日原正彦「山茶花」(「橄欖」100 、2015年12月20日発行)
日原正彦「山茶花」について、私は何が書けるだろうか。
白い山茶花
おいしい!
といって 目が食べはじめたので
白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう
「目が食べはじめた」がおもしろい。そして、そのことばが「おいしい!」という、とっさに出てくる「肉体」の反応からはじまるのも、いいなあ。「おいしい!」と言ってしまったあと、それを「目が食べはじめた」と言い直している。反芻している。この瞬間的な「往復運動」のようなことばの動きがとてもおもしろい。
でも、「白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう」という一行はうさんくさい。特に「ぼんやり」が、なんともいえず気持ちが悪い。
ここから、私は「おもしろい」という感想ではなく、いつものように「気持ちが悪い」という感想を書きたくなる。日原正彦のことばは猛烈に気持ちが悪い。
どういうことか。
ことばを言い直しながら繰り返すと、ことばはさらに変わっていく。
それが、これから引用する部分。
こころは 驚いて消化液を出しはじめる
こなれていくのだろうか
ことばに届くのだろうか
ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる
「ぼんやり佇んでいる」は「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と言い直されているのだが、その「言い直し(繰り返し)」までのあいだにはさまれたことばに、気持ち悪さがつまっている。
こころは 驚いて消化液を出しはじめる
この行の「消化液を出しはじめる」というのは「肉体」の動きである。でも、「消化液を出す」というのは、自分ではどうすることもできない「肉体の動き」。「肉体」が勝手に動いていることであって、自分の意思で「消化液を出している」わけではない。「出している」かどうか、わからない。しかも、「消化液」なんて、私は自分で見たことがない。「頭」で、そう「知っている」だけである。
この行で動いているのは「肉体」ではない。「知識」である。「頭」である。
「頭」が「おいしい! 」と「目が食べはじめた」を「正しく」ととのえようとしている。「正しく」とことわったのは、「目が食べる」とは「学校文法」ではいわないからである。「目が食べる」はまちがったことばのつかい方だからである。この「まちがい」を「頭」で「正しくととのえる」という動きが、私には、とても気持ち悪く感じられる。
そこに、さらに「こころ」ということばも加わってくる。
「こころ」なんて、どこにあるんだ、と私は怒鳴りたくなる。
目が山茶花を食べて、おいしい、と言ったのなら「目」にこそが「こころ」がある、「目」が「こころ」なのではないのか。(補註、参照)わざわざ「抽象的」なことばで言い直す必要がないのではないか。こんなふうに「抽象的」な思考をすること(抽象的に言い直すこと)を、きっと「頭がいい」と思っているんだろうなあ。まあ、日原は「頭がいい」のかもしれないけれど、この「頭」優先の思想が、私には気持ち悪い。
「こなれていくのだろうか」は「消化液」をひきついだ「ことばの肉体」の運動。だから、それはそれでいいのだが、
ことばに届くのだろうか
なんだ、これは。
「おいしい!」と叫んでいたではないか。「おいしい!」はことばではないのか。
感嘆というか、瞬間的に出てしまうことばは、日原にとってはことばではないのだ。日原にとってことばとは、「頭」で「正しくととのえられた」ものなのだ。
日原にとって「おいしい!」も「目が食べはじめた」もことばではない。
だから「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と繰り返す。
このあと、これではおかしいと思ったのか、ことばは別な言い直しをこころみる。
いやことばを失ったからこそ
こなれていくのだ
こなれていくとても気持ちよくこなれていく
まだ「消化液」にこだわって「頭」でことばを動かしているが、「こなれていく」ということばを繰り返すことで、「消化液」に飽きてしまったのか、ことばが突然変わる。「肉体」が再び出てくる。
目は両眼ともまっしろな汗をかいてみひらいている
これは、とても「変」な日本語。「学校文法」からみれば「目が食べる」と同じくらいに「まちがっている」。目は汗などかかない。でも、「まちがっている」からこそ、そのことばは「肉体」で直接つかみとるしかない。「汗をかく」とき「肉体」の動きと「目」を重ねて、「目」が一生懸命になっているのを感じ取るしかない。
で、強引に、目と、「汗をかくときの肉体」のあり方を重ねると、
と
はっとして
山茶花 しろい
とつぶやいてしまう
この、ぽつんぽつんと、ばらばらに吐き出されたことば。深い「意味」をもたないことばの羅列。
「深い意味」というのは、まあ、「頭で考えないとわからない意味」くらいの意味だけれど……。
で、これが、最初の「おいしい!」と同じように、「頭」を経由しないで出てきているので、美しいなあと思う。俳句の「遠心/求心」のように「しろい」ということばが強く結晶している。
書き出しの「白い山茶花」が「山茶花 しろい」と言い直されている。「主役」が「山茶花」から「しろい」に動いてきている。
「しろい」というのは「形容詞」なのだが、私は「形容詞」を「用言」としてつかみなおしたい。
「しろい」は「白」という「名詞」の形で存在している「状態/変化しない固定のもの」ではなく、「しろくなる」ということなのだ。ほかの「色」でありうるのだが、いま/ここに「しろくなって、あらわれている」それが、「山茶花 しろい」という一行のあらわしている世界なのである。
でも、「しろくなって、あらわれている/あらわれる」ために、まあ、日原は、「こころは 驚いて消化液を出しはじめる」という行からのことばの動きが必要だったと言い張るだろうなあ。
それは、とてもよくわかる。
だけれど、わかるからこそ、その「白い山茶花」から「山茶花 しろい」への変化の過程に「おいしい!」「目が食べはじめている」ということば以外の「頭」が入り込んでくるところが、邪魔でしようがない。
うるさい。
「頭がいい」ことなんか、詩以外でやってくれ、と思ってしまう。
詩は、このあとさらに一連(二行)あるのだが、それについて書くと、また怒り出しそうなので、ここでやめる。むかむかしてしまうので、やめる。
(補註)「こころ」は「目が食べはじめる」のうよに、ある肉体が別の肉体の働きをするときの「結合部」にあらわれてくるもの、と私はつかみとっている。「耳で音楽の色を感じる」とか「色に音楽を聴く」とかは、多くのひとが言うが、そのときの「学校文法」から逸脱した「肉体」と「動詞」の関係のなかにあらわれてくる。そのときそのときで「ありか」も「あり方」も違ってくる動き、存在の場も、働きも特定できないのが「こころ」だと思う。それは「ことば」の言い直しの瞬間に、より鮮明になる。だから私は、「言い直し」と「動詞」に注目して詩を読む。
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