詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日原正彦「山茶花」

2015-12-27 14:20:34 | 詩(雑誌・同人誌)

日原正彦「山茶花」(「橄欖」100 、2015年12月20日発行)

 日原正彦「山茶花」について、私は何が書けるだろうか。

白い山茶花

おいしい!
といって 目が食べはじめたので
白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう

 「目が食べはじめた」がおもしろい。そして、そのことばが「おいしい!」という、とっさに出てくる「肉体」の反応からはじまるのも、いいなあ。「おいしい!」と言ってしまったあと、それを「目が食べはじめた」と言い直している。反芻している。この瞬間的な「往復運動」のようなことばの動きがとてもおもしろい。
 でも、「白い山茶花の前でぼんやり佇んでしまう」という一行はうさんくさい。特に「ぼんやり」が、なんともいえず気持ちが悪い。
 ここから、私は「おもしろい」という感想ではなく、いつものように「気持ちが悪い」という感想を書きたくなる。日原正彦のことばは猛烈に気持ちが悪い。
 どういうことか。
 ことばを言い直しながら繰り返すと、ことばはさらに変わっていく。
 それが、これから引用する部分。

こころは 驚いて消化液を出しはじめる
こなれていくのだろうか
ことばに届くのだろうか

ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる

 「ぼんやり佇んでいる」は「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と言い直されているのだが、その「言い直し(繰り返し)」までのあいだにはさまれたことばに、気持ち悪さがつまっている。

こころは 驚いて消化液を出しはじめる

 この行の「消化液を出しはじめる」というのは「肉体」の動きである。でも、「消化液を出す」というのは、自分ではどうすることもできない「肉体の動き」。「肉体」が勝手に動いていることであって、自分の意思で「消化液を出している」わけではない。「出している」かどうか、わからない。しかも、「消化液」なんて、私は自分で見たことがない。「頭」で、そう「知っている」だけである。
 この行で動いているのは「肉体」ではない。「知識」である。「頭」である。
 「頭」が「おいしい! 」と「目が食べはじめた」を「正しく」ととのえようとしている。「正しく」とことわったのは、「目が食べる」とは「学校文法」ではいわないからである。「目が食べる」はまちがったことばのつかい方だからである。この「まちがい」を「頭」で「正しくととのえる」という動きが、私には、とても気持ち悪く感じられる。
 そこに、さらに「こころ」ということばも加わってくる。
 「こころ」なんて、どこにあるんだ、と私は怒鳴りたくなる。
 目が山茶花を食べて、おいしい、と言ったのなら「目」にこそが「こころ」がある、「目」が「こころ」なのではないのか。(補註、参照)わざわざ「抽象的」なことばで言い直す必要がないのではないか。こんなふうに「抽象的」な思考をすること(抽象的に言い直すこと)を、きっと「頭がいい」と思っているんだろうなあ。まあ、日原は「頭がいい」のかもしれないけれど、この「頭」優先の思想が、私には気持ち悪い。
 「こなれていくのだろうか」は「消化液」をひきついだ「ことばの肉体」の運動。だから、それはそれでいいのだが、

ことばに届くのだろうか

 なんだ、これは。
 「おいしい!」と叫んでいたではないか。「おいしい!」はことばではないのか。
 感嘆というか、瞬間的に出てしまうことばは、日原にとってはことばではないのだ。日原にとってことばとは、「頭」で「正しくととのえられた」ものなのだ。
 日原にとって「おいしい!」も「目が食べはじめた」もことばではない。
 だから「ことばを失ったまままだ呆然と佇んでいる」と繰り返す。
 このあと、これではおかしいと思ったのか、ことばは別な言い直しをこころみる。

いやことばを失ったからこそ
こなれていくのだ

こなれていくとても気持ちよくこなれていく

 まだ「消化液」にこだわって「頭」でことばを動かしているが、「こなれていく」ということばを繰り返すことで、「消化液」に飽きてしまったのか、ことばが突然変わる。「肉体」が再び出てくる。

