広田修『vary』(思潮社、2017年06月01日発行)
広田修は、私にとって「論理」を詩にする詩人であった。「あった」と過去形で書いたのは、今回の詩集の作品が少し変わっているからである。
「探索」の「2」の部分。
荒川洋治の『水駅』をちょっと思い出した。ことばの選択。飛躍のつくり方。
でも、それは「表面的」なことであって、読めば読むほど「論理の詩人」に戻っていく。「あった」という過去形の印象は、すぐに「ある」に修正される。
どこが「論理的」?
私は実は「ずるい」引用の仕方をした。(略)の部分を復活すると、こうなる。
「あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。」という一文のなかにある「ので」が「論理」のことば。「……なので、……である」。このことば(論理構造)が、あらゆるところに隠れている。「……である」というのは「断定」だが、この断定は「事実」にもとづくものではない。言い換えると、「客観的」に認定されるものではない。
ここに「客観的」なことは何も書かれていない。つまり、一読して私たちが、「これは何のことを書いている」と、そこに書かれていることを共有できない。自分の経験と書かれていることを結びつけることはできない。
広田にとって「事実」とは「論理」によって生み出されるものである。「断定」が「事実」を生み出す。
鍵盤を右に左に、折檻するように叩く。そうやってメロディーと和音が生み出される。その激しい動きは、まるで「つづら折り」の道のように何度も左右を往復する。この激しさが、「ラフマニノフ」へと引き継がれていく。
なのか、
なのか、
なのか、
なのか、いくらでも言い換えることができる。
そして、このとき最初の行に書かれていた「指」も結びつく。
「指」と「鍵盤」と「つづら折り」と「ラフマニノフ」が、「論理(ストーリー)」としてつなぎとめられ、それが「事実」になる。
「屁理屈」に見えるかもしれないが、あるいは「後出しジャンケン」のようにご都合主義に見えるかもしれないが、「論理」とはそういうものである。「論理」とは「脳」をごまかすためのものである。「脳」はずぼらだから、自分の都合のいいように(わかりやすいように)、「事実」をつくりかえていく。その方法を「論理」と呼んでいるに過ぎない。
もちろん「……ので、……である」という「論理」は簡単にはあらわれてこない。「……ので、……である」という「論理」を浮かび上がらせるためには、ちょっと工夫がいる。
これは、「痛みを感じるのは何㎞の地点である」。指はまだ「痛い」わけではない。しかし、その指をじっと見ていると、やがて「痛くなる」ことが実感できる。それは「何時間後(何㎞進んだところ)だろうなあ、と思う。想像し、断定するのである。断定を想像するのである。
で。
私は「想像する」ということばをつかったのだが、「論理」とは結局「想像力」の働きである。「想像力」とは「事実」を歪める力。嘘を捏造する力のことである。嘘の方が、現実を処理するのに都合がいいときがある。というか、嘘なんか捏造しなくても「事実」は動いていくものだが、その動きはまだるっこしいから、面倒くさがり屋の「脳」は嘘の処理を受け入れる、というべきか。
ま、どっちでもいい。
で、「論理」がそういうものであるということは、「論理」が詩と相性がいいということでもある。詩は「事実」を書いているわけではない。自分にとって都合のいいことを書いているに過ぎない。都合のいいことを「抒情」と呼んで、感傷にふけるというのも「脳」には快感である。
こんなことを書くと、広田の詩を否定していると受け止められるかもしれない。ある部分否定はしているが、否定しないと肯定できないこともあるので、こう書く。
「論理」が「論理」であるために重要なことは何か。私は「音楽」(リズム)であると感じている。ことばが軽く、素早い。そうでないと「論理」が重たくて、読むのが面倒になる。
広田のことばは、軽くて響きがいい。
「3」の部分。
「彼の」ということばが繰り返されるが、こういう「所有」の概念は、ことばの重力になるので、省略した方がもっと軽快になると思う。また「傷ついた大陸へと月は進み、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移す。」は「傷ついた大陸へと月は進むので、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移すのである。」ということだが、読点「、」で文章をつなげると、「……ので、……である」が見えすぎてしまう。句点「。」で処理した方が「論理」がより背後に沈み、軽くなると思う。
