詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造『かまきりすいこまれた』

2017-06-30 08:10:45 | 詩集
細田傳造『かまきりすいこまれた』(思潮社、2017年06月20日発行)

 私には、ことばの好き嫌いがある。
 たとえば細田傳造『かまきりすいこまれた』の「ようなき日乗」という作品。

新詩人の一人として
ごたぶんにもれず
いろいろお行儀の悪いことをやってみた

 「お行儀」が嫌いだ。「わざと」書いているのだろうが、それでも嫌いだ。最初は「お」に気づかず、あ、この詩はおもしろいと思った。引用して、3行目で「お行儀」の「お」に気づいて、うーん、どうしようかなと悩んでいる。
 なぜ嫌いかというと、私は「お行儀」ということばをつかわないからだ。だから「音」がなじまない。「リズム」がそこで狂う。
 だから、最初の3行は「ある」のだけれど「なかった」ことにして読む。「ある」ものは「なかった」にはできないらしいけれど。

あるとき一匹の犬になって
一篇の形而上詩を書いた
あるいは異性の犬に寄り添って歩き
その道行の濡れた心情をぼそぼそと
ツイッターで語った
あるときは
研究者になった気分になって
道端で犬のマルガレーテと交合し
ながーいながーいだらしない射精の生態を
微に入り細にわたって記述して
生類憐憫学問所の
教授方筆頭立花左近兵衛様に上奏してみた

 「犬」と「形而上」という「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」が、さまざまに交錯し、拡大していく。この「リズム」がおもしろい。「ドライ」と「ウェット」、「理性」と「感情」が「テキトー」に緩急を作る。
 その緩急の変化そのものが、新しいリズムとなって全体を動かしていく。
 「ながーいながーいだらしない」のあと「射精の生態」という「文語」がきて、そこから「生類憐憫学問所」「教授方筆頭立花左近兵衛様」とずれていくところなんか好きだなあ。「上奏する」という普段つかわないことばが楽しい。
 あ、「普段つかわないことばが楽しい」は「お行儀というつかわないことばが嫌い」と矛盾するかな?
 うーん、むずかしいなあ。どう説明すればいいかな?
 「お行儀」は、私はつかわないが、そのことばがつかわれる世界を知っていて、その世界が嫌いだからことばも嫌いということなのかもしれない。そんなところに「お」をつけるな、と思ってしまうのである。もっと早く言え。
 と、書いてわかること……。

 もっと早く言え。

 これだね。まだるっこしいスピードが私は嫌いなのだ。まだるっこしいリズムが嫌い。
 「形而上」から「ツイッター」までのスピード、「ながーいながーいだらしない射精」から「生類憐憫学問所」までのスピード、そこで加速しながら「教授方筆頭立花左近兵衛様」「上奏(する)」という疾走することでつかみとることば。この「速さ」と「軽さ」がいい。
 
 細田は、たぶん、「加速」の踏み台として「お行儀」の「お」が必要なのだというだろう。そうかもしれない。そうに違いないのかもしれないが、そういう「こまかな作為」がない方が私は好きだ。

 「メリーズとパンパース」の次の部分も大好きだなあ。

わたしが百歳になったらキミに
メリーズをはかせてもらう
おとりかえもしてもらって
お尻ふきふきもしてもらう
キミがあかちゃんだったとき
キミにしてあげたみたいに
くちゃいのくちゃいのとんでゆけしてもらうよ
じいちゃんがひゃくさいになったら
おれがメリーズはかせてやる

 こういう「口語」の「おとりかえ」「おしり」の「お」は「リズム」があっていい。ことばの先に「相手」がいる。
 「お行儀」のときもいたのかもしれないが、私にはそれが見えなかった。「一人芝居」に見えた。そこが嫌いだったのかな、と「お」を比較してみて思う。

かまきりすいこまれた
細田 傳造
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする