詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ビスコンティ監督「家族の肖像」(採点不能)

2017-06-20 11:00:47 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、シルバーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー

 06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
 「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
 どこが傑作か。
 映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
 もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
 あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
 そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
 よくわからない。
 けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
 あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
 いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
 バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
 うーん。
 途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
 これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
 これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
 部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
 後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
 他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
                      (KBCシネマ2、2017年06月18日)

 *

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安倍の手口(国会閉会記者会見)

2017-06-20 09:56:40 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(国会閉会記者会見)
               自民党憲法改正草案を読む/番外89(情報の読み方)

 2017年06月20日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面で安倍の記者会見を報道している。

首相「加計」対応を陳謝/国会閉会で会見 「国民不信招いた」

 その「陳謝」というのは、加計学園、森友学園問題を念頭に、

「国会は建設的議論という言葉からは大きくかけ離れた批判の応酬に終始した」と指摘。そのうえで「(野党の)印象操作のような議論に、つい強い口調で反応してしまう私の姿勢が、政策論争以外の話を盛り上げた。深く反省している」と述べた。

 ということらしい。
 加計学園、森友学園問題を質問することが「建設的議論」からどうしてかけ離れるのだろうか。安倍がふたつの学校に便宜を図っている。安倍の「意向」で政策がきまるなら、国政は安倍の思うがまま(独裁)になる。独裁を許していいのかどうかは国の基本である。そして、それは「政策論争以外の話」でもない。実際に多額の金が動いている。「国の予算(国民の税金)」が動いている。国民が損失を被っている。(被る恐れがある。)それが「政策以外の話」とどうして言えるのか。
 野党の質問は、安倍がしたことへの「疑惑」を追及しているのであって、単なる批判ではない。
 安倍は「批判の応酬」ということばをつかっている。「応酬」というのは一人でできるものではない。複数の人間(主張)が必要である。野党は安倍の「疑惑」を追及した。これに対して安倍は「野党は印象操作をやっている」と応酬した。安倍が野党の批判に対して批判のことばを返すのではなく、問題点をきちんと答えれば「批判の応酬」ではなく「建設的議論」になった。野党に責任があるのではなく、質問に答えず野党を一方的に批判したことに問題がある。

 しかし、ばかげている。安倍は

「何か指摘があれば、その都度、国会の開会、閉会にかかわらずわかりやすく説明していく」と理解を求めた。

 と読売新聞は書いている。
 もしそれがほんとうなら「記者会見」ではなく、国会議員の質問に答えるべきである。「記者会見」ではなく「国会議員会見」を開くべきである。
 国会議員は国民の代表である。マスコミの記者は企業の一員であって、彼らを国民が選んだわけではない。企業が企業の基準に合わせて選んだ人間に過ぎない。国民が選んだ人間の前で、きちんと対応すべきである。
 記者会見に出席し、質問を「許された」のが誰なのかわからない。読売新聞は記者の質問を掲載していない。だが、その会見場に誰もが入れるわけではない。誰もが質問できるわけではない。これは、予め記者が「選定」されているということだ。そしてその選定には、国民は一切かかわっていない。国会議員は、国民が選んだのに対して、「記者会見」に出席した(出席できた)記者は国民が選んだものではない。
 私は全部の「応答」を見たわけではない。聞いたわけではない。しかし、私が聞いた限りでは、記者は「なぜ、国会で謝罪しないのか。なぜ、国会で質問に答えないのか」とは問いかけていなかった。
 「共謀罪」の審議打ち切り、強行可決について、「なぜ、国会の会期を延長しなかったのか」「なぜ、加計学園問題について国民が疑惑をもっているのに、国会の場で問題が明確になるまで議論をしなかったのか」と問いかけていない。
 国民がいちばん知りたいのは、そこである。
 なぜ、疑問が噴出しているのに国会を閉会したのか。「国民不信を招いた」「深く反省している」というのなら、なぜ、いまから国会を開かないのか。臨時国会を開けばいいではないか。記者会見ではなく、国民の代表である国会議員の質問に答えればいいではないか。
 大勢の記者がいて、誰一人としてそのことを質問しない。
 民主主義が否定される現場にいて、民主主義が否定される瞬間を、多くの記者が「肯定」している。民主主義の破壊、独裁に加担している。
 都議選や憲法改正、内閣改造(人事)、日露交渉などについて質問した記者がいたが、まず質問すべきは「なぜ、国会審議を強行に中断したか」だろう。
 「自分はこんなに国政のことを考えている」と宣伝するための気取った質問ではなく、マスコミの記者なら、もっと泥臭いことを質問しろ。国会議員がしないような、もっと庶民感覚に根ざした質問、国会では質問できないことを聞くべきである。あ、そういう質問の仕方があるのか、と聞いている人がびっくりするような質問を考え出すべきである。そうやって金を設けるのが企業の論理というものだろう。権力に擦り寄って、安倍が言いたいことを言わせるための質問など、自民党と公明党の議員に任せておけば十分である。

