斎藤健一「家の人」(「乾河」79、2017年06月01日発行)
私は「動詞」がずれる文体が嫌いである。逆に言うと「動詞」がぶれない文体が好きである。安心できる。たとえば、斎藤健一「家の人」。
基本的に一文にひとつの「動詞」。「ひとつ」だから、ずれようがない。しかし、厳密に読むと「動詞」は「ひとつ」ではない。
「相似する」という動詞が連体形で「相似した」につかわれている。これと「投函する」という「動詞」がある。二つの「動詞」は「端書」によって結びついている。この結びつきを成立させているのは何か。書かれていないが、「私(斎藤)」が「相似している」と認め、「私(斎藤)」が「投函する」。二つの「動詞」が斎藤によって結びついている。書かれていないが、表面上には出ていない「主語」があり、「主語」が全体を統一している。その統一のもとに「動詞」が、そのときそのとき、あらわれてくる。その「動詞」によって世界が生まれてくる。
先日見た貞久秀紀の詩でも「動詞」といっしょに世界が生まれてくるのだが、どうも奇妙な具合にねじれている。そのねじれが「個性」といえばいえるのだが、ねじれるときの「主語」と「動詞」の関係が、私の「肉体」ではついていけない。
斎藤の場合、どうか。
一行目から飛躍がある。その飛躍は句点「。」によって明確に記されている。飛躍した上でことばが動いている。飛躍に「自覚」がある。これが「ずれ/ねじれ」を真っ直ぐにする。「混沌とした世界」から、「明瞭な世界が生まれる」。その「生まれる世界」は「連続」していると同時に、「切断」している。様々な「切断(独立)」を支えるものとして、世界を「生み出す」ときの主体としての「私」というものがある。
言い換えると。
この文には、やはりいくつかの「動詞」がある。「予測」は「名詞」だが「予測する」という「動詞」から派生したものである。「予測する」と読み直すことが可能である。「私」が「予測する」。そして、その「予測」がはずれたことを発見する。「違い」という「名詞」はまた「違う」という「動詞」から生まれている。「違う」が「私」に跳ねかえってくる。その結果「乾いた外である」ということを発見する。「……である」というのは単なる客観描写ではない。「主体(私/斎藤)」が発見したもの。言いなおすとことばによって生み出した「事実」である。これを「発見」という。
この発見のために「切断」という飛躍が必要なのである。「切断(飛躍)」を終えて、そのあとで「接続」がふたたび始まるのである。
常に「私(主体)」が「動詞」をしたがえて「世界」を生み出し、ことばによって「世界」が定着させられている。「世界」にはさまざまな様相がある。斎藤は、それを強烈な「断片」として提出している。「断片」の衝突が、そのまま「接続」(連続)の激しい衝動になる。
という一文の強さは手ごわい。「春風」を発見するまでに、斎藤はさまざまなものを発見している。「黒っぽい衣服」(冬)、「泥(雪解けの泥)」(春先)、「戸から飛び出す」ときの「主語」が「誰か」というのは、「名前が斎藤にとって明確ではない存在」ということである。「未知のひと」。これは「子供」へとつながる。「子供」とは「世界」において「名前」が確立されていない存在である。それが「飛び出す」。ここに「春」の躍動がある。「春」が「飛び出す」と言い換えることもできる。「うどん屋」の「こねる」は「泥」を参照しながら、混沌から明瞭へと世界を転換する。やっぱり「春」だ。「春の光」が動くのである。「春風」は、ここではとても自然だ。
冬のあいだはきつく絞められていた「襟」が「春風」によってゆるめられる。そこに「汚れ」を発見する。それは「雪解けの泥」と同じようなものだ。固く閉ざされていたものが、溶ける。そのときにみえる「汚れ」のようなもの。その「汚れ」は輝かしい。その「輝かしさ」を斎藤は発見し、生み出している。
もちろんこの動きは「一直線」ではない。往復しながら進む。だからこそ、「縁側のランプ。下を照らし見ている。」という具合に、いったん引き返しもするのである。
「動詞」の動きは、往復を含み、複雑である。しかし、「ねじれ」「ずれ」はない。真っ直ぐにこだわっている。真っ直ぐではなく、曲線にこそ真実がある、という見方もできる。しかし、そのときも「動詞」は真っ直ぐでなければならないと私は思う。どんな曲がりくねった道を歩くときも、あるいは何回角を曲がろうとも、ひとは「真っ直ぐ」にめざしているものへ向かっている。
私は「動詞」がずれる文体が嫌いである。逆に言うと「動詞」がぶれない文体が好きである。安心できる。たとえば、斎藤健一「家の人」。
黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。泥が予測と違
い乾いた外である。じっとしていると誰かが戸から飛び
出したのである。粉をこねる一軒のうどん屋がある。春
