監督 アスガー・ファルハディ 出演 シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ
映画と、映画の中の芝居(セールスマンの死)が交錯する瞬間がある。それが「謎解き」の補助線になっているかというと、そうでもない。無関係なのに、ある瞬間「感情」というか「意識」が重なり、ぶつかり、噴出する。「芝居」なのに「現実」が「芝居」を乗っ取ってしまう。
でも、これが「伏線」である、といえば「伏線」なのだ。「事件」そのものとは無関係なのだが、思いもかけないものが、瞬間的に「事実」になる。そして感情が動く。その感情の動きを人間は制御できない。
うーん、文学的。映画的、というよりは、ね。
隣に座っていた60代くらいのおばさん二人組。「何がいいたいのか、さっぱりわからない」を二人して繰り返していた。あ、そこが「文学」なんですよ。文学は「わからない」ことを考えるためのもの。「わかった」ら文学ではないのです。そこが、映画とは違うところ。
とは、いいながら。
アスガー・ファルハディにしては、この作品は、とてもわかりやすい。「おばさん、どこがわからなかったの?」と聞き返したい気持ちをぐっと抑える私でした。
最初に書いたように、「芝居」と現実が重なる。
「芝居」ではセールスマン(夫)と妻が、金が思うように手に入らなくて、いらいらし感情をぶつけ合う。感情の行き違いがある。これはレイプされた妻と、レイプ事件を解決したいと思っている夫との感情の行き違いと重なるのだけれど。
そのときの「小道具」がおもしろい。妻は靴下をとりつくろっている。「靴下なんか、いつまでもつくろうな」と夫は怒る。夫は、寝室に落ちていた靴下を思い出しているかもしれない。で、この靴下が、クライマックスでもう一度出てくる。夫が、犯人と思っている男を問い詰める。犯人と思っている男の義理の父。その過程で、靴を脱げ、靴下も脱げ、という。すると……。傷を手当てしていた足があらわれる。犯人だ。
ここ、うまいねえ。脚本が非常に巧みだ。
もひとつ。部屋を紹介してくれた芝居仲間。彼は、その部屋の前の住人が娼婦だったということを隠している。また、主人公の妻がレイプされたらしいということを、周辺の住民から聞き出して知っている。そのことに対して主人公は怒りを爆発させる。「芝居」のなかで、セールスマンが上司と激突するシーンに重ね合わせて、「台詞」以外のことを言う。「アドリブ」なのだが、それが「アドリブ」であるとわかるのは、芝居に精通している人だけであり、観客は「芝居」そのもの一部と思う。
これもクライマックスと重なる。主人公は「違うストーリー」を思い描いている。ところが話している内に「想像していたストーリー(予定のストーリー)」とは違ったものが動き始める。主人公を訪ねてきた男(老人)も、「予定外のストーリー」にぶつかり、おたおたとする。そして「地」がでる。つまり「事実」が、そこに噴出してきてしまう。
そして、さらに。
この思いがけない「ストーリーの破綻(事実の噴出)」があり、「新しい事件」が起きる。そのとき、それまで、そこで動いていた「感情」、かろうじて繋がってきていた主人公と妻の「感情」を決定的に破壊してしまう。「破綻」が取り返しのつかないものになってしまう。
この結末は結末で、ある意味、「セールスマンの死」と重なる。夫は死亡し、その保険金でローンの支払いを終える。金銭問題は片づいた。しかし、「愛」はそのとき破綻している。愛し合おうにも、一人は死んでしまった。
さて。
おばさん二人が悩んでいたのは、私がこれから書く「難問」とは違うと思うのだが、「わけのわからない文学」の問いは、この映画の最後に、ぱっと提示される。問いかけられる。
さて、死んだのは主人公? それとも妻? どっちの感情が決定的に死んでしまった? 二人とも死んでしまった、というのは「安直」な答えだなあ。どちらが、どちらを殺した?という形で問い直すと、ね、安直さがわかるでしょ?
原因はどっち? 夫? 妻?
