監督 エドワード・ヤン 出演 チャン・チェン、リサ・ヤン
傑作と言われている作品。たしかに傑作。でも、長すぎる。
台湾の状況と、その状況が生み出す少年の不安定さ。それが交錯し、映画を動かしていくというのはわかる。わかるけれど、長いなあ。私は目が悪いこともあって、途中から映像がかすんで見えるようになってしまった。
それに。
映像の構造が侯孝賢(ホウ・シャオシェン)に、あまりにも似ている。このために★5個をつける気持ちにはならない。
どこが似ているか。「遠近感」のつくり方がそっくりである。冒頭の並木道の緑のトンネルを見た瞬間、私はホウ・シャオシェンの映画化と思ってしまった。「童年往事」だったか「恋恋風塵」だったか、少年と少女が乗った列車がトンネルへ入っていく。そのときの「遠近感」そっくり。「遠近感」を強調することで、「空間」を広げるのである。
さらにそっくりなのが室内の「遠近感」。手前に「空間」(だれもいない部屋)がある。その奥に別の部屋がある。そして人物は奥の部屋で動く。しかも全員が映し出されるというよりも、半分が映し出されない。二人いれば、一人の姿は見えない。手前の部屋の壁が隠している。常に、手前-奥という構造があり、その延長戦に「遠近感」がつくりだされる。「遠近感」というよりも「多重空間」をつくりだすといえばいいのかもしれない。
台湾は日本と同じように狭い。島国である。空間が狭い。当然のことながら室内も狭い。その狭い空間をどうやって「広く」見せるか。あえて手前-奥という構造をつくりだすことで「奥行き」を意識させる。観客の「意識」のなかに「遠近感」をつくるのである。
家があり、門があり、さらに塀(?)があるという空間を見せる半分俯瞰の映像とか、学校の二階への階段を逃げていく少年たちが、さらに三階へ逃げていくというような縦方向(垂直方向)への空間を積み上げることで、空間を多層化する方法。さらに闇と光(電灯/蝋燭)による空間の変化(変質)による多層化とか。
さらに台湾の家空間、日本が占領中に残していった日本式の家空間とうものも重なる。単純にわりきれない。「空間」はそれぞれ独立しているが、その「独立」は完全ではない。常に他の「空間」と接して、重なることで「広がり」を複雑にし、また味わい深いものにする。
で、この「多重空間」と人間の「多重交錯」を重ねる。少年たちの人間関係が描かれる一方、大人たちの人間関係が描かれる。それが「意識の空間」を複雑にする。大陸から台湾に逃れてきた人、最初から台湾にいる人。少年チンピラの、どこが違うのかよくわからない組織(人間構成)とか、同じ顔に見えてしまう少年とか。(主人公と、その兄は、私には区別がつかなかった。)この多重のというか、複雑に交錯する人間関係と、空間の多重構造のつくり出し方が、私には完全な「相似形」に思えた。
わかるけどね。というか、わかるからこそ、何だかあまりにも「人工的」な感じがする。「自然」を装えば装うほど「人工的」になる。「人工的」を「意識的」と言い換えてもいい。「どうだ、複雑だろう? よくできているだろう?」と耳元でささやきつづけられている感じがしてくる。「意識」がうるさいのである。
ホウ・シャオシェンを知らずに、この映画を見たのなら、わっと声を出して驚いたかもしれないが、ホウ・シャオシェンを知っているので驚けない。感動できない。「完璧」につくられているという感じが強烈に残って、それが逆にいやな感じになってしまう。
先日見た「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の場合は、「空間」の描きかたが半分無造作におこなわれ、その空間のなかで「色」が強く定着している感じがしたが、この映画は「空間」と人間の関係があまりにも「絵」になりすぎていて、興ざめしてしまう。
(KBCシネマ、2017年06月04日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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傑作と言われている作品。たしかに傑作。でも、長すぎる。
台湾の状況と、その状況が生み出す少年の不安定さ。それが交錯し、映画を動かしていくというのはわかる。わかるけれど、長いなあ。私は目が悪いこともあって、途中から映像がかすんで見えるようになってしまった。
それに。
映像の構造が侯孝賢(ホウ・シャオシェン)に、あまりにも似ている。このために★5個をつける気持ちにはならない。
どこが似ているか。「遠近感」のつくり方がそっくりである。冒頭の並木道の緑のトンネルを見た瞬間、私はホウ・シャオシェンの映画化と思ってしまった。「童年往事」だったか「恋恋風塵」だったか、少年と少女が乗った列車がトンネルへ入っていく。そのときの「遠近感」そっくり。「遠近感」を強調することで、「空間」を広げるのである。
さらにそっくりなのが室内の「遠近感」。手前に「空間」(だれもいない部屋)がある。その奥に別の部屋がある。そして人物は奥の部屋で動く。しかも全員が映し出されるというよりも、半分が映し出されない。二人いれば、一人の姿は見えない。手前の部屋の壁が隠している。常に、手前-奥という構造があり、その延長戦に「遠近感」がつくりだされる。「遠近感」というよりも「多重空間」をつくりだすといえばいいのかもしれない。
台湾は日本と同じように狭い。島国である。空間が狭い。当然のことながら室内も狭い。その狭い空間をどうやって「広く」見せるか。あえて手前-奥という構造をつくりだすことで「奥行き」を意識させる。観客の「意識」のなかに「遠近感」をつくるのである。
家があり、門があり、さらに塀(?)があるという空間を見せる半分俯瞰の映像とか、学校の二階への階段を逃げていく少年たちが、さらに三階へ逃げていくというような縦方向(垂直方向)への空間を積み上げることで、空間を多層化する方法。さらに闇と光(電灯/蝋燭)による空間の変化(変質)による多層化とか。
さらに台湾の家空間、日本が占領中に残していった日本式の家空間とうものも重なる。単純にわりきれない。「空間」はそれぞれ独立しているが、その「独立」は完全ではない。常に他の「空間」と接して、重なることで「広がり」を複雑にし、また味わい深いものにする。
で、この「多重空間」と人間の「多重交錯」を重ねる。少年たちの人間関係が描かれる一方、大人たちの人間関係が描かれる。それが「意識の空間」を複雑にする。大陸から台湾に逃れてきた人、最初から台湾にいる人。少年チンピラの、どこが違うのかよくわからない組織(人間構成)とか、同じ顔に見えてしまう少年とか。(主人公と、その兄は、私には区別がつかなかった。)この多重のというか、複雑に交錯する人間関係と、空間の多重構造のつくり出し方が、私には完全な「相似形」に思えた。
わかるけどね。というか、わかるからこそ、何だかあまりにも「人工的」な感じがする。「自然」を装えば装うほど「人工的」になる。「人工的」を「意識的」と言い換えてもいい。「どうだ、複雑だろう? よくできているだろう?」と耳元でささやきつづけられている感じがしてくる。「意識」がうるさいのである。
ホウ・シャオシェンを知らずに、この映画を見たのなら、わっと声を出して驚いたかもしれないが、ホウ・シャオシェンを知っているので驚けない。感動できない。「完璧」につくられているという感じが強烈に残って、それが逆にいやな感じになってしまう。
先日見た「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の場合は、「空間」の描きかたが半分無造作におこなわれ、その空間のなかで「色」が強く定着している感じがしたが、この映画は「空間」と人間の関係があまりにも「絵」になりすぎていて、興ざめしてしまう。
(KBCシネマ、2017年06月04日)
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