風がいま子供の汚れ襟だ。屋根のあわさる曇天。そこは
トタン張りで草が生いしげる。縁側のランプ。下を照ら
し見ている。
基本的に一文にひとつの「動詞」。「ひとつ」だから、ずれようがない。しかし、厳密に読むと「動詞」は「ひとつ」ではない。
黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。
「相似する」という動詞が連体形で「相似した」につかわれている。これと「投函する」という「動詞」がある。二つの「動詞」は「端書」によって結びついている。この結びつきを成立させているのは何か。書かれていないが、「私(斎藤)」が「相似している」と認め、「私(斎藤)」が「投函する」。二つの「動詞」が斎藤によって結びついている。書かれていないが、表面上には出ていない「主語」があり、「主語」が全体を統一している。その統一のもとに「動詞」が、そのときそのとき、あらわれてくる。その「動詞」によって世界が生まれてくる。
先日見た貞久秀紀の詩でも「動詞」といっしょに世界が生まれてくるのだが、どうも奇妙な具合にねじれている。そのねじれが「個性」といえばいえるのだが、ねじれるときの「主語」と「動詞」の関係が、私の「肉体」ではついていけない。
斎藤の場合、どうか。
泥が予測と違い乾いた外である。
一行目から飛躍がある。その飛躍は句点「。」によって明確に記されている。飛躍した上でことばが動いている。飛躍に「自覚」がある。これが「ずれ/ねじれ」を真っ直ぐにする。「混沌とした世界」から、「明瞭な世界が生まれる」。その「生まれる世界」は「連続」していると同時に、「切断」している。様々な「切断(独立)」を支えるものとして、世界を「生み出す」ときの主体としての「私」というものがある。
言い換えると。
この文には、やはりいくつかの「動詞」がある。「予測」は「名詞」だが「予測する」という「動詞」から派生したものである。「予測する」と読み直すことが可能である。「私」が「予測する」。そして、その「予測」がはずれたことを発見する。「違い」という「名詞」はまた「違う」という「動詞」から生まれている。「違う」が「私」に跳ねかえってくる。その結果「乾いた外である」ということを発見する。「……である」というのは単なる客観描写ではない。「主体(私/斎藤)」が発見したもの。言いなおすとことばによって生み出した「事実」である。これを「発見」という。
この発見のために「切断」という飛躍が必要なのである。「切断(飛躍)」を終えて、そのあとで「接続」がふたたび始まるのである。
常に「私(主体)」が「動詞」をしたがえて「世界」を生み出し、ことばによって「世界」が定着させられている。「世界」にはさまざまな様相がある。斎藤は、それを強烈な「断片」として提出している。「断片」の衝突が、そのまま「接続」(連続)の激しい衝動になる。
春風がいま子供の汚れ襟だ。
という一文の強さは手ごわい。「春風」を発見するまでに、斎藤はさまざまなものを発見している。「黒っぽい衣服」(冬)、「泥(雪解けの泥)」(春先)、「戸から飛び出す」ときの「主語」が「誰か」というのは、「名前が斎藤にとって明確ではない存在」ということである。「未知のひと」。これは「子供」へとつながる。「子供」とは「世界」において「名前」が確立されていない存在である。それが「飛び出す」。ここに「春」の躍動がある。「春」が「飛び出す」と言い換えることもできる。「うどん屋」の「こねる」は「泥」を参照しながら、混沌から明瞭へと世界を転換する。やっぱり「春」だ。「春の光」が動くのである。「春風」は、ここではとても自然だ。
冬のあいだはきつく絞められていた「襟」が「春風」によってゆるめられる。そこに「汚れ」を発見する。それは「雪解けの泥」と同じようなものだ。固く閉ざされていたものが、溶ける。そのときにみえる「汚れ」のようなもの。その「汚れ」は輝かしい。その「輝かしさ」を斎藤は発見し、生み出している。
もちろんこの動きは「一直線」ではない。往復しながら進む。だからこそ、「縁側のランプ。下を照らし見ている。」という具合に、いったん引き返しもするのである。
「動詞」の動きは、往復を含み、複雑である。しかし、「ねじれ」「ずれ」はない。真っ直ぐにこだわっている。真っ直ぐではなく、曲線にこそ真実がある、という見方もできる。しかし、そのときも「動詞」は真っ直ぐでなければならないと私は思う。どんな曲がりくねった道を歩くときも、あるいは何回角を曲がろうとも、ひとは「真っ直ぐ」にめざしているものへ向かっている。
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谷内 修三 | |
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