詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-39)

2017-06-08 11:25:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-39)(2017年06月08日)

77 *(忘却ということのなかに)

忘却ということのなかに
記憶は小さな領土を持つ

 この二行も、読んでいるうちにことばが入れ換わる。「忘却」と「記憶」がすれ違う。

記憶ということのなかに
忘却は小さな領土を持つ

 「忘却」は「記憶」が前提だからかもしれない。「おぼえている」から「忘れる」がある。「忘れる」が先にあって「おぼえる」がやってくるからではない。
 不思議なことに、「忘却」は「記憶」がなくなることではない。「思い出せない」のだけれど「おぼえている」感覚がある。
 「忘れよう」としても「忘れられない」「思い出さずにはいられない」ということも、誰もが経験する。
 「忘却」と「記憶」は、相対化し、固定化できないものである。
 愛している人についてなら、なおさら「記憶」と「忘却」は区別できない。

78 *(その他は余分だ)

これから先きどのように生きようと
どこにもカンマもなければピリオドもない

 なぜ「カンマ」「ピリオド」なのか。「読点」「句点」ではないのか。意味としては同じ。「読点」「句点」の方が日本語らしい。「肉体」に無意識にはりついてくる。
 「カンマ」「ピリオド」という軽い音で、向き合っているものを「対象化」しようとしているのかもしれない。

つづきつ放しだ

 切実な「つづく」感じ。それを何とか切り離し、対象化しようとしているか。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


コメント
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