陶原葵『帰、去来』(思潮社、2017年04月29日発行)
ことばを読む。そのとき最初に感じるのは何だろうか。私は、ことばとことばの「間合い」。「間合い」にリズムがあると読みやすい。リズムがないとつまずいてしまう。
たぶん私の年齢と関係があるのだと思うけれど、私は、「最近の若い人」のリズムについていけない。
陶原葵『帰、去来』の「窟」という作品。
この二行はとてもおもしろい。「花の首が折れる」を「細胞が潰れる」と言いなおされる。「方」ということばを反復することで、言い直しであることを明確にしている。これはリズムとしてもとても納得できる。リズムに従って、ことばの視線が「花の首(茎)」に集中していく。「ことばの肉体」を感じるのは、こういうときである。
あ、傑作が誕生する、という期待をいだきながら読み進む。
私は、しかし、つまずきはじめる。「並んでいる」までの一行空きが、「方」を反復したリズムとかけ離れている。「方」を反復する。反復はリズムの強調。ここからリズムが加速していくのなら納得できるのだが、反復してリズムを強調したあと、突然中断してしまうと、私のような年齢(私だけかもしれないが)では、次の「一歩」をどう動かしていいかわからなくなる。
詩は、さらに一行空きを挟んで「わたしの首」「亀裂音」へと動いていく。「わたしの首」は「花の首」を引き継いでいる。「亀裂音」は、しかし、「潰れる音」を引き継いでいない。言い直しにはなっていない。もちろん、言い直しでなければならない理由はないし、陶原のこの作品の場合、「首」から「耳」へと「肉体」(感覚)が拡大/拡張していくのだから、これはこれで、もうひとつのリズムと言える。
だが、そのあとはどうなのだろう。
連がかわって、詩はこうつづいていく。
私は完全についていけなくなる。「間合い(リズム)」がどうなっているのか、わからない。
「首」(折れる/潰れる)が「首(まわす/亀裂)」を通って「耳(音/響く)」に動いていくのは「人間」の「肉体」(感覚)が連続しているととらえ直すことができるが、そこから突然「手」へとことばが飛躍する。さらに「蛍(籠)」「月」という「光(視覚)」へと移動する。
私の「肉体」は、こういう具合に動けない。「耳(聴覚)」から「手」へ、さらに「手」から「目(視覚)」へとはスムーズには連続しない。
もちろん「折れ方」「潰れ方」から「触覚(手)」へとつながる道はある。そしてそこに「視覚(折れ方/潰れ方)」もつながる。けれど、それはそれで別の道であって、途中に「耳(音/響き)」を挟むとぎくしゃくしてしまう。
陶原のことばは、どこへ行こうとしているのか、と思う前に、どうしてこんな「ずれ方」ができるのか、私の「肉体」はわからなくなる。
「眠、度、処方」という作品。
とても魅力的な行で始まる。
カギ括弧(他者の声)をバネにして、ことばが加速していく。「考えかた」ということばがある。「考え方」。「方」というものが、ひとつの「リズム」であり、(たぶん陶原の詩のキーワードになる)、とてもおもしろいのだが……。
そのあと、「浸透圧」が出てきて(ここまでは納得できる)、それが「魚/眼」「膜/ミズスマシ」を経て「死んだ貝(開かない)」などを経て「かちん、と あたる」「触れる」という動詞へ動いていく。
「考えかた(方)」の「方」というのは、一種のパターンだが、そのパターンは私の知らないものである。私の肉体はそういうパターンを経験してきていない。だから、ついていけない。
最初から「ついていけない」のなら気にならないが、書き出しはぐいと引き込まれる。私の「肉体」が体験してきたもの、「肉体」がどこかでおぼえているものを刺戟するのだが、ことばが進むにつれて、そのことばといっしょに動く「肉体」とはどういうものなのか、つかみどころがなくなる。つかめなくなる。
ことばを読む。そのとき最初に感じるのは何だろうか。私は、ことばとことばの「間合い」。「間合い」にリズムがあると読みやすい。リズムがないとつまずいてしまう。
たぶん私の年齢と関係があるのだと思うけれど、私は、「最近の若い人」のリズムについていけない。
陶原葵『帰、去来』の「窟」という作品。
