詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(★★★★)

2017-06-21 20:59:26 | 映画
監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール

 男二人に女一人。
 この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
 途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
 しかし、うーむ、と私は考える。
 この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
 これって、どういうこと?
 なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
 キーワードは「傲慢」だろうなあ。
 オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
 そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
 男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
 で。
 で、なのである。
 フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
 ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
 私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
 あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
 でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。

 あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。

 どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
       (「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/



突然炎のごとく Blu-ray
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おしりを切る」

2017-06-21 08:57:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「おしりを切る」
               自民党憲法改正草案を読む/番外90(情報の読み方)

 「加計学園をめぐる文書」がとてもおもしろい。萩生田官房副長官「ご発言要旨」(2016年10月21日)だが、そこに私には耳慣れないことばがある。(引用は、2017年06月21日読売新聞朝刊(西部版・14版)は2面から。2017年06月20日の毎日新聞夕刊(西部版・4版)は文書の写真そのものを載せていた。)

総理は「平成30年(2018年)4月開学」とおしりを切っていた

 「おしりを切る」という表現がおもしろい。期限を切っていたくらいのことは言うが、私はそういう言い方をしないし、聞いたこともない。私はそれが「お尻を切る」とは、最初は読めなかった。「おしり」が「期限」と気づくまでに数秒かかった。
 で、ここがポイント。
 政治家や官僚のあいだでは期限を切る(締め切りを設ける)ことを「おしりを切る」と言うのかどうか。だれが、そういうつかい方をしているか。それを「他の文書」と比較すれば、発言者が誰かわかる。
 交渉の過程で「〇日までに」という「期限」は頻繁に登場するはずである。そのとき、それを「おしりを切る」という言い方で言うのは誰か。安倍はそう言うのか。安倍が「平成30年4月までに」と言ったのを、誰かが「おしりを切る」と言いなおしたのか。
 これをぜひ調べてもらいたい。

 この文書については、萩生田が、

文書は、文科省の一担当者が伝聞など不確かな情報を混在させて作った個人メモだと文科省から説明とおわびがあった。不正確なものが作成され、意図的に外部に流されたことに強い憤りを感じる。

 と語っている。
 「不正確」ということだが、「不正確」というのは、どこかに「正確」な部分もあるということだろう。全くの「捏造」なら「不正確」ではなく、「捏造されたもの」、それこそ「怪文書」と即座に否定されるだろう。
 でも、そういう表現を文科省も萩生田もしていない。
 全部ではないが、「一部」は萩生田独自のものである。聞いたことを書いたのだから、テープレコーダーのように正確ではないかもしれないが、「ほんとう」が含まれている。
 で、いちばんの「核心」は、やはり

おしりを切っていた

 である。
 こういうことばは「捏造」できない。「口癖」は、そのひとのものである。
 この「おしりを切る」は萩生田独自のものではないのか。
 他の人のつくった、他の件に関する「萩生田ご発言概要」に「おしりを切る」があれば、これは絶対に萩生田の発言をまとめたものだということになる。文科省に限らず、あらゆる省庁の文書を調べ「おしりを切る」をピックアップしてもらいたい。
 野党は、それを要求してほしい。マスコミも、それを独自の手段で調査してほしい。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする