詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井裕美子「三月の、海」

2017-06-22 09:31:54 | 詩(雑誌・同人誌)
金井裕美子「三月の、海」(「季刊詩的現代」21、2017年06月発行)

 金井裕美子「三月の、海」はとても静かな詩である。

藤沢から
三両編成の電車に乗った
軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ
ここから見える景色が好きだ
あなたの指さした先には
三月の、海
雨がふっていて
銀鼠色にかすんでいるから
どこまでが海で
どこからが空なのか
すぐそこなのか遠いのか
わからない

 こういう風景は(あるいは、こういう風景を見る体験)は特にかわったことではないだろう。それが淡々と書かれている。「銀鼠色」が少し「詩」っぽいかなあ。詩の気取りがあるかなあ、という感じ。でも、うるさくない。読む先から「肉体」のなかに入ってくる。こういう風景を見たことがある、あれに似ている、と思い出すのである。
 しかし、この先が、少しつまずく。

じっとみていると
わからなくてもよくなって
あなたの海を
そっと内側に移した
こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも
かすんでいる
終の駅まで
ただ膝をならべてゆれて

 うーん。「あなたの海を/そっと内側に移した」。これがわかりにくい。わかりにくいと同時に、わかりにくいからこそ、これがいちばん言いたいことなんだろうなあ、と感じる。
 こういうことは、詩ではなく、現実にもある。
 誰かが、ほんとうのことを言う。それはそのひとだけのことばなので、それを「論理的」に言いなおして納得するのはむずかしい。でも、あ、これは言わずにはいられないのだ。その「言わずにおれない」という気持ちが「わかる」。いや「わかりたい」という気持ちが「わかる」を追い越して、そのことばへ近づいていく。
 「内側に移した」の「内側」が、特に、その印象が強い。「わからない」けれど「わかりたい」。「外側」は雨と海。「内側」は「電車の中」。単純に考えるとそうだけれど、「外側」を「内側」に「移す」ということは、できないなあ。「海を」「電車の内側に移す」というのは「現実」にはむり。その「むり」を書く気持ちにぐいと引きつけられる。
 もういちど、前のことばを読み返す。「あなたの海を」と書いているが、ここにはことばの省略がある。あなたの「指さした」海、である。そこでは重要なのは、書かれていない「指さした」である。「あなたが指さした」のである。「ほら、海だよ(この海が好きなんだよ)」と「指さした」。「指さした」ことを、金井は思い出しているのだ。「海」ということばで終わっているが、重要なのは「海」ではなく書かれていない「指さした/あなた」だ。
 その「思い出」を、いま「自分の内側に」移した、と読んでみる。あなたが「指さした」、そして「好きだと言った」ということを自分の「内側」で思い出してみる。確かめてみる。そういうことを「内側に移した」と言っているのではないだろうか。「そっと」というのは、自分一人で、だれにも語らずに、ということだろう。
 「指さした」ということばが省略されているのはなぜか。最初に引用した部分に「あなたの指さした先には」ということばがあるから省略したのだが、それだけではない。あなたが「指さした」ということが金井にはわかりきったことだったからだ。金井の「肉体」のなかにはっきりと記憶されている。ことばにしなくてもわかっている。だから省略してしまったのだ。あなたが「指さした」ということ、あなたの「肉体の記憶」が金井にははっきりと残っている。金井は「あなた」になって「指さす」という動きを確かめている。一人二役。「指さすあなた」「指さされたところを見つめる私」。それは、ことばにする必要がない。金井には「わかりきっている」。

 少し逆戻りしてみる。最初に引用した部分。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ

 ここにも省略がある。省略を補うと、こんな具合か。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
(走り抜ける)
やがて
ゆるい左カーブ
(走り抜ける)

 「通り抜ける」でもいい。そこには「時間の経過」がある。「走る」という動きの中に時間がある。時間がすぎる、と言い換えることもできる。
 「時間がすぎる」は「過去になる」ということでもある。そしてそのことは、「時間はすぎて過去になる」が、変わらないものもあるという感覚をも呼び覚ます。「風景」は変わらない。海は変わらない。「あなたの指さした海」は、いまも、そこにある。そして、そこに海があるなら「指さしたあなた」も「いま/ここ」にいるのだ。
 「あなたの指さした」は「いま」のことではなく「過去」だけれど、忘れた過去ではなく、いまもはっきりと思い出すことのできる過去。過去というよりも「いま」そのものの感じ。「いま/ここ」なのだ。
 過去か、いまか、わからない。
 わからないではなく、「わからなくてもよくなって」かもしれない。

 そう読み直すと、

こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも

 は「内側」「外側」ではなく、もっと違ったものに感じられる。「こちら」が「内側」、「あちら」が「外側」ではない。どうしても「こちら=此岸」「あちら=彼岸」と感じてしまう。「こちら」でいっしょに生きているとき、海を指さすその指を見ているとき、「あのよ」なんて思いもしない。また「こちら」にいるというのは「あちら」から帰ってくるということ。「思い出す」時、あなたは「こちら」にいて、「あちら」にはいない。「あちら」がある、「あちらにいることになる」ということなんか考えない。
 そしてまた、実際に「こちら」「あちら」にわかれてしまっても、思い出すそのとき「あちら」は「内側=こころ(肉体のなか)」そのものになる。「こちら」「あちら」の区別はなくなる。区別が「かすんでいる」。
 思い出をいつまでも抱いて、「終の駅」まで、と思っている。

 こんなことを、金井は、くどくどとは書いていない。金井にはわかりきっているから、ことばを省略して書いている。その省略が詩を強くしている。私の感想は、その詩の強さを弱めてしまうことになるかもしれないけれど、ついつい書いてしまう。
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