詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「家の人」

2017-06-15 10:42:48 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「家の人」(「乾河」79、2017年06月01日発行)

 私は「動詞」がずれる文体が嫌いである。逆に言うと「動詞」がぶれない文体が好きである。安心できる。たとえば、斎藤健一「家の人」。

黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。泥が予測と違
い乾いた外である。じっとしていると誰かが戸から飛び
出したのである。粉をこねる一軒のうどん屋がある。春
風がいま子供の汚れ襟だ。屋根のあわさる曇天。そこは
トタン張りで草が生いしげる。縁側のランプ。下を照ら
し見ている。

 基本的に一文にひとつの「動詞」。「ひとつ」だから、ずれようがない。しかし、厳密に読むと「動詞」は「ひとつ」ではない。

黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。

 「相似する」という動詞が連体形で「相似した」につかわれている。これと「投函する」という「動詞」がある。二つの「動詞」は「端書」によって結びついている。この結びつきを成立させているのは何か。書かれていないが、「私(斎藤)」が「相似している」と認め、「私(斎藤)」が「投函する」。二つの「動詞」が斎藤によって結びついている。書かれていないが、表面上には出ていない「主語」があり、「主語」が全体を統一している。その統一のもとに「動詞」が、そのときそのとき、あらわれてくる。その「動詞」によって世界が生まれてくる。
 先日見た貞久秀紀の詩でも「動詞」といっしょに世界が生まれてくるのだが、どうも奇妙な具合にねじれている。そのねじれが「個性」といえばいえるのだが、ねじれるときの「主語」と「動詞」の関係が、私の「肉体」ではついていけない。
 斎藤の場合、どうか。

泥が予測と違い乾いた外である。

 一行目から飛躍がある。その飛躍は句点「。」によって明確に記されている。飛躍した上でことばが動いている。飛躍に「自覚」がある。これが「ずれ/ねじれ」を真っ直ぐにする。「混沌とした世界」から、「明瞭な世界が生まれる」。その「生まれる世界」は「連続」していると同時に、「切断」している。様々な「切断(独立)」を支えるものとして、世界を「生み出す」ときの主体としての「私」というものがある。
 言い換えると。
 この文には、やはりいくつかの「動詞」がある。「予測」は「名詞」だが「予測する」という「動詞」から派生したものである。「予測する」と読み直すことが可能である。「私」が「予測する」。そして、その「予測」がはずれたことを発見する。「違い」という「名詞」はまた「違う」という「動詞」から生まれている。「違う」が「私」に跳ねかえってくる。その結果「乾いた外である」ということを発見する。「……である」というのは単なる客観描写ではない。「主体(私/斎藤)」が発見したもの。言いなおすとことばによって生み出した「事実」である。これを「発見」という。
 この発見のために「切断」という飛躍が必要なのである。「切断(飛躍)」を終えて、そのあとで「接続」がふたたび始まるのである。
 常に「私(主体)」が「動詞」をしたがえて「世界」を生み出し、ことばによって「世界」が定着させられている。「世界」にはさまざまな様相がある。斎藤は、それを強烈な「断片」として提出している。「断片」の衝突が、そのまま「接続」(連続)の激しい衝動になる。

春風がいま子供の汚れ襟だ。

 という一文の強さは手ごわい。「春風」を発見するまでに、斎藤はさまざまなものを発見している。「黒っぽい衣服」(冬)、「泥(雪解けの泥)」(春先)、「戸から飛び出す」ときの「主語」が「誰か」というのは、「名前が斎藤にとって明確ではない存在」ということである。「未知のひと」。これは「子供」へとつながる。「子供」とは「世界」において「名前」が確立されていない存在である。それが「飛び出す」。ここに「春」の躍動がある。「春」が「飛び出す」と言い換えることもできる。「うどん屋」の「こねる」は「泥」を参照しながら、混沌から明瞭へと世界を転換する。やっぱり「春」だ。「春の光」が動くのである。「春風」は、ここではとても自然だ。
 冬のあいだはきつく絞められていた「襟」が「春風」によってゆるめられる。そこに「汚れ」を発見する。それは「雪解けの泥」と同じようなものだ。固く閉ざされていたものが、溶ける。そのときにみえる「汚れ」のようなもの。その「汚れ」は輝かしい。その「輝かしさ」を斎藤は発見し、生み出している。
 もちろんこの動きは「一直線」ではない。往復しながら進む。だからこそ、「縁側のランプ。下を照らし見ている。」という具合に、いったん引き返しもするのである。
 「動詞」の動きは、往復を含み、複雑である。しかし、「ねじれ」「ずれ」はない。真っ直ぐにこだわっている。真っ直ぐではなく、曲線にこそ真実がある、という見方もできる。しかし、そのときも「動詞」は真っ直ぐでなければならないと私は思う。どんな曲がりくねった道を歩くときも、あるいは何回角を曲がろうとも、ひとは「真っ直ぐ」にめざしているものへ向かっている。
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谷内 修三
思潮社
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フィリップ・ガレル監督「パリ、恋人たちの影」(★★★★)

2017-06-15 09:02:30 | 映画
監督 フィリップ・ガレル 出演 クロチルド・クロ、スタニスラス・メラール、レナ・ポーガム 

 一組の男女。夫婦である。互いに浮気をする。男の方がわがままである。男は浮気をしてもいいが、女が浮気をするのは許せない。それで女を追いつめる。妻だけを追いつめるのではなく、浮気相手の女をも追いつめる。妻に浮気されたことがしゃくに障り、浮気相手の女に「意地悪」をする。女にセックスを迫られると「頭の中には、それしかないのか」なんて言う。自分の頭の中にはセックスしかないのに、である。
 この、わがままで、なんとも手のつけようない、いわばくだらない「恋愛」を「映画(芸術)」にまで高めているのは何か。母親にスタニスラス・メラールのことを聞かれたクロチルド・クロが、こんなことを言う。「聞き上手なの。黙って相手の話を聞く。相手がたまらずに自分から語りかける」。ひとは黙っていることができない。どうしても何かを語ってしまう。その、どうしても語ってしまうこと、聞かれていないのに語ることの中に真実がある。
 それは、たとえば浮気した男が妻に贈る花束。花を贈ることで、自分が犯した罪を隠そうとする。「男は浮気したあと、妻に花を贈る」というようなことを言われて男はうろたえ、うろたえたことを懸命になって隠す。このとき妻は浮気にはまだ気づいていないのだが、花を贈る「嘘」のなかに、大事が「本当」がある。
 まあ、愛人が男の家を隠れて観察したり、妻を追いかけて浮気の現場を目撃したり、男の方も妻の尾行をしたりと、なんとも「めんどうくさい」恋愛を描いているのだが。フランス人(パリッ子)は「しつこい」という感じの、楽しい映画ではないのだが、この「めんどうくささ」を面倒がらずにていねいにていねいに描いているのが見どころである。
 で。
 私がいちばん感心したのが、冒頭に書いた男の「意地悪」の部分。セックスをするとき、女はネックレスを外す。それを男は寝そべって隠す。セックスが終わって身繕いをする女がネックレスを探す。見つからない。「何を探している?」「ネックレス」。男は隠しているのだから知っているのだが、答えない。しばらくして身を起こす。そこにネックレスが出てくる。女はそれを拾い上げ、身につける。このときの「意地悪」が、何とも陰湿。こんな「意地悪」をする? うーん、フランスの男はすごいなあ、と私は感心してしまったのである。
 このあと、ネックレスをみつけた女は安心して、こころがゆるみ、「余韻」を味わうように男にもたれかかれるのだが、そこに「頭の中は、それしかないのか」という「厭味」なことばが発せられる。これは、すごくないか?
 フランス人はだいたい「わがまま」だけれど、こんなにわがままになれるのかと思うとびっくりしてしまう。フランス人を見るときの「目」が違ってきそう。
 これに通じるかもしれないが、この映画に描かれている人間は、「ストーリー」よりも「細部」がおもしろい。「細部」が「詩」のようにストーリーを無視して立ち上がってくるところがある。男の「意地悪」は「詩」がもういちどストーリーに乱入して、時間を動かすという感じだけれど。
 「細部」のおもしろさでは、たとえばクロチルド・クロとスタニスラス・メラールがレジスタンスだった老人をインタビューするシーン。老いた妻が隣に座っている。することがないので缶入りのクッキーを持ってくる。「食べない?」と誘い、インタビューに答えている夫のノートの上に一個置いたりする。このあたりの「日常」の間合いが、なんともいえずに「詩」になっている。
 女の妻が母と会話している。母がカフェを出る前に、手鏡を取り出し口紅を塗る。そのとき手鏡を娘に持たせる。「もう少し上」と注文をつける。
 みんな、自分のことしか考えていない。
 それを「わがまま」というほどではないけれど、という感じでちらりと出す。その瞬間の「詩」がおもしろい。
 パリの町中を歩いているのだが、エッフェル塔もセーヌもシャンゼリゼも出て来ない。パリに詳しい人なら、ここはどこ、とわかるだろうけれど、知らない人にはパリかどうかもわからない。具体的すぎて、困ってしまう。
 と、ここまで書いてきて、そうか、この映画は「具体的」すぎるのか、と気づく。男と女の関係、そのあいだで動く「感情」が「具体的」すぎる。「意地悪」にしろ、「いいわけ」にしろ、「けんか」にしろ、「抽象」として「整理」されない。「具体的」なまま投げつけられ、受け止めろと迫られる。
 浮気している人は、見るのを避けた方がいい。どうすればごまかせるか考え始め、きっと足を出してしまうぞ。恋愛真っ最中の人は、どうかなあ。「予行演習」(未来予測)のために見ておいた方がいいのか、こんなことは知らないままに愛を生きた方がいいのか。恋愛を卒業した人は、そういえばこういうことがあったかも、と思い出してしまうかな?
                      (KBCシネマ1、2017年06月14日)

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パリ、恋人たちの影 [DVD]
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