詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-32)

2017-06-01 08:24:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-32)(2017年06月01日)

63 泥人形

魂しいの
表記はそこになつているが
いま誰も住んでいない

 「表記」は「住所表記」ということか。

行方不明だつた泥人形がそこに崩れていた

 「泥人形」は「魂しい」をなくした人形だろうか。
 しかし「魂しい」そのものように思えてくる。「魂しい」が「泥人形のように」、そこに崩れている。「崩れている」は「魂しい」が崩れていると読んでしまう。「崩れた魂しい」がそこにある。「崩れた」から「存在の在り処」がわからない。つまり「行方不明」。言い換えると「行方不明」なのではなく、「崩れた」ために存在がわからなくなっていた。
 ことばは往復しながら「誤読」の迷路を深める。「意味」がだんだんわからなくなる。非論理的になる。けれど気持ちは逆に「わかる」にかわる。

64 *(氷で家を造るような哀しさになる)

氷で家を造るような哀しさになる
太陽が出ると
溶けてしまう

 詩は、「論理」で読むと奇妙なことになる。
 氷の家は太陽の熱で溶ける。氷の家が「哀しさ」の比喩ならば、溶けてしまった方が幸せになるから、いいのではないか。
 でも、この詩は、そんなことを書いているわけではないだろう。
 氷の家が太陽の熱で溶けてしまう。そういうふうに形がなくなるものが「哀しい」と言っているのだと思う。
 「論理的」には説明できない。
 ただ、そういうふうに「誤読」して、その瞬間「哀しさ」というものが見えたような気がする。「哀しさ」が「わかる」。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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