「渾身のささやきでさえ、彼の要点を囲めない。」は「渾身の力でささやくのだが、彼の要点を囲めない。」である。「……ので、……でない」「……のだが、……できない」である。つまり「……ので、……である」の否定形の「論理」なのだが、否定形は置き場所がむずかしいかもしれないなあ、とも感じた。
起承転結の「転」のような形で全体を活性化する働きを担うと、もっと軽快になると思う。
ところで。
「……ので、……である」を取り上げるのなら、なぜ「1」の書き出しの、
を、例に引かなかったのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。
1ページだけ読んで感想を書いているわけではないということを「証明」するために「2」を取り上げたのである。(と、わざわざ書くのは、もちろん「嘘」をつらぬくためである。「無題Ⅳ」には、「人生は形容の分割力にどこまでも抵抗するので、分割することなく肯定する「美しい」の一語のみが君臨します、」という行がある、とも書いておこう。)
また広田が、「論理の詩人」である、「論理」のなかに詩を感じているということを「証明」するために、次の部分もあげておこう。
「……ということは、……である」「……すると、……になる」「……すれば(であれば)、……になる(できる)」というバリエーションがある。
と、「なぜならば」と「理由」を「論理」にして語ることばもある。
広田修は、私にとって「論理」を詩にする詩人であった。「あった」と過去形で書いたのは、今回の詩集の作品が少し変わっているからである。
「探索」の「2」の部分。
スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? (略)髪は鉱物、手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を焚くためであって、種を蒔くためではない。
荒川洋治の『水駅』をちょっと思い出した。ことばの選択。飛躍のつくり方。
でも、それは「表面的」なことであって、読めば読むほど「論理の詩人」に戻っていく。「あった」という過去形の印象は、すぐに「ある」に修正される。
どこが「論理的」?
私は実は「ずるい」引用の仕方をした。(略)の部分を復活すると、こうなる。
スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。髪は鉱物、手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を焚くためであって、種を蒔くためではない。
「あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。」という一文のなかにある「ので」が「論理」のことば。「……なので、……である」。このことば(論理構造)が、あらゆるところに隠れている。「……である」というのは「断定」だが、この断定は「事実」にもとづくものではない。言い換えると、「客観的」に認定されるものではない。
あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。
ここに「客観的」なことは何も書かれていない。つまり、一読して私たちが、「これは何のことを書いている」と、そこに書かれていることを共有できない。自分の経験と書かれていることを結びつけることはできない。
広田にとって「事実」とは「論理」によって生み出されるものである。「断定」が「事実」を生み出す。
鍵盤を右に左に、折檻するように叩く。そうやってメロディーと和音が生み出される。その激しい動きは、まるで「つづら折り」の道のように何度も左右を往復する。この激しさが、「ラフマニノフ」へと引き継がれていく。
つづら折りになる「ので」ラフマニノフ「を思い出す」
なのか、
ラフマニノフの旋律は飛躍の多い「ので」指の動きはつづら折りに見える
なのか、
指がつづら折りのように左右に動く「ので」、鍵盤を折檻しているように感じられる
なのか、
指がつづら折りのように左右に動く「ので」、指を折檻しているようだ
なのか、いくらでも言い換えることができる。
そして、このとき最初の行に書かれていた「指」も結びつく。
「指」と「鍵盤」と「つづら折り」と「ラフマニノフ」が、「論理(ストーリー)」としてつなぎとめられ、それが「事実」になる。
「屁理屈」に見えるかもしれないが、あるいは「後出しジャンケン」のようにご都合主義に見えるかもしれないが、「論理」とはそういうものである。「論理」とは「脳」をごまかすためのものである。「脳」はずぼらだから、自分の都合のいいように(わかりやすいように)、「事実」をつくりかえていく。その方法を「論理」と呼んでいるに過ぎない。
