詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

四元康祐「梅の香ではなく」

2017-06-27 09:28:29 | 詩(雑誌・同人誌)
四元康祐「梅の香ではなく」(「ミて」138 、2017年03月31日)

 四元康祐「梅の香ではなく」は、

いきなりそれは入ってくる

 という行ではじまる。「それ」が何かはわからない。タイトルが「梅の香ではなく」。だから「それ」は「梅の香」ではないのだろうが、何であるかわかるまでは「梅の香」が意識を支配する。どうしても「梅の香」を思い出す。
 ここに「詩」がある。あるものを想定させておいて、それを裏切る。「裏切る」ということが「詩」である。「手術台のうえのこうもり傘とミシン」とのも、予想を「裏切る」から「詩」なのである。
 さて、四元は、どんなふうに「予想」を裏切るか。

いきなりそれは入ってくる
運転中の車内の密閉された矩形の空間に
24°Cに設定されたヒーターの生暖かい胎内に
月曜日の朝の単調さを引き裂いて

 状況が少しずつわかってくる。四元は車の中にいる。運転しているのだろう。「密閉」されているのだから、本来は「入ってこない」何か。「入ってくる」と「密閉」が矛盾していて、そこに「裏切り」の最初がある。この「密閉された空間」を「胎内」と呼ぶのが、また「裏切り」である。「胎内」ではなく「車内」である。なぜ「胎内」と呼び変える必要があるのか。「生暖かい」の「生」が機械的な「車内」を「肉体」に変えるのだ。さらに「胎内」は「引き裂かれる」。このとき四元はどこにいるか。「胎内」にいて、引き裂かれるのを感じるのか。むしろ、逆だろう。「引き裂いて」と「動詞」は能動の形をしている。「引き裂いて」「入ってくる」のではなく「引き裂いて入っていく」という入れ替わりがどこかに隠れている。これも一種の矛盾、「裏切り」である。
 こういう微妙な場にさしかかったとき、ことばは、どう動くことができるか。四元は「詩」の「奥の手」をつかっている。「連」を変えるのである。
 一行空いて、ことばは、こうつづく。

それは僕の鼻腔を制圧する
クラウドを経て耳に達するBBCの声よりももっと鋭く
ガラス越しに目に映る前の車のブレーキランプよりも秘密裡に
僕の神経を駆け上がり脳内に侵襲する

 「胎内」から「鼻腔」への転換。「車内」という空間が「胎内」だったのに、ここでは「胎内」は「鼻腔」へとずれていく。一連目では四元は「車内」にいて、「車内」を「胎内」と感じていたのに、ここでは四元の「肉体」が「車」になって、その「肉体」の「内部」には、たとえば「鼻腔」があるという構造になる。
 散文では、こういう「飛躍」というか「ずれ」は「でたらめ」になるのだが、「詩」では連の変更に「一行空き」があるので、「次元の変化」というものになる。
 「胎内」に通じる通り道、「肉体の穴」と言えば「膣」であるが、「肉体」にはそのほかにも「穴」がある。「鼻」「耳」がわかりやすいが、「目」も一種の穴かもしれない。だから「鼻腔」をくぐり、耳の螺旋階段をたどり、「鼓膜」を震わせ、濡れた目の瞳孔(ね、穴があったでしょ?)を通って「網膜」を刺戟する。「膜」「膜」と書くと、ついでに「処女膜」という書かれていないことばまでが遠くからあらわれてくる。「胎内」が、ぐいと近づく。「鼻/耳/目」という上半身「頭」と「下半身」が融合する。「鼻/耳/目」を結びつけるものは「脳内」と呼ばれ、それはいわば「頭」の「胎内」なのである。

 ここまで読めば、あとは読まなくてもいい。というと、四元に叱られるかもしれないが、「車内/胎内」「頭の感覚器官/脳内」という世界の構造と、そこに「入ってくる」「侵襲する」という運動を、一行空き(連を生み出す)という形を利用しながら、存在しなかったものを生み出していくのが、四元の「梅の香ではなく」なのだ。
 「梅の香ではなく」という「否定」を利用しているのが、その詩の出発点。あるものを提示しながら、それを否定し、ないものへと意識を向けさせる。「ない」を考え、「ある」にかえていくことができるのが「頭」なのであり、それを刺戟しながらことばを動かしている。
 「胎内/脳内」でことばという「胎児」は成長し、やがて誕生する。
 このあと、詩は、どう展開するか。加速度を増していくのか、加速したスピードを利用して惰力で進むのか。「胎児」はどうやって「赤ん坊」に変わるか。生まれるか。
 実際に読んでお確かめください。
四元康祐詩集 (現代詩文庫)
クリエーター情報なし
思潮社
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