 5月、安倍が憲法改正について読売新聞のインタビューに応じ、国会で「読売新聞を読め」と言った。私はそのときたまたま海外旅行中だったのだが、聞いた瞬間、「あっ、国会解散だ」と思った。首相が民主主義を否定した。国会は国民の代表が議論する場所である。そこで国会議員に対して質問に答えずに、「新聞を読め」と言った。国民の代表である国会議員が質問したら、首相はそれに答える義務がある。質問しているのは議員ひとりではないのだ。その背後に何万人もの国民がいるのだ。そのひとたち全てに対して「読売新聞を読め」と安倍は言ったのだ。
 だいたい「読売新聞を読め」というが、それはどこにあるのか。誰もが無料で読めるのか。読むための新聞は誰が提供するのか。視覚障害者のために、誰が読んで聞かせるのか。国民に買えというのなら、その予算はどうするのだ。首相が一企業の商品を国民に強制するのは、なぜなのか。「安倍インタビューに対する反論は赤旗に書いてある。これも政府の予算で買い上げて国民に配布してもらいたい」と共産党が言ったら、安倍はそのための予算を組むのか。読売新聞は読みたくない、という人にはどう対応するのか。思想として読むことを拒否しているひとに読むことを強制すれば、思想・信条の自由を保障した憲法に違反する。--いろんな論点から安倍の発言を批判し、問題点をあぶりだすことができるのに、野党はそれができなかった。
 「自分の声」に忠実に生きるなら、「ことば(批判)」はどこまでも多様性を持つ。多様性こそが民主主義なのに、多様性を表現する方法を野党も見失っている。

 「読売新聞を読め」に私はカーッと来たが、あのときは「直接的」にニュースを知ったわけではないので、まだ冷静だった。きのうはテレビで記者会見を聞き、ほんとうに頭に血が上った。仕事中だったのだが、仕事が手につかなかった。テレビに向かってものを投げつけたくなった。
 安倍にこびる記者を直接見て、ほんとうにぞっとした。

 私は思いついたままなんでも書くので、同時になんでも書き忘れてしまう。「共謀罪」について、これまで書き漏らしたことを書いておく。
 安倍は記者会見で、「テロ等準備罪法はテロ対策に不可欠で適正な運用に努める」(読売新聞の要約)と語っている。だが、この法律は日本の法律。いま、世界で起きているテロの実行犯は日本人ではない(と思う)。日本に支援組織があって、彼らを支えているわけではない(と思う)。この法律が東京五輪開催に不可欠と安倍は言ったのだが、東京五輪で想定しているテロとはどんなものなのだろうか。日本人が起こすテロ? 今起きているテロの首謀者は「イスラム過激派」と見られている。彼らの動きを規制するのに、日本の法律がどれだけ有効なのか。国際社会と連携して、というけれど、日本の法律を外国にまで適用することはできない。
 私はなんでも現実的に、つまり自分の知っている範囲で考えるので、安倍が言っていることは信じられない。日本の法律で外国のテロリストを取り締まることはできない。だとすると、外国人が東京五輪を狙ってテロを仕掛けてきたとしても、その「準備段階」を摘発できない。実際に犯人を拘束できるのは、東京五輪でテロが起きて、その犯人が日本にいるときにだけである。法律の狙いは、「イスラム過激派」には適用されない。
 言い換えると。
 この法律は外国人による東京五輪テロを封じるためではなく、日本人の行動を規制するためのものにすぎない。法律を成立させるための名目に東京五輪がつかわれたということは、日本人を規制するために東京五輪という名目が、これからどんどんつかわれるということである。
 「金のかかる東京五輪、反対」とデモをすれば(あるいは発言すれば)、それだけで東京五輪テロを間接的に支持したことになると見られ、逮捕される、ということが起きかねない。「谷内は、こんなことを言って東京五輪に反対していた」と密告される、ということも起きかねない。この文章を読んでいる人に対しても、だれそれは谷内の文章を読んでいた、と密告されるということである。
 どんな発言にも目を凝らし、テロに通じる可能性があるものはすべて摘発する。それが「テロ対策に不可欠で適正な運用である」と安倍なら言うだろう。「適正な運用」の「適正」を判断するのが誰なのか、それが問題になる。
 ほら。最近、女性がレイプされた。逮捕状まで出た。逮捕状を発行するのは裁判所である。しかし、その裁判所の判断を無視して、逮捕は執行されなかった。容疑者が安倍の友人だったから。これは、つまり「適正な運用」の判断を安倍がしたということ。裁判所は無視された。
 こういうことが「共謀罪」によって拡大するのだ。
 森友学園も「安倍晋三記念小学校」や幼稚園の運動会で「安倍晋三総理大臣ばんざい」と言っていたときは優遇され、関係を追及されると「しつこいひと」と切って捨てられる。それが「適正な運用」ということばで語られる。
 「適正な運用」というのは、安倍にとって「適正」ということであって、国民にとって「適正」ということではない。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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