花の首の折れ方
その細胞の潰れ方が
この二行はとてもおもしろい。「花の首が折れる」を「細胞が潰れる」と言いなおされる。「方」ということばを反復することで、言い直しであることを明確にしている。これはリズムとしてもとても納得できる。リズムに従って、ことばの視線が「花の首(茎)」に集中していく。「ことばの肉体」を感じるのは、こういうときである。
あ、傑作が誕生する、という期待をいだきながら読み進む。
花の首の折れ方
その細胞の潰れ方が
並んでいる
わたしが首をまわす亀裂音は
そとの耳 にも響いている か
私は、しかし、つまずきはじめる。「並んでいる」までの一行空きが、「方」を反復したリズムとかけ離れている。「方」を反復する。反復はリズムの強調。ここからリズムが加速していくのなら納得できるのだが、反復してリズムを強調したあと、突然中断してしまうと、私のような年齢(私だけかもしれないが)では、次の「一歩」をどう動かしていいかわからなくなる。
詩は、さらに一行空きを挟んで「わたしの首」「亀裂音」へと動いていく。「わたしの首」は「花の首」を引き継いでいる。「亀裂音」は、しかし、「潰れる音」を引き継いでいない。言い直しにはなっていない。もちろん、言い直しでなければならない理由はないし、陶原のこの作品の場合、「首」から「耳」へと「肉体」(感覚)が拡大/拡張していくのだから、これはこれで、もうひとつのリズムと言える。
だが、そのあとはどうなのだろう。
連がかわって、詩はこうつづいていく。
夜 にはまだときおり
覆水を手ですくい
集めようとしている のだが
行き交うひとはみな
満杯の蛍籠をさげている
(どこかで風船の糸が絡まりますので
地にはりついた月、
私は完全についていけなくなる。「間合い(リズム)」がどうなっているのか、わからない。
「首」(折れる/潰れる)が「首(まわす/亀裂)」を通って「耳(音/響く)」に動いていくのは「人間」の「肉体」(感覚)が連続しているととらえ直すことができるが、そこから突然「手」へとことばが飛躍する。さらに「蛍(籠)」「月」という「光(視覚)」へと移動する。
私の「肉体」は、こういう具合に動けない。「耳(聴覚)」から「手」へ、さらに「手」から「目(視覚)」へとはスムーズには連続しない。
もちろん「折れ方」「潰れ方」から「触覚(手)」へとつながる道はある。そしてそこに「視覚(折れ方/潰れ方)」もつながる。けれど、それはそれで別の道であって、途中に「耳(音/響き)」を挟むとぎくしゃくしてしまう。
陶原のことばは、どこへ行こうとしているのか、と思う前に、どうしてこんな「ずれ方」ができるのか、私の「肉体」はわからなくなる。
「眠、度、処方」という作品。
それ おぼえている夢と そうでないものがありますが
どのように ふりわけられているのでしょう
とても魅力的な行で始まる。
「……大きさが ちがうのですね」
気のもちよう、とか 考えかたのちがい、なども
大きさ、でしょうか
カギ括弧(他者の声)をバネにして、ことばが加速していく。「考えかた」ということばがある。「考え方」。「方」というものが、ひとつの「リズム」であり、(たぶん陶原の詩のキーワードになる)、とてもおもしろいのだが……。
そのあと、「浸透圧」が出てきて(ここまでは納得できる)、それが「魚/眼」「膜/ミズスマシ」を経て「死んだ貝(開かない)」などを経て「かちん、と あたる」「触れる」という動詞へ動いていく。
「考えかた(方)」の「方」というのは、一種のパターンだが、そのパターンは私の知らないものである。私の肉体はそういうパターンを経験してきていない。だから、ついていけない。
最初から「ついていけない」のなら気にならないが、書き出しはぐいと引き込まれる。私の「肉体」が体験してきたもの、「肉体」がどこかでおぼえているものを刺戟するのだが、ことばが進むにつれて、そのことばといっしょに動く「肉体」とはどういうものなのか、つかみどころがなくなる。つかめなくなる。
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