詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

企業の収益はどこに?

2017-06-29 09:27:07 | 自民党憲法改正草案を読む
企業の収益はどこに?
               自民党憲法改正草案を読む/番外98(情報の読み方)

 2017年06月29日読売新聞(西部版・14版)2面に、

国の税収7年ぶり減 16年度55兆円台

 という見出しがある。
 えっ?
 つい最近、

戦後3番目の長期好景気突入、「失われた20年」を脱出

アベノミクス景気、戦後3位の52カ月

 というような記事が新聞に載っていなかった? 「アベノミクス、完全に成功」と騒いでいなかった?

 2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後のバブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。(日経新聞04月06日)

 もし、そんなに景気がいいのなら、なぜ税収だけが減る?
 「長期好景気」という記事を読んだとき、ぜんぜん実感がないなあ、と思っていた。もし、そんなに景気がよかったのなら、なぜ「消費税増税」を先送りしたのだろう。「消費税増税」を先送りしたのは「52か月」も前じゃない。2016年の春でしょ? その段階で「好景気」は「40か月」くらいつづいていたことにならない? 3年は「好景気」だったんだよねえ。安倍は、去年の夏は「アベノミクス道半ば」なんて言って、参院選を勝ち抜いた。なぜ「好景気」が3年つづいているといわなかったのかなあ。

 あるいは、なぜ、今年に入って急に「アベノミクス景気、戦後3位の52カ月」と言い出したんだろう。
 うーん、4月といえば。
 国会が「森友学園」で大揺れした直後だな。「加計学園」も国会で話題になり始めたころかな?
 国会対策、というか、「世論」の批判をかわすために、突然「好景気」情報を流したのかもしれない。
 いや、たしかに

国の税収は(略)10年度から15年度まで8年連続で増え続けていた。(読売新聞)

 というのだから、「好景気」だったのかもしれない。
 でも、そうなら、なぜ16年度だけ、急に税収が減るの?
 しろうとには、仕組みがわからない。
 サラリーマンの税金は毎月きちんと天引きされている。サラリーマンの納税額が減ったわけではないだろう。企業の納税額が減ったのだろう。どうして? どんな「節約」手法で?

 それにしても「好景気」は大々的に報道しながら、「税収が減った」の報道が小さいのはどういうわけだろう。
 政局や選挙の都合で、報道の「価値」をかえていないか。

 「稲田発言」の「初報」と「続報」の扱いの変化を見ても、どうも変。
 武器を持った自衛隊が「お願いしたい」なんて言えば、それは「お願い」ではなく「脅し」だろう。武器を持った自衛隊員が投票所のまわりにいたら、自民党以外に投票したら殺されるのではないかと不安になるのが「一般市民」の感覚だろう。
 世間の反応で少しずつ「扱い」が大きくなってきているが、その大騒ぎを利用して、今度は「税収が減った」というニュースを滑り込ませている。
 いまなら「戦後3番目の長期好景気」と「国税収入が減った」ということの「矛盾」が見逃されるかもしれない、ということではないのか。
 「戦後3番目の長期好景気」も、もう一度、検証してみないといけないのではないのか。もし、ほんとうに好景気がつづいているのだとしたら、なぜ、16年度だけ急に国税収入が減るのか、それを問題にしないといけない。










#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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野崎有以「Sへの手紙」

2017-06-29 08:27:51 | 詩(雑誌・同人誌)
野崎有以「Sへの手紙」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 私は最近、若い詩人の作品に「反応」しなくなった。別のことばで言うと、あ、このことばを書いてみたい。盗んでみたい、という気持ちにならない。

 「現代詩手帖」2017年07月号は「新鋭詩集2017」という特集を組んでいる。その最初に野崎有以「Sへの手紙」がある。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を
私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか
ぼんやりした足跡のようなぬくもりを
管理人室の折り紙と鉛筆でできた造花はそのままで
あなただけが出ていった

 この一連目には「薄めた石膏の匂い」という魅力的なことばがある。これは盗んでみたい。剽窃してみたい。しかし、欲望はすぐに消えてしまう。つづくことばが「薄めた石膏の匂い」と、うまく響きあわないからだ。
 リズムが、おかしい。音がおかしい。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この音が「長い」。私の「息」は、こんなに長くつづかない。読んでいて苦しい。つづく「私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか」も同じ。「近視の」が長く感じさせるのか。「目で見た」がしつこいのか。「だろうか」がわずらわしいのか。よくわからないが、私の「肉体」はもっと短くして、と叫んでいる。
 「長い」ために、「リズム」が苦しくなり、「音」に不自然なものが混じる。
 こういうことは「感覚的」なことがらなので、私のことばは、野崎にはつたわらないと思う。
 そして、この「長さ」は、「詩」ではなく「散文」なら大丈夫かというと、そうでもない。「散文」だとしても、私には耐えられない「リズム」であり「音」である。