もちろん「……ので、……である」という「論理」は簡単にはあらわれてこない。「……ので、……である」という「論理」を浮かび上がらせるためには、ちょっと工夫がいる。
スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る「ので」、痛いのはここから何㎞の地点?「と想像する」。
これは、「痛みを感じるのは何㎞の地点である」。指はまだ「痛い」わけではない。しかし、その指をじっと見ていると、やがて「痛くなる」ことが実感できる。それは「何時間後(何㎞進んだところ)だろうなあ、と思う。想像し、断定するのである。断定を想像するのである。
で。
私は「想像する」ということばをつかったのだが、「論理」とは結局「想像力」の働きである。「想像力」とは「事実」を歪める力。嘘を捏造する力のことである。嘘の方が、現実を処理するのに都合がいいときがある。というか、嘘なんか捏造しなくても「事実」は動いていくものだが、その動きはまだるっこしいから、面倒くさがり屋の「脳」は嘘の処理を受け入れる、というべきか。
ま、どっちでもいい。
で、「論理」がそういうものであるということは、「論理」が詩と相性がいいということでもある。詩は「事実」を書いているわけではない。自分にとって都合のいいことを書いているに過ぎない。都合のいいことを「抒情」と呼んで、感傷にふけるというのも「脳」には快感である。
こんなことを書くと、広田の詩を否定していると受け止められるかもしれない。ある部分否定はしているが、否定しないと肯定できないこともあるので、こう書く。
「論理」が「論理」であるために重要なことは何か。私は「音楽」(リズム)であると感じている。ことばが軽く、素早い。そうでないと「論理」が重たくて、読むのが面倒になる。
広田のことばは、軽くて響きがいい。
「3」の部分。
渾身のささやきでさえ、彼の要点を囲めない。傷ついた大陸へと月は進み、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移す。
「彼の」ということばが繰り返されるが、こういう「所有」の概念は、ことばの重力になるので、省略した方がもっと軽快になると思う。また「傷ついた大陸へと月は進み、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移す。」は「傷ついた大陸へと月は進むので、濡れた新聞が彼の皮膚へと文字を移すのである。」ということだが、読点「、」で文章をつなげると、「……ので、……である」が見えすぎてしまう。句点「。」で処理した方が「論理」がより背後に沈み、軽くなると思う。
「渾身のささやきでさえ、彼の要点を囲めない。」は「渾身の力でささやくのだが、彼の要点を囲めない。」である。「……ので、……でない」「……のだが、……できない」である。つまり「……ので、……である」の否定形の「論理」なのだが、否定形は置き場所がむずかしいかもしれないなあ、とも感じた。
起承転結の「転」のような形で全体を活性化する働きを担うと、もっと軽快になると思う。
ところで。
「……ので、……である」を取り上げるのなら、なぜ「1」の書き出しの、
川の表面に見えない川が重なっているので、刻み採る、反転したウグイスを読むための辞書を踏みながら。
を、例に引かなかったのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。
1ページだけ読んで感想を書いているわけではないということを「証明」するために「2」を取り上げたのである。(と、わざわざ書くのは、もちろん「嘘」をつらぬくためである。「無題Ⅳ」には、「人生は形容の分割力にどこまでも抵抗するので、分割することなく肯定する「美しい」の一語のみが君臨します、」という行がある、とも書いておこう。)
また広田が、「論理の詩人」である、「論理」のなかに詩を感じているということを「証明」するために、次の部分もあげておこう。
海を信じるということは、たとえば魚の色と海流の速度との類似について矛盾なく説明することだ。(6)
いのちが影のように伸びていくといつか人間にぶつかる。(7)
暇さえあれば知らない街でもさかのぼっていける。(7)
「……ということは、……である」「……すると、……になる」「……すれば(であれば)、……になる(できる)」というバリエーションがある。
なぜならば僕は三角形である。(15)
と、「なぜならば」と「理由」を「論理」にして語ることばもある。
vary | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |