詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党の「たたき台」を読む(3)

2017-06-23 19:13:11 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(3)
               自民党憲法改正草案を読む/番外93(情報の読み方)

 21日明らかになった自民党の憲法改正案の「たたき台」(西日本新聞2017年06月22日朝刊)についてもう一点、書いておこう。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「解釈してはならない」という「禁止」は憲法の他の条文と整合性がとれない。
 「解釈する」というのは「頭」の仕事である。「理性」とか「精神」という具合に言い換えても言い。「内面」の問題、「思想」の問題である。
 「国(権力)」が「自衛隊」を設ける。そのとき、「自衛隊は戦力であるから、自衛隊を設けることは憲法に反する。憲法に反するから設けてはいけない」と、たとえば私が主張する。
 「自衛隊は憲法に反する」「憲法第9条は自衛隊を認めていない」と「解釈する」。それを「禁止している」。
 何を(どのことばを)どう「解釈する」かは、個人によって違う。その「違い」を自民党の「たたき台」は禁止している。それまで「主語」であった「日本国民」をおしのけて、「日本国民」に命令している。
 これをいったん許せば、あらゆる「解釈する」ということが禁止される。
 「アベノミクスは失敗した」と「解釈する」ことは許されず、「アベノミクスは道半ばである」と「解釈する」ことだけが許される。「安倍昭恵には公費で秘書がついている。活動に公費がつかわれている。だから公人である」と「解釈する」ことは許されず、「安倍昭恵は私人である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止ということになる。「そもそもは基本的という意味である」ということが「閣議決定」され、それ以外の「解釈」は禁止される。
 これはすでにおこなわれている。いまのところ「閣議決定」は「反論」を禁止してはいない。「解釈してはならない」とは言っていない。「閣議決定」は「こう解釈する」ということを宣言しているだけだが、これは即座に「解釈してはならない」ということにかわる。

 何を、どう「解釈する」か。これは「頭」(精神/理性/思想)の問題であるから、「頭」を鍛える「教育」とも深く関係してくる。
 今回の「たたき台」では「教育の無償化」は問題としては取り上げられていない。もっぱら「憲法9条」と「自衛隊」が問題にされているが、「教育」についても注意しなければならない。
 「無償化」を前面に押し出しながら「思想の自由(どう解釈するかの自由)」が制限される恐れがある。「ある解釈」が「禁止される」ということが起こりうる。
 たとえば「教育勅語は、親や兄弟をたいせつにすること、道徳の基本を解いたものである」という「解釈」は許すが、「第二次大戦を遂行するときの思想的基盤になった」という「解釈」は許さない、という具合だ。
 政権を批判する、政権のやっていることを批判的に「解釈する」ということも禁じられるだろう。政権のやっていることは「正しい」。それ以外は「間違っている」という「解釈」だけが存在する世界になる。
 つまり「独裁」になる。
 「解釈してはならない」ということばは、「独裁政権」を推し進める。

 すでに「解釈の限定」(こういう解釈はしてはいけない)は安倍によって先取り実施されている。(たとえば「そもそも」の「意味の閣議決定)。それは「笑い話」のように受け入れられ、存在してしまっている。閣議決定の取り消しはおこなわれていない。
 そういう「小さい穴」が「大きな落とし穴」になっていく。

 現行の憲法は第十九条で、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定している。「解釈してはならない」はこの十九条に違反する。日本国民が、あらゆることに対して、それぞれの「解釈をもつこと(解釈をすること)」は憲法で保障されている。「国(権力)」それを「侵してはならない」と禁止されている。
 この禁止を、自民党の「たたき台」は破っている。
 「たたき台」だから、今後かわるのかもしれないが、こういう「たたき台」を出してくるところに、安倍自民党の「本音」が隠れている。日本国民が、それぞれの立場でそれぞれの「解釈をする」(考えを持つ、思想を持つ)ということを禁止したいのだ。
 究極の「独裁」をめざしている。
 安倍が総理大臣のまま「自衛隊」の「指揮監督権」の「最高責任者」になったとき、その「自衛隊」が武器を向けるのは外国からの侵入者である前に、国内の安倍批判をする人に対してであろう。中国で起きた「天安門事件」が必ず起きる。戦争法審議のときは「自衛隊」が出動しなかったから「天安門事件(国会議事堂前事件)」にならなかったが、憲法に「自衛隊」が組み込まれれば、安倍は絶対に「自衛隊」を出動させるだろう。「自衛隊は国の安全を守るためのもの、国の安全が脅かされるときは出動しなければならない」という理由で。そしてこのとき「国の安全」とは「政権の安全」なのである。「国=政権=安倍」という「解釈」以外は、当然、そのとき禁止されている。「国民に主権がある」という「解釈」も禁止されている。
 「解釈してはならない」ということばを見落としてはならない。



#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
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自民党の「たたき台」を読む(2)

2017-06-23 09:07:59 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外92(情報の読み方)

 前回書き漏らしたことを追加する。(私は目が悪くて40分以上パソコンに向かうと、文字が書きづらくなる。一回あたり40分をめどに書いているので、どうしても書きそびれることがある。)
 前回は、自民党の憲法改正の「たたき台」では「主語」が「日本国民(私)」から「内閣総理大臣」にすりかわっていることを指摘した。現行憲法では「主語(主役)」は「日本国民」で一貫している。自民党の「たたき台」は、これを「内閣総理大臣」にすりかえている。しかも途中に「主語(内閣総理大臣)」を隠した文章をはさみ、読んだ人が無意識に(?)頭のすみで「内閣総理大臣」を思い浮かべるのを待って、「主語」を「内閣総理大臣」にかえるという「詐欺行為」のようなことをしている。
 今回書くのは「文民統制」のこと。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 この「たたき台」の「2」の方を中心に書く。
 「自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。」だけを読むと、「自衛隊」は「国会の承認」のもとに動く、「国会(国民の代表が議論して決めた結論)」に従って動くように読むこともできる。
 しかし、この部分は「補則」である。その前に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し」とある。「内閣総理大臣が指揮監督をする。内閣総理大臣の指揮監督が最高のものである」と書いている。
 これは順序が逆でなければ「文民統制」にならない。
 「国会(国民の代表)」が「自衛隊の行動」を「指揮監督するための法律」をつくる。その「法律」に従って「自衛隊」は行動する、という形にならないといけない。「内閣総理大臣」が「指揮監督をする」にしても、それは「国会」で決めた「法律」に従って「指揮監督をする」のである。つまり「内閣総理大臣」は「法律(国会で決めたこと)」を実践するだけである。「国会」の「下請け」でなければならない。
 自民党の「たたき台」は、これを逆転させている。「独裁」を許している。「独裁」を保障している。
 西日本新聞(2017年06月22日)はこの部分に関して、

自衛隊法にも首相が自衛隊の指揮監督件を有するとした同様の規定がある。

 と自民党の「たたき台」を「肯定的」に書いているが、この「評価」は「憲法」と「自衛隊法」の位置づけを間違えている。「自衛隊法」があって「憲法」があるのではない。「憲法」があって、その下に「自衛隊法」がある。「自衛隊法」は「憲法」を逸脱してはならない。(どのような法律も憲法を逸脱してはならない。)
 憲法では「国会(立法府)」が最高機関である。法律をつくる。その法律に従って「内閣(行政府)」が行政を行う。裁判所(司法)は、その「行政」に「憲法違反がないかどうか」をチェックする。あるいはいくつもの法律が憲法に違反しないか、法律同士、齟齬をきたさないかチェックする。(もちろん「行政」だけでなく、「国民」が法律違反を犯さないかもチェックするけれど。)
 これは現在の「国会」と「内閣」「自衛隊」の関係をみればわかることである。
 「自衛隊」が「海外」へ出兵する。(「自衛隊を派遣する」と安倍は言っている。)そのとき安倍(内閣総理大臣)が命令したから出兵するのではない。その前に「国会」で「自衛隊が出兵するための根拠となる法律」が制定される。その法律に従って「自衛隊が出兵する」。「国会」の審議が安倍独裁のままにおこなわれているため、「国会」は何もしていないように見えるが、それでも「手続き」はきちんと踏まえられている。「国会」が「法律」を決め、その「法律」にもとづいて「自衛隊の出兵」が命令されている。「自衛隊」の行動に対する指揮、監督がおこなわれている。
 自民党の「たたき台」は、こうした今のあり方を否定するものである。

 言い換えると。
 自民党の「たたき台」は「自衛隊」を憲法に書き加えるということを通して、いまの憲法そのものを否定している。「国民主権」を否定し、「内閣総理大臣の独裁」を後押しするものである。
 「たたき台」は「憲法違反」である。

 ことばというのは、どういう順序で書くか、ということが重要である。最初に書かれていることが優先し、そのあとに書かれていることは「補則」である。ことばは完全なものではない。一度では全てを言い表せない。だから人は「追加」「追加」(補則、補則)という形でことばを補う。
 そのとき「補則」があるからそれでいいというものではない。
 実際に何かあったときは、書かれている順序で、行動は制限される。最初に書いてあることがいちばん重要なのだ。
 だから憲法は

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

 と最初に「主語」を「日本国民」と定義し、それから「国会」という具合にことばをすすめている。

 マスコミの仕事は、「権力」の代弁ではない。「権力」が隠していることをチェックすることである。
 「自衛隊法も首相の指揮監督権を有する」という規定があるなどと、簡単に自民党に騙されるのはなさけない。「憲法」と「自衛隊法」の関係(どちらが優先するか)を無視して、「自衛隊法」に認められているから「憲法」もそれに従うというのでは「憲法」の意味がない。
 「自衛隊法」は「憲法」の下にあって、「自衛隊」のなかで完結するものである。「自衛隊法」で認められていることが、他の分野にまで適用されるわけではない。いったん「国会」で法律がきまったら、その法律にもとづいて「内閣総理大臣が指揮監督をする権利を有する」ということを、「内閣総理大臣が指揮監督権を有する」という部分だけを取り出してきて、「同様の規定がある」と言うのは安倍の「口車」に乗ったものである。安倍の改憲「手口」の片棒を担ぐものである。

(「自民党の「たたき台」を読む」という文章もお読みください。今回の文章は、そのつづきです。)

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自民党の「たたき台」を読む

2017-06-23 00:56:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む
               自民党憲法改正草案を読む/番外91(情報の読み方)

 西日本新聞2017年06月22日朝刊に自民党憲法改正推進本部がまとめた「たたき台」が掲載されている。
 それによると、現行の

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

に、「9条の2」を新設するというのも。その「9条2」は以下の通り。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「新設項目」のどこに問題があるか。私は「主語」と「動詞」にこだわって考えてみる。
 まず現行憲法では「主語」が「日本国民」である。
 第1項目では、「日本国民」は「国際平和を希求する」(動詞)、「日本国民」は「戦争と」「武力行使は」「放棄する」(動詞)と明確に語っている。
 第2項目で「戦力は、これを保持しない」と書いている。「戦力は」というのはテーマである。これを「日本国民」は「保持しない」(動詞)。さらに、「国の交戦権(テーマ)」については、「日本国民」は「これを認めない」。「日本国民」が「国」に対して「認めない」と言っている。言い換えると「日本国民」は「国」に「戦争をさせない」と言っている。
 主語は一貫して「日本国民」である。「日本国民」は「戦争を放棄する」、言い変えると「日本国民」は「国(政府)」に「戦争をさせない」と言っている。「国」に対して「禁止事項」を申し渡している。
 そしてこのときの「日本国民」というのは「抽象的」な存在ではない。「概念」や「ひとの集まり」ではない。それは、私たちひとりひとりである。言い換えると「私」である。「日本国民は」と書かれている部分はすべて「私は」と読み替えることができるし、そうしなければならない。憲法は「国」のありかたの基本であると同時に、ひとりひとり、つまり「私」の生き方の指針なのだ。
 「私」は「平和を希求する」、「私」は「戦争を放棄する」、「私」は「国の交戦権を認めない」。「国」よりも「私」の方が偉いのだ。「私」は国の言うことなど聞かなくてもいい。しかし「国」は「私」の言うことを聞け、というのが「憲法」の理念である。「主権」は「国民」、つまり「個人」にある。

 自民党の「たたき台」では、この「主語」が「日本国民」ではなくなる。
 9条の2。「前条の規定は」……「解釈してはならない」。というのは、現行憲法の「文体」にあわせて考えると、「前条の規定(テーマ)は」、「これを」「国は(権力は)」「……と解釈してはならない」なるべきである。しかし、そういう「意味」ではない。自民党の「たたき台」は、「戦争を放棄する」と主張している「日本国民」に、つまり「国に戦争をさせない」と国に禁止事項を言い渡している「日本国民」に対して「解釈してはならない」と逆に禁止事項を設けているのだ。
 そして、この条文には「だれ」が「主語」なのか書いていない。「だれが」日本国民に対して「解釈してはならない」と禁止を命じてているのか、書かれていない。これが大問題である。自民党の「たたき台」の「罠」である。書かないことで「ごまかしている」。
 その前に「自衛隊を設ける」という「動詞(設ける)」が出てくる。「だれ」が「自衛隊を設ける」のか。「主語」は「日本国民」ではない。「私/個人」は「自衛隊を設ける」ということなどできない。「戦争を放棄している」「戦力の保持を否定している」「日本国民」が「自衛隊」を「設ける」というのは、完全に矛盾している。「戦争を放棄していない」誰かが「自衛隊」を「設ける」のである。
 「個人」ではなく、もっと大きな「組織」が「自衛隊を設ける」。そして、この「自衛隊を設けた」だれか(組織のリーダ)が、「日本国民/私/個人」に対して「解釈してはならない」と命令している。
 「だれ」が「日本国民/私/個人」に命令する「権利」を持っているのか。これを隠したまま、自民党の憲法改正案は動いている。「日本国民/私/個人」を否定している。さらに、その「自衛隊」というものが「日本国民」を集めることで成り立っているのだとすれば、それは「徴兵」ということになるだろう。「日本国民/私/個人」がおのずと集まってきて「自衛隊」を「組織する」のではない。「誰か」が「自衛隊」を「設ける」。「設ける」ために人を集める。「徴兵する」のだ。
 9条の2の2。ここに突然「内閣総理大臣」が出てくる。「日本国民」が「国」の「行動」を縛る(国に対して禁止事項を決める)のが憲法なのに、「日本国民」によって「権能」を制限されるはずの「国/内閣総理大臣」が突然「主語」になる。
 ここから引き返して「9条の2」を読むと、