 「動詞」の力が弱いのかもしれない。あるいは「動詞」以外の情報量が多いのかもしれない。
 ふいに、そう思った。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この一行にある「動詞」(動詞派生のことば)、「薄めた(薄める)」「匂い(匂う)」「しない」と三つある。この「動詞」のうちの、どれが一行を支えているのか。「薄めた(薄める)」は「匂いしかしない」ということばと緊密な関係にあるが、「しかしない」の「しか」が「強調」なのに、なんともうるさい。「動詞」を強めるために書かれているのはずの「しか」が、「動詞」の連絡を弱めている。「しか」によって、「意味」は強くなっているはずなのに、「長く」なったぶんだけ、「薄まった」印象がする。
 その「薄まった」関係の中に、「あなたの部屋」が入ってきて「主語(主役?)」の座を奪い取る。そのときの「あなた」と「部屋」の「二つ」の情報が、私にはうるさく感じる。「あなた」に主眼があるのか、「部屋」に重きがあるのか。これも、即座にはわからない。
 「匂い」を感じていた「私」は「あなた」によって消されてしまい、私は困惑する。
 「意味」は「頭」では「わかる」。けれど「肉体」は「わからない」と言ってしまう。「わかりたくない」のである。「うるさい」と感じるから「わからない」と叫びだしてしまう。私の「肉体」は。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ
あなたが抱き締めてくれたら消えると馬鹿みたいに信じていた
ほんとうに馬鹿みたいに

 一見、「口語」のようではあるが、「口語」ではこんな「長々しい」ことばを発しないだろう。私は黙読するのだが、黙読しながら「息切れ」する。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ

 には、「貼りつく(貼る+つく)」「泣き(泣く)」と、二つというか、三つというか数え方がむずかしいが「動詞」が複数ある。これがことばを散漫にする。さらにそこに「ような」ということばが割って入っている。
 そのあとの二行では「馬鹿みたいに」ということばが繰り返され、それが「口語」を装っているが、どうも落ち着かない。「口語」はもっと「急ぐ」ものである。
 では「文語」かというと、私の印象では「文語」でもない。「文語」は「口語」よりもっと速い。「整理されたことばの連絡」が「文語」である。

 どうも、いま人気の若い詩人のことばは、「だらだら長い」のである。
 だらだらとした感想を書いている私が、こんなことを書くのは変だが。

 三連目の書き出しの四行。

名前のないあの通りにずっと苦しめられた
左側は日の当たらない映画館
右側は「選ばれし者」の住む城
「通行証」を持たない私は右側へ歩いていくあなたを見ていただけ

 一連目の二行目に出てきた「見た(見る)」が、やっとここで反復される。ここで「見る」という「動詞」を中心に世界が結晶するかというと、そうでもない。
 このあと、

城の幻想に苦しむ子供を見つけたら

あなたが不眠の痩せた身体でやっと私を見つけに来た前の週
あの映画館で私みたいな女がジュエリービーンズを食べる映画を見たの

 と「見る(見つける)」と「見る」は反芻されるが、そのあいだに挟まれる情報量が多すぎて、「見る」をつづけられない。「見たもの」が散らばるだけではなく、「見る」の「主語(主体)」の「肉体」まで分断されてしまう。

 野崎は、森本孝徳との対談で「私の詩は時としてつよすぎる言葉で書かれていますが」と語っている。どこに「つよすぎる」ことばがあるのか、わからない。また、

小学五年生のときから読み続けてきた吉行淳之介

 とも語っている。
 これには、私は仰天してしまった。
 私は田舎育ちなので、家のまわりには教科書以外はなかった。教科書以外で初めて読んだのは、親類の家にある「家の光」という雑誌だったが、それも小学校の高学年、あるいは中学生になっていたかもしれない。父の兄が死んで、葬式のときに、父の兄の家で偶然見つけたものだ。吉行淳之介なんて、高校を卒業しても知らなかった。「文学の情報量」「ことばの情報量」が、いまの若い詩人と私では決定的に違っているということなのか。
 うーん、ついてゆけない。
長崎まで
クリエーター情報なし
思潮社
コメント (1)
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