詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」

2017-06-09 10:34:44 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」(「荒木時彦×網野杏子×秋川久美」創刊号、2017年06月05日発行)

 荒木時彦「物事は具体的に書かなければならない。」は、具体的に書かれているか。

内面の状態。



ブラック・コーヒーを飲んでいる時、私の心の状態は落ち着いている。カフェなどよりも、部屋で一人でいる時のほうがより心が休まる。

 タイトルとは裏腹に、私には「抽象的」にしか感じられない。「内面の状態」が「心の状態」と言い換えられても、具体的になったとは感じられない。
 私は「心」よりも「内面」の方を「具体的」と感じる人間である。「こころ」はどこにあるかわからないが、「内面」ならどこにあるか「わかる」。「わかる」はもちろん「誤解」だが、「内」ということばが「外」ということばと向き合うことで「方向性」が出てくる。「面」というのは「内」と「外」を区別する境界線の「別称」である。ある「線」からこっち側が「内面」、あっち側が「外面」という具合に判断することができる。「円」を想定すれば、「中心」のある方が「内側」、「中心」のない方が「外側」。ある区切りによって生み出される「方向」が「内側/外側」の指針になる。
 「方向性」が「具体的」ということになる。
 「こころ」に関しては、私はこういう「定義」、あるいは「肉体」を動かしながら存在を確かめる方法を持っていない。言い換えると「こころ」が存在していると「実感」したことがない。
 「ブラック・コーヒー」さえ、私には「具体的」とは感じられなかった。抽象的な「ことば」にすぎないように思えた。
 ところが。

雨粒が落ちていく。それは冷たい雨だ。
部屋の空気が、時間をかけて冷えていくのがわかる。

 この部分は、「具体的」だと感じた。「わかる」のだ。私は、こういうことを「体験したことがある」とはっきり思い出すことができる。もちろん私が思い出したものと荒木が書いているものは別のものかもしれない。つまり、私は荒木のことばを「誤読」して、自分のおぼえていることに触れているだけなのだが。
 なぜ、「具体的」と感じたのか。

時間をかけて

 この「経過」をあらわすことばに「力」がある。何事かを指し示す力がある。
 「内面」ということばに触れた時「方向性」と私は書いたが、この「時間をかけて」にも「方向性」がある。「方向性」は「動き」である。「動き」を誘う何かである。「動き」にあわせて、私の「肉体」が動くのである。
 私は、私の「肉体」を動かしてくれることばを信じる。
 部屋が冷えていく時、私の「肉体」は、たぶん動かずにじっとしている。だからそれを「動き」というのは変かもしれない、運動と呼ぶのは変かもしれないが。
 実は、「肉体」の「体温」も変化している。「肉体」が部屋の温度に合わせて動いている。その、つかみどころのない「変化(動詞になりうるもの)」が、ここには書き留められている。ことばとして定着している。
 だから、というのは飛躍になるかもしれないが、
 だから、その二行が、

それは、何も奪わない、しかし、誰も救わない出来事だ。

 ということばへと結晶していく時、それを「抽象的」とは感じない。荒木がそのとき考えた「具体的」なことなのだと感じる。「具体的」とは、この場合、「必然的」という意味である。

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荒木 時彦
書肆山田
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-40)

2017-06-09 09:47:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-40)(2017年06月09日)

79 *(火の中に投げ込む)

魂の一束
燃えあがる炎のむこうにひろがる時雨れる沙州

 魂は嵯峨の魂。妻をなくして、悲しみに燃え上がる。激しい対立、整えることのできない激情がある。
 それが「炎」と「時雨」という対立したもの、熱い火、冷たい雨を呼び寄せる。炎が時雨を呼び出したように感じる。炎がなければ、時雨もやってこない。「ひろがる」という動詞が「むこう」を呼び寄せる。その呼び寄せる力によって「時雨」がやってくる。
 これは実景であると同時に心象風景である。
 ここでは「ひろがる」「時雨れる」と、動詞が二つ重なって動くのだが、その重なる動詞に、何か「呼び寄せる」力のようなものを感じる。
 呼び寄せる力を「祈り」と「誤読」したくなる。

その沙州にぽつねんと立つている一基の墓だけが
口もあれば鼻も眼もある

 呼び寄せる力のなかで「墓」が「顔」になる。

80 *(遠い記憶の果にただ一つの名が残つた)

遠い記憶のはてにただ一つの名が残つた
その名に祈ろう
晴れた日がこれからもつづくように

 「名」を「梢」という。注釈に、嵯峨は記している。
 「晴れた日」は妻のために祈るのだ。激しい時雨の日に、悲しみの炎を燃え上がらせながら。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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