、たとえば目と耳がぶつかり、入れ替わるように動詞が分かれてゆくときがある。すばらしい「絵」を「目」で見て、その瞬間、音楽が「聞こえる」と感じる。「目」で「音楽」を聞くのだ。あるいは音楽を「耳」で聞いて、美しい風景画「見える」と感じる。「耳」で「風景」を見るのだ。目が目から離れて、「聞く」へ動いていく。耳になる。耳が耳から離れて、「見る」へ動いてゆき、目になる。
 「肉体」のなかで「目」と「耳」の働きが入り交じってしまうように、「音」のなかで別々の意味(反対の意味)が入り交じり、それから違った方へ分かれていく。そういう印象が秋亜綺羅のことばにはある。
 この「音のなかで」というのは、言い直すと「肉体」を介さずに、ということにつながる。
 だから、といっていいのかどうか、まあ、いいかげんなのだけれど。

わたしがわたしでしかない可能性と
わたしがわたしでなかった可能性は

どっちも同じ大きさだったよね、たぶん
どっちにしたって宇宙なんかに閉じ込められて、さ

 ふたつの「可能性」を引き受ける「動詞」に「肉体」がからんでこない。「だった(である)」という「状態」をあらわす「動詞」がそこにあるだけだ。「肉体」がからんでこないので、「わたし」との関係があいまいになる。古人性があいまいになる。個人的な体験による意味ではなく、「一般的な意味(論理)」だけが動く。
 この個人的な体験(肉体)と関係ない「純粋意味」というものは変なもの手ある。
 「わたし(の肉体)」とは関係がないので「どっちも同じ」という感じ、どっちにしたって「わたし(の肉体)」には影響がない。「わたし」の問題なのに、「わたし」の問題ではなくなって、単なる「論理」のうえでの問題になってしまう。
 こういうところで、私は秋亜綺羅の詩につまずいてしまう。
 「ことば」は「論理」の問題だけでいいのか。「ことば」と「肉体」は密接に関係していなくていいのか。「肉体」と無関係なことばを人はどうやって引き受けることができるのか。消化することができるか。そういうことを秋亜綺羅に問いかけたくなるのである。
 「宇宙なんかに閉じ込められて」には「閉じ込められる」という「肉体」に関係することばが出てくるが、受け身の、身動きのとれない「動詞」では、どうにも「肉体」で引き受けようがない。「宇宙に閉じ込められて」も「閉じ込められて」も、「肉体」は少しも苦痛を感じていない。「宇宙に閉じ込められ」る前に、「地球」に閉じ込められている。「宇宙」はその外側。「肉体」ではふれることのできない「概念」になってしまっている。単なる「論理」だから、それがどんな結果になろうと、「どっちも同じ」「どっちにしたって無関係」ということになる。
 「論理」にとっては、「結論」がどっちであるにしろ、どちらが正しい/まちがっている、ということがないのだ。正しかろうが、まちがっていようが「論理」であり「結論」である。
 この「結論」の無責任さについては、私は秋亜綺羅の考えに大賛成なのだが、そこに「肉体」がからんでこないので、その「大賛成」は「頭」がそういっているだけで、「大反対」とかわりがない。「大賛成」も「大反対」も、「どっちも同じ」。
 これは「絶対的な軽さ」と言い換えうるか、どうか。考えてみないといけないが、きっと、わけがわからなくなるだけだな。

 「肉体」のない、「頭」の「論理」ということに、うまくつながらないのだが、そこのとこにつないで読みたい行がある。書き出しである。

臨界に達した、って達しちゃったんだぉね
わたし愛されちゃったかも、ってされちゃったんだぉね

 ここには「動詞」が出てくる。「達した(達する)」「愛された(愛する)」。そして、それは繰り返される。「達した/達しちゃった」「愛されちゃった/(愛)されちゃった」。「愛されちゃった」が繰り返されるとき「愛」が省略されている。省略しようと思えば「達した」は「しちゃった」でいいのだけれど、「達する」の方は、動詞の「語幹」がついている。「愛されちゃった/されちゃった」では「語幹」が消えているのに……。 「愛されちゃった/されちゃった」の繰り返しは「語幹」が消えた分だけ、なんだか「肉体」から切り離されて、暴走している感じがする。これがさらに「音」のなかでの入り乱れ、という印象を強くする。そう感じた。
 もし強引に「肉体」を持ち込んでみると、「達する」「(愛)されちゃった」は「肉体」の個別的な部分(手とか、足とか、目とか)ではなく「肉体」全体である。区分できない全体。「達した」「されちゃった」は「愛」ということばの影響もあって、セックスを想像させるが、そのセックスは性器の結合のことではなくて、「肉体全体」のことである。「どこ」が達して、「どこ」がされちゃったのかは、言えない。個別な部分は無関係。「肉体全体」が「達し、されちゃった」のである。
 個別な「肉体」と、その部分にふさわしい個別の「動詞」をとおさずに、「肉体全体」と「ことば」が交流する。これを「音」が「肉体全体」をつつむ、と言い直すと秋亜綺羅の詩の入り口になるか。
 よくわからないが、そんなことを考えた。

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