目は両眼ともまっしろな汗をかいてみひらいている

 これは、とても「変」な日本語。「学校文法」からみれば「目が食べる」と同じくらいに「まちがっている」。目は汗などかかない。でも、「まちがっている」からこそ、そのことばは「肉体」で直接つかみとるしかない。「汗をかく」とき「肉体」の動きと「目」を重ねて、「目」が一生懸命になっているのを感じ取るしかない。
 で、強引に、目と、「汗をかくときの肉体」のあり方を重ねると、


はっとして

山茶花 しろい

とつぶやいてしまう

 この、ぽつんぽつんと、ばらばらに吐き出されたことば。深い「意味」をもたないことばの羅列。
 「深い意味」というのは、まあ、「頭で考えないとわからない意味」くらいの意味だけれど……。
 で、これが、最初の「おいしい!」と同じように、「頭」を経由しないで出てきているので、美しいなあと思う。俳句の「遠心/求心」のように「しろい」ということばが強く結晶している。
 書き出しの「白い山茶花」が「山茶花 しろい」と言い直されている。「主役」が「山茶花」から「しろい」に動いてきている。
 「しろい」というのは「形容詞」なのだが、私は「形容詞」を「用言」としてつかみなおしたい。
 「しろい」は「白」という「名詞」の形で存在している「状態/変化しない固定のもの」ではなく、「しろくなる」ということなのだ。ほかの「色」でありうるのだが、いま/ここに「しろくなって、あらわれている」それが、「山茶花 しろい」という一行のあらわしている世界なのである。
 でも、「しろくなって、あらわれている/あらわれる」ために、まあ、日原は、「こころは 驚いて消化液を出しはじめる」という行からのことばの動きが必要だったと言い張るだろうなあ。
 それは、とてもよくわかる。
 だけれど、わかるからこそ、その「白い山茶花」から「山茶花 しろい」への変化の過程に「おいしい!」「目が食べはじめている」ということば以外の「頭」が入り込んでくるところが、邪魔でしようがない。
 うるさい。
 「頭がいい」ことなんか、詩以外でやってくれ、と思ってしまう。
 詩は、このあとさらに一連(二行)あるのだが、それについて書くと、また怒り出しそうなので、ここでやめる。むかむかしてしまうので、やめる。

(補註)「こころ」は「目が食べはじめる」のうよに、ある肉体が別の肉体の働きをするときの「結合部」にあらわれてくるもの、と私はつかみとっている。「耳で音楽の色を感じる」とか「色に音楽を聴く」とかは、多くのひとが言うが、そのときの「学校文法」から逸脱した「肉体」と「動詞」の関係のなかにあらわれてくる。そのときそのときで「ありか」も「あり方」も違ってくる動き、存在の場も、働きも特定できないのが「こころ」だと思う。それは「ことば」の言い直しの瞬間に、より鮮明になる。だから私は、「言い直し」と「動詞」に注目して詩を読む。




 

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モフセン・マフマルバフ監督「独裁者と小さな孫」(★★)