映画のなかで「現実」として死ぬのは、主人公を訪ねてきた老人。でも、彼が死ぬ原因は? 主人公のせい? 妻のせい? 老人自身のせい? わかりませんねえ。
はい、悩みましょうね、みなさん。
(KBCシネマ1、2017年06月28日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
映画と、映画の中の芝居(セールスマンの死)が交錯する瞬間がある。それが「謎解き」の補助線になっているかというと、そうでもない。無関係なのに、ある瞬間「感情」というか「意識」が重なり、ぶつかり、噴出する。「芝居」なのに「現実」が「芝居」を乗っ取ってしまう。
でも、これが「伏線」である、といえば「伏線」なのだ。「事件」そのものとは無関係なのだが、思いもかけないものが、瞬間的に「事実」になる。そして感情が動く。その感情の動きを人間は制御できない。
うーん、文学的。映画的、というよりは、ね。
隣に座っていた60代くらいのおばさん二人組。「何がいいたいのか、さっぱりわからない」を二人して繰り返していた。あ、そこが「文学」なんですよ。文学は「わからない」ことを考えるためのもの。「わかった」ら文学ではないのです。そこが、映画とは違うところ。
とは、いいながら。
アスガー・ファルハディにしては、この作品は、とてもわかりやすい。「おばさん、どこがわからなかったの?」と聞き返したい気持ちをぐっと抑える私でした。
最初に書いたように、「芝居」と現実が重なる。
「芝居」ではセールスマン(夫)と妻が、金が思うように手に入らなくて、いらいらし感情をぶつけ合う。感情の行き違いがある。これはレイプされた妻と、レイプ事件を解決したいと思っている夫との感情の行き違いと重なるのだけれど。
そのときの「小道具」がおもしろい。妻は靴下をとりつくろっている。「靴下なんか、いつまでもつくろうな」と夫は怒る。夫は、寝室に落ちていた靴下を思い出しているかもしれない。で、この靴下が、クライマックスでもう一度出てくる。夫が、犯人と思っている男を問い詰める。犯人と思っている男の義理の父。その過程で、靴を脱げ、靴下も脱げ、という。すると……。傷を手当てしていた足があらわれる。犯人だ。
ここ、うまいねえ。脚本が非常に巧みだ。
もひとつ。部屋を紹介してくれた芝居仲間。彼は、その部屋の前の住人が娼婦だったということを隠している。また、主人公の妻がレイプされたらしいということを、周辺の住民から聞き出して知っている。そのことに対して主人公は怒りを爆発させる。「芝居」のなかで、セールスマンが上司と激突するシーンに重ね合わせて、「台詞」以外のことを言う。「アドリブ」なのだが、それが「アドリブ」であるとわかるのは、芝居に精通している人だけであり、観客は「芝居」そのもの一部と思う。
これもクライマックスと重なる。主人公は「違うストーリー」を思い描いている。ところが話している内に「想像していたストーリー(予定のストーリー)」とは違ったものが動き始める。主人公を訪ねてきた男(老人)も、「予定外のストーリー」にぶつかり、おたおたとする。そして「地」がでる。つまり「事実」が、そこに噴出してきてしまう。
そして、さらに。
この思いがけない「ストーリーの破綻(事実の噴出)」があり、「新しい事件」が起きる。そのとき、それまで、そこで動いていた「感情」、かろうじて繋がってきていた主人公と妻の「感情」を決定的に破壊してしまう。「破綻」が取り返しのつかないものになってしまう。
この結末は結末で、ある意味、「セールスマンの死」と重なる。夫は死亡し、その保険金でローンの支払いを終える。金銭問題は片づいた。しかし、「愛」はそのとき破綻している。愛し合おうにも、一人は死んでしまった。
さて。
おばさん二人が悩んでいたのは、私がこれから書く「難問」とは違うと思うのだが、「わけのわからない文学」の問いは、この映画の最後に、ぱっと提示される。問いかけられる。
さて、死んだのは主人公? それとも妻? どっちの感情が決定的に死んでしまった? 二人とも死んでしまった、というのは「安直」な答えだなあ。どちらが、どちらを殺した?という形で問い直すと、ね、安直さがわかるでしょ?
原因はどっち? 夫? 妻?
映画のなかで「現実」として死ぬのは、主人公を訪ねてきた老人。でも、彼が死ぬ原因は? 主人公のせい? 妻のせい? 老人自身のせい? わかりませんねえ。
はい、悩みましょうね、みなさん。
(KBCシネマ1、2017年06月28日)
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