監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール
男二人に女一人。
この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
しかし、うーむ、と私は考える。
この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
これって、どういうこと?
なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
キーワードは「傲慢」だろうなあ。
オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
で。
で、なのである。
フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。
あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。
どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
(「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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男二人に女一人。
この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
しかし、うーむ、と私は考える。
この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
これって、どういうこと?
なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
キーワードは「傲慢」だろうなあ。
オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
で。
で、なのである。
フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。
あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。
どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
(「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)
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