「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-39)(2017年06月08日)
77 *(忘却ということのなかに)
この二行も、読んでいるうちにことばが入れ換わる。「忘却」と「記憶」がすれ違う。
「忘却」は「記憶」が前提だからかもしれない。「おぼえている」から「忘れる」がある。「忘れる」が先にあって「おぼえる」がやってくるからではない。
不思議なことに、「忘却」は「記憶」がなくなることではない。「思い出せない」のだけれど「おぼえている」感覚がある。
「忘れよう」としても「忘れられない」「思い出さずにはいられない」ということも、誰もが経験する。
「忘却」と「記憶」は、相対化し、固定化できないものである。
愛している人についてなら、なおさら「記憶」と「忘却」は区別できない。
78 *(その他は余分だ)
なぜ「カンマ」「ピリオド」なのか。「読点」「句点」ではないのか。意味としては同じ。「読点」「句点」の方が日本語らしい。「肉体」に無意識にはりついてくる。
「カンマ」「ピリオド」という軽い音で、向き合っているものを「対象化」しようとしているのかもしれない。
切実な「つづく」感じ。それを何とか切り離し、対象化しようとしているか。
77 *(忘却ということのなかに)
忘却ということのなかに
記憶は小さな領土を持つ
この二行も、読んでいるうちにことばが入れ換わる。「忘却」と「記憶」がすれ違う。
記憶ということのなかに
忘却は小さな領土を持つ
「忘却」は「記憶」が前提だからかもしれない。「おぼえている」から「忘れる」がある。「忘れる」が先にあって「おぼえる」がやってくるからではない。
不思議なことに、「忘却」は「記憶」がなくなることではない。「思い出せない」のだけれど「おぼえている」感覚がある。
「忘れよう」としても「忘れられない」「思い出さずにはいられない」ということも、誰もが経験する。
「忘却」と「記憶」は、相対化し、固定化できないものである。
愛している人についてなら、なおさら「記憶」と「忘却」は区別できない。
78 *(その他は余分だ)
これから先きどのように生きようと
どこにもカンマもなければピリオドもない
なぜ「カンマ」「ピリオド」なのか。「読点」「句点」ではないのか。意味としては同じ。「読点」「句点」の方が日本語らしい。「肉体」に無意識にはりついてくる。
「カンマ」「ピリオド」という軽い音で、向き合っているものを「対象化」しようとしているのかもしれない。
つづきつ放しだ
切実な「つづく」感じ。それを何とか切り離し、対象化しようとしているか。
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