2015-12-27 11:17:19 | 映画
監督 モフセン・マフマルバフ 出演 ミシャ・ゴミアシュビリ、ダチ・オルウェラシュビリ、グジャ・ブルデュリ

 冒頭、イルミネーションで飾られた道路のシーンが、嘘っぽいくらいに美しい。いや、嘘だから美しいと言い直した方がいいかも。
 で。
 全編、その嘘が貫かれる。
 クーデターが起き、国外逃亡のチャンスを逃した大統領と孫が国内を逃げ回る。逃げ回りながら、国内の「事実」を見る。
 大統領ひとりなら、「見える事実」は違ったものになるだろう。孫がいるために、どうしても「事実」が美しさを含むものにととのえられてしまう。「スター・ウォーズ」に血が出て来ないように、この映画でも血は出て来ない。傷跡(拷問の跡)に血はにじみ出しているが、血が流れ、それが原因で人間が死ぬというようなシーンはない。死ぬときも血は流さない。
 この嘘に輪をかけるのが、ストーリーのなかで描かれるもう一つの嘘である。逃亡するとき、身元がわからないように変奏をする。二人は「旅芸人」を装う。大統領がギターを弾き、孫が踊る。さらにその孫は少年なのだが、少女に変奏する。
 「音楽」というものは何か人間の「根源」に触れるものを含んでいる。「音楽」には「民衆の肉体/思想」が基本にある。「音楽」を奏でるとき、大統領は大統領ではなく「ひとりの国民」になって、「民衆」にとけこんでゆく。「音楽」を奏でる「旅芸人」だから、「民衆」にまぎれこむことができる。
 ここに、開放された政治犯(?)のミュージシャンが加わる。あるいは、そのミュージシャンのおかげで、大統領と孫は「民衆」に「溶け込む」(受け入れられる)というべきか。
 うーん。
 「意味」はわかるが、嘘っぽい。
 孫が知っている(いつも聞いている音楽)は「民衆の音楽」でもないし、大好きな少女と踊るダンスも「民衆のダンス」ではない。孫の「肉体」は「民衆」を知らない。その孫が、この映画に描かれるように動くとは思えない。
 一か所、孫の素性がばれそうになるシーンがある。検問のとき、「大統領の音楽」が流れる。すると、孫の「肉体」は音楽にあわせ、動き出す。「民衆の音楽」ではなく、肉体にしみついた「大統領の音楽」だからこそ、肉体が無意識に動く。この「無意識」が「思想」である。いつものように敬礼しながら、歩きはじめる。ここは、この映画で唯一の「ほんとう/思想」が描かれたシーンといえるが、その「ほんとう」はすぐに嘘にとってかわられる。孫は、ばれる寸前になって、「あっ、自分は大統領の孫ではなく、知らないおばさんの娘なのだ」と思い出し、おばさんのところにもどり、服をつかみながら、パンをくわえる。おばさんは、その子どもを知らないのだが、あどけない「少女」であるがゆえに、その嘘を受け入れる。
 あ、何か、いや感じ。
 「民衆」が嘘を受け入れた、だから観客も嘘を受け入れて映画を見なさい、と言われているような気分だなあ。
 この検問のシーン、孫が大統領の音楽にあわせて無意識に動くのを見た大統領は、必死になって孫に合図を送る。踊るな、おばさんのところへ戻れ。大統領の「ほんとう」があらわれる一瞬である。こういう動き(ほんとうの動き)というのは、どうしても目立つ。この動き(ほんとう)に検問をしている兵士が気付くなんてことはありえない。でも、だれも気付かない。
 ここでも、映画なんだから、嘘を受け入れろ、と言われているのである。
 さらに、このあと、政治犯が家にたどりついてみたら、妻は別の男と結婚していて、赤ん坊まで生まれている。(「ひまわり」だね。)それを知って、男は自殺するのだが、死ぬしかない男の絶望(ほんとう/思想)が、絵に描いたような嘘に見えてしまう。
 検問の孫と大統領のシーンの影響だなあ。
 さらに、このあと大統領と孫の身元がばれ、つかまり、絞首刑にされそうになる。そのとき起きるあれこれ、「報復は解決にならない」という「ことばの主張」が展開されるのだが、この「ほんとう」にならなければならない「ことば」が、どうも嘘っぽい。映画を終わるための嘘としか感じられない。「真実」として胸に迫ってこない。
 ファンタジーなのだから、これでいいのかもしれないが。
 「肉体」をほうりだして、「ことば」だけが「結論」になってしまうのでは、「映画」にする必要はないなあ、と思う。
                      (KBCシネマ2、2015年12月23日)




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