詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『放浪彗星通信』

2017-06-24 09:03:02 | 詩集
高柳誠『放浪彗星通信』(書肆山田、2017年05月30日発行)

 高柳誠『放浪彗星通信』の巻頭に、フェルナンド・ペアソのことば(澤田直訳)が引いてある。

宇宙とはそれ自身の夢のことである。

 この詩集には「彗星」ということばがつかわれているように「宇宙」が書かれている。だから引用したのかもしれないが、詩集を読みながら、ペアソの「宇宙」を「詩」と読み替えると、高柳の詩のことを語っているように感じられる。高柳が自分の詩に対してつけた「註釈」のように感じられる。さらに「詩」を「詩集」に、「詩集」を「書物」と言い換えるともっと「夢」に近づくかもしれない。「書物」を「ことば」と言い換えてもいいだろう。
 「宇宙」は「存在」、「夢」は「非存在」。あるいは「存在の反映」。それはともに「ことば」で語られる。それは語り始めた瞬間から「ことば」になって、入れ替わろうとする。いつのまにか「ことば」が「主語」になって、「ことばとはそれ自身宇宙の夢である」、あるいは「ことばとはそれ自身の夢の宇宙である」と変化していっても、だれも「間違い」に気がつかない。「ことば」が動く限り、それは「真実」になってしまう。「ことば」は「存在そのもの」でもないし、「非存在そのもの」でもない。動き始めると延々とつづいてしまう。何かと同一になりながら、常に何かとは別個になりつづける。「同一であり、同一ではない」という「論理」を展開すれば、どこまでもつづく。「ことば」とは世界をどう見るかという「論理」を反映していて、「論理」というのは自己増殖するものだからである。

 で。
 端折る。端折らないと、ほんとうにどこまでも増殖していくからである。

 「書物」という作品が後半に出てくる。

この地には、一冊の書物が存在する。

 書き出しである。重要なのは「一冊」の「一」である。「宇宙」と「夢」は、ことばとしては別個の存在である。それは、「宇宙とはそれ自身の夢のことである。」と言う形で「一」として「定義」された。そのとき書かれなかった「一」が、ここで書かれている。この「一」は、二つを一つといっているわけだから、「矛盾」と言い換えることもできる。
 ただし、このときの「二つは一つ」というのは「対立」ではない。
 「一」であるけれど「一」ではない。「多」である、という形の「矛盾」である。一即多、多即一、という形の「ことばの見かけ」の矛盾であり、「一」とは「一即多、多即一」という「対」のことなのである。言い換えると「対」という概念をもってくると、それは「矛盾」ではなく、別の「論理」になる。
 「論理」とは「脳」が「脳」自身の都合に合わせてつくりだす「夢」であり「宇宙」であり、「ことば」そのものである。
 あ、また、余分なことを書いたか。
 端折る。

書物は入れ子構造になっていて、どのページを開いてもそこから小
型の書物が出てくる。これにもいたるところに紙が貼りつけてあっ
て、宇宙の細目につていのすべてが書かれている。こうなると、も
はや、書物はそのまま一つの宇宙だといってもよいだろう。

 「一即多、多即一」というのは「入れ子構造」とは違うと私は感じているが、それは「脇」においておいて、私が注目するのは「構造」ということばである。「構造」が高柳のキーワードであると私は思う。(私は「対」という「ことば」を利用したが、高柳は「構造」という「ことば」を利用する。)
 高柳の世界のすべては「構造」という「一つ」のことばのなかへ結晶していく。宇宙と夢、夢と宇宙は、「宇宙の夢」「夢の宇宙」という形で「一つ」の「構造」になる。相互に浸透し、入れ替わる。高柳は「入れ替わる」とは言わずに、いくつもの「層」に重なりあうと言うだろう。その重なりが「入れ子」なのだが……。

 あ、またまた余分なことを書いてしまう。
 もう一度、端折る。「書物」にもどり、「構造」について言いなおしてみる。
 「書物は入れ子構造になっていて」は「書物は入れ子になっていて」と書いても「意味」は通じる。「入れ子」というものがすでに「構造」だからである。でも、高柳は「構造」と書いてしまうのである。「入れ子」だけでは「構造」が「意識」されない。「意識」されないまま「肉体」のどこかにもぐりこんでしまう。
 逆に言うと、「意識化する」ということが高柳のことばの運動なのである。「構造を意識化する」。存在がどういう「構造」でなりたっているか、それを「ことば」にする。そのとき、そこに高柳の「詩」が姿をあらわす。「詩」という「宇宙」になる。
 前に戻って言いなおすと、「一即多、多即一」というのは、私の感覚では「構造」ではない。「構造」として「意識化」できない「かたまり」である。「構造」が見えてこない、構造がことばにできないのが「一即多、多即一」。矛盾してしまうことばが「一即多、多即一」なのである。
 でも、高柳は「構造」を解明する。この運動を「明晰」と言ってもいいし、「うるさい」と言ってもいい。
 「入れ子構造」という作品もある。

今や、ついにわれわれを取り巻く世界の構造が、いや、宇宙そのも
のの構造が見えてきた。この宇宙は、すべて入れ子構造でできてい
る。

 この作品について書くべきだったのかもしれないが……。
 この作品では、高柳は「すべて」に「入れ子構造」を発見しているというよりも、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめている感じである。「すべて」に「入れ子構造」を発見することと、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは、結果的に「同じ」になるかもしれないけれど、ほんとうは違う。
 「すべて」に「入れ子構造」を発見することは、そのつどの「発見」であるが、「すべて」の「構造」を「入れ子」にあてはめることは「発見」ではなく、わかっていることの積み重ね、既成の運動の拡張である。
 すでに「わかっている」だけに、「構造」は補強し合っていっそう強固になる。強固になる「構造」が高柳の詩であり、その最終到達地点は「構造」というよりも「強固」というものかもしれない。「構造」を明確にする「強固なことば」、その「強固さ」に高柳の独立性がある。「構造」はどこにでもある。「構造」は独立性を競いようがない。しかし「強固性」はそれぞれ異なる。高柳は、ことばの強固を生きるのである。

 「生命体H」という作品が何篇かある。人間を描いている。そのとき「人間」をどの「構造」でとらえつづけるかによって、作品の世界が違ってくる。ある「構造」で、ある「局面」を描きつづける。横道にそれない。「構造」そのものも「運動」であるかのように、「構造」を持続し、そうすることで「構造」がさらに強固になる。
 それがおもしろいといえば、おもしろい。窮屈といえば、窮屈。
 「詩集成1、2」と、高柳の作品をたくさん読みすぎたために、なんとなく「窮屈」の方が大きく感じた。「強固」でなくてもいいのではないのか。「構造」が破綻していくとき(崩れていくとき)に見える、それまでの「強固」の「残像」のようなものを描いてもおもしろいのではないか、と夢想するのである。
 違う日に読めば違った感想になるかもしれないが。

放浪彗星通信
クリエーター情報なし
書肆山田
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