監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、シルバーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー
06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
どこが傑作か。
映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
よくわからない。
けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
うーん。
途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
(KBCシネマ2、2017年06月18日)
*
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06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
どこが傑作か。
映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
よくわからない。
けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
うーん。
途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
(KBCシネマ2、2017年06月18日)
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