梁川梨里『ひつじの箱』(七月堂、2017年03月26日発行)
梁川梨里『ひつじの箱』に「揺れる」という作品がある。
一行目が魅力的だ。意識がひっかきまわされる。書かれていることを「理解した」とは言えないが、その「ひっかきまわされた」という感覚が詩なのだろう。
梁川にもわかっていないのかもしれない。だから、言いなおすのだ。「やわらかな所作」という別のことばで。「ゆびさき」と「やわらか」「所作」が結びつき、ゆじが空に向かってゆらゆら揺れるように感じる。
「ひっかきまわされ、ごちゃごちゃになったもの(混沌)」が、少しずつ落ち着き、濁り水が透明になるように澄んでくる。
それが「ひかり」と「花」とさらに言いなおされる。ただし、その言い直しは一行目から二行目への言い直しとは違う。
区別がなくなり、ひとつになる。融合する。この融合は、むしろ「結晶」と読んだ方がいい。言いなおすことは、「結晶」をうながすことなのだ。ことばの運動が「結晶」の「触媒」なのだ。
思い返せば、最初の一行、二行も「融合」である。ただし、それは「結晶」ではなく、複数のものが複数のまま、からみあった融合、「混沌」というものだ。「混沌」のまま、ひとつになっている。
そこから「気孔」ということばが出てきて、「ゆびさき」ということばも出てくる。書き出しの「風」は最初は「風」ではなく、何かが「融合」したひとかたまりのものだった。それが「風」と読んだ瞬間から「気孔」ということばを誘い出し、「空」を誘い出し、「ゆびさき」ということばにもなる。
何が絡み合っているかがわかったあと、絡み合ったものが、他のものと誘い合うのだ。新しい結びつき、「結晶」になることを求めて動き始める。
「風」がつぎつぎにことばを生み出、生み出したものがまた結びついて「ひとつ」になる。「風」が「風」ではなく、「ひかり、花、ひかりの花」という「ひとつ」になる。「ひとつ」になったとき、最初の「風」が「美しい結晶」としてよみがえってくる。
ここには往復運動がある。「融合(混沌)」から「結合(結晶)」へと「往復」する。その「運動」こそが「うつくしい」。
感覚的に見えて、この「往復」は「論理的」である。つまり、そこからさらに「論理」の運動を利用して世界を広げていくことができる。
少し省略するが、
「ひかりの花」は、そこに唐突に復活してくる。風がさっと吹き抜けたように新鮮な空気がひろがる。「ゆびさき」が、その「ひかり、」を拾おうとする動きが見える。
「さかなをかく」の一連目。
「論理」は「物語」へとつながっていく。これはことばの宿命なのかもしれない。しかし、
この行の「、から、」という分断と接合の意識が、物語をつなぎながら切断する力になっている。詩がときどき噴出してくる。それがおもしろい。
梁川梨里『ひつじの箱』に「揺れる」という作品がある。
風は、気孔を空に向けるゆびさきを持つ
なめらかな所作で
ひかり、なのか、花、なのか
ひかりの花なのか
分からないことは
わからないままのほうが
うつくしい
一行目が魅力的だ。意識がひっかきまわされる。書かれていることを「理解した」とは言えないが、その「ひっかきまわされた」という感覚が詩なのだろう。
梁川にもわかっていないのかもしれない。だから、言いなおすのだ。「やわらかな所作」という別のことばで。「ゆびさき」と「やわらか」「所作」が結びつき、ゆじが空に向かってゆらゆら揺れるように感じる。
「ひっかきまわされ、ごちゃごちゃになったもの(混沌)」が、少しずつ落ち着き、濁り水が透明になるように澄んでくる。
それが「ひかり」と「花」とさらに言いなおされる。ただし、その言い直しは一行目から二行目への言い直しとは違う。
ひかり、なのか、花、なのか
ひかりの花なのか
区別がなくなり、ひとつになる。融合する。この融合は、むしろ「結晶」と読んだ方がいい。言いなおすことは、「結晶」をうながすことなのだ。ことばの運動が「結晶」の「触媒」なのだ。
思い返せば、最初の一行、二行も「融合」である。ただし、それは「結晶」ではなく、複数のものが複数のまま、からみあった融合、「混沌」というものだ。「混沌」のまま、ひとつになっている。
そこから「気孔」ということばが出てきて、「ゆびさき」ということばも出てくる。書き出しの「風」は最初は「風」ではなく、何かが「融合」したひとかたまりのものだった。それが「風」と読んだ瞬間から「気孔」ということばを誘い出し、「空」を誘い出し、「ゆびさき」ということばにもなる。
何が絡み合っているかがわかったあと、絡み合ったものが、他のものと誘い合うのだ。新しい結びつき、「結晶」になることを求めて動き始める。
「風」がつぎつぎにことばを生み出、生み出したものがまた結びついて「ひとつ」になる。「風」が「風」ではなく、「ひかり、花、ひかりの花」という「ひとつ」になる。「ひとつ」になったとき、最初の「風」が「美しい結晶」としてよみがえってくる。
ここには往復運動がある。「融合(混沌)」から「結合(結晶)」へと「往復」する。その「運動」こそが「うつくしい」。
感覚的に見えて、この「往復」は「論理的」である。つまり、そこからさらに「論理」の運動を利用して世界を広げていくことができる。
少し省略するが、
わたしの右側を駆け下りていく
サラリーマンの鞄からこぼれ落ちている
ひかり、
(落しましたよ)
「ひかりの花」は、そこに唐突に復活してくる。風がさっと吹き抜けたように新鮮な空気がひろがる。「ゆびさき」が、その「ひかり、」を拾おうとする動きが見える。
「さかなをかく」の一連目。
雨が降る、ずんずんと降る
傘に長靴、から、ボートに変わってから
かれこれ三ヶ月が経つ頃、二階の窓から出入りをはじめた
こんなにたくさんの水は何処に隠されていたのだろうか
牛乳瓶に入れて流された言葉でうおうさおうしていたわたしたちは
半年で雨がやまないことに同意した
「論理」は「物語」へとつながっていく。これはことばの宿命なのかもしれない。しかし、
傘に長靴、から、ボートに変わってから
この行の「、から、」という分断と接合の意識が、物語をつなぎながら切断する力になっている。詩がときどき噴出してくる。それがおもしろい。
詩誌「妃」17号 | |
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