前条の規定(テーマ)は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を「内閣総理大臣が/国が」設けることを「日本国民が」妨げるものと、「日本国民」は解釈してはならない「と、国は禁止事項を日本国民に申し渡す」。「戦争の放棄を国に対して要求する日本国民」は、「自衛隊が戦力であると主張したり、自衛隊を設けようとする内閣総理大臣の邪魔をしたりしてはいけない」と言っているのだ。

ということになる。
 「日本国民/私/個人」に異議申し立てを禁止して、そのうえで「内閣総理大臣」は「最高の指揮監督権を有する」という。「有する」という「動詞」は、そこでおこなわれることを「あいまい」にする。「抽象的」にする。「最高の指揮監督権を有する」は、「内閣総理大臣」は自分が思うままに、「自衛隊」を「指揮、監督する」である。だれにも文句は言わせない。絶対権力者として「指揮、監督する」のである。「権力/権利」を持っているだけではなく、「権力/権利」はいつでも「つかわれる」ものである。「権力/権利」を「内閣総理大臣」がつかうことを、自民党の「たたき台」の条文は保障している。
 これでは「憲法」ではない。これでは「内閣総理大臣」の「独裁」の「認可証」である。
 自民党は、単に「自衛隊」を憲法に「認知させる」(憲法の中に組み込む)ことを狙っているのではない。「内閣総理大臣」による「独裁」を保障しようとしている。「日本国民」の「権利」は無視されている。いや、剥奪しようとしている。
 「自衛隊」の全体的な権力で指揮、監督するのが「内閣総理大臣」なら、その「自衛隊」を「設ける」ために「日本国民」を「徴兵する」のも「内閣総理大臣」である。なぜなら、「自衛隊」を理想の形で指揮、監督するためには、それにふさわしい「人間」をあつめなけれはならない。「人間」がいないことには「自衛隊」は存在し得ない。「最高の指揮監督をする」には、まず「徴兵」からはじめないといけない。「自衛隊」を「設ける」ところからはじめないといけない。

自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 と付け加えても意味はない。「最高の指揮監督権」は「内閣総理大臣」にある。「国会の承認」など「お飾り」である。「国会」は自衛隊を「指揮監督する(動詞)もの」ではないのだから。

 私たちは「前文」から読み返さないといけない。「前文」と「本文」が整合性をもっているかどうか、そのことを調べてみないといけない。
 現行憲法は、こう書いている。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 「主語」はいつでも「日本国民」である。それは「われら」ということばで言い換えられているが、私たちはそれを「複数」ではなく、「私」と読み替え、「個人」としてそれを実践しなくてはならない。憲法は行動指針である。憲法は「国」のためのものではなく、「個人」のためのもの。「内閣総理大臣」のためのものではなく、「私」のものなのだ。
 「憲法」は「私のもの」である。だから私はそれを「内閣総理大臣(安倍)」などには渡したくない。

 憲法の「前文」というのは「理念」である。言い換えると「抽象的」なものを含んでいる。だから、その「抽象的」な部分を、「本文」で具体的に言いなおしている。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、」から始まる段落を言いなおしたものが「第2章戦争の放棄」であり「第9条」である。
 自民党の「たたき台」を付け加えてしまうと、憲法の「理念」が成り立たない。矛盾してしまう。

 今回の「たたき台」には含まれていないが、安倍が5月3日の読売新聞で「憲法改正」を宣言したときには含まれなかった「緊急事態条項」が自民党の改憲検討項目に入っている。安倍がこっそりと付け加えた。その「緊急事態要項(自民党憲法改正案)」では、「内閣総理大臣」の「権限」が強化されている。
 安倍がもくろんで憲法改正は、「内閣総理大臣」が全体権力者として君臨するためのもの、日本国民の自由を奪い、独裁政治をすすめるためのものである。独裁者になって戦争をしたい、というのが安倍の欲望である。


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