野沢啓「発熱装置」(「走都」第二次創刊号・通算21号、2017年06月15日発行)
野沢啓「発熱装置」は、こう始まる。
詩は「誰のものでもないことば」である、と私も思う。放った人はいない。ことばが「ひと」を離れていく。「ひと」を捨てていく。書いた人が、そのことばを追いかけてつかまえることもある。しかし、逃げられてしまうこともある。たぶん逃げられてしまったときの方が「正しい」のだ。書いた人には「逃げられてしまった」という喪失感ではなく、ことばが「野生」にかえったのだ、という喜びが残る。そういうときが、きっと詩なのだと思う。
詩人の喜びは、自分にはことばを「野生」に返す力がある、という自覚と一緒に動く。そういうものだと思う。いま、ここにあることば。それを鍛え直す。「野生」に、あるいは「野蛮」に、「制御できないもの」に。それは自分自身のなかにある「未分節」なものをことばに預けて、「自然」へ解放することだ。
というようなことは、「抽象」なので、なんとでも書ける。どのように書いても「論理」にすることができる。これが、ことばのいちばんこわいところ、困ったところである。この困った罠、困難な罠と、どう闘うか。
野沢は「他者」のことばに向き合っている。(引用には注釈があり、原典が示されているが省略した。)そのことばは他者によって「放たれたことば」である。この「放たれたことば」を野沢は、それを放った人には返さない。自分で引き取り、動かしていく。
ということばとともに。
「なんだって!」は、野沢自身のなかに閉じこもっていることばを解放する「カギ」である。「なんだって!」ということばで扉を開ける。それは随所に隠れている。
この断章の部分のつづきは、こうである。
これは、次のように書き換えることができる。
「なんだって!」を補ってみると、どのことばも「肯定」ではないことがわかる。言ったことを「肯定」して「論理」を積み重ねていくのではない。常に「否定」を孕んでいる。
という一行が象徴的だが、ことばは「疑問」によって扉が開かれ、「答え」を探すことで解放される。「答え」の所有者は「疑問」であると言うこともできるが、「答え」などほんとうはなくて、ただ「答え」へ向けて動いていく動きがあるだけである。言い換えると「答え」は「正しい」ものでなくてもいい。「間違い」であってもいい。常に、
という新しい「怒り」というか、「衝動」をうながすものならそれでいいのだ。野沢は常に「なんだって!」という怒りをバネに、「論理の罠」と闘っている。
で。
私はというと、野沢のことばを読みながら「なんだって!」と繰り返し、自分のなかのことばを動かしている。野沢のことばに刺戟を受けて、かってにあれこれことばを動かしている。私のなかから「詩」と呼べることばが飛び出してくるかどうかはわからない。けれども、こうやって書いていることは、ことばが動いているということであり、「放たれたがっている」ことばがあるということなのだろう。
「ことばが命と同じぐらいに軽くなった」は、「命がことばと同じぐらいに軽くなった」と読み替えた方がいいのかもしれない。現代の状況に重なるかもしれない。
「どうしてことばを発せられるか」と野沢は自問の形で書いているが、そういう状況だからこそ、ことばを発しないといけない。ことばを命と同じくらい重いものにしないといけない。ことばを「自然/野生/野蛮」にしないといけない。だれのものでもないもの、ただそこに生きているだけのもの、所有されないものにしないといけないという思いがあり、それが再び野沢に「走都」を発行させ、詩を書かせているのだと思う。
誰の仕事でもない。それぞれひとりひとりの仕事だという思いが、野沢に「個人誌」をつくらせている。
野沢啓「発熱装置」は、こう始まる。
ことばが放たれたがっている
誰のものでもないことばが場所をもとめている
だからこの空間は用意されるのだ
詩は「誰のものでもないことば」である、と私も思う。放った人はいない。ことばが「ひと」を離れていく。「ひと」を捨てていく。書いた人が、そのことばを追いかけてつかまえることもある。しかし、逃げられてしまうこともある。たぶん逃げられてしまったときの方が「正しい」のだ。書いた人には「逃げられてしまった」という喪失感ではなく、ことばが「野生」にかえったのだ、という喜びが残る。そういうときが、きっと詩なのだと思う。
詩人の喜びは、自分にはことばを「野生」に返す力がある、という自覚と一緒に動く。そういうものだと思う。いま、ここにあることば。それを鍛え直す。「野生」に、あるいは「野蛮」に、「制御できないもの」に。それは自分自身のなかにある「未分節」なものをことばに預けて、「自然」へ解放することだ。
というようなことは、「抽象」なので、なんとでも書ける。どのように書いても「論理」にすることができる。これが、ことばのいちばんこわいところ、困ったところである。この困った罠、困難な罠と、どう闘うか。
《無学だからといって、それだけ弾痕が固くならないことがあろうか》
とローマの詩人は言ったそうだ
知識はひとを虚弱にさせる
《人はなにもしることはできないのだと考える人は、なにも知ることはできないと断言できるほど、自分がよく知っているかどうかを知らないのである。》
なんだって!
野沢は「他者」のことばに向き合っている。(引用には注釈があり、原典が示されているが省略した。)そのことばは他者によって「放たれたことば」である。この「放たれたことば」を野沢は、それを放った人には返さない。自分で引き取り、動かしていく。
なんだって!
ということばとともに。
「なんだって!」は、野沢自身のなかに閉じこもっていることばを解放する「カギ」である。「なんだって!」ということばで扉を開ける。それは随所に隠れている。
この断章の部分のつづきは、こうである。
結局ひとはしることができるのかできないのか
なにも知らないことを知っているのは
やはり知らないことなのか
どうにもややこしい
はっきりしているのは
知らない者が知っているふりをする滑稽さだけだ
それでも知らないより知っているほうがいくらかましだろう
そのぶん悲惨さも深いだろうけどね
これは、次のように書き換えることができる。
結局ひとは知ることができるのかできないのか
(なんだって!)
なにも知らないことを知っているのは
やはり知らないことなのか
(なんだって!)
どうにもややこしい
(なんだって! ややこしくしているのはおまえじゃないか)
はっきりしているのは
知らない者が知っているふりをする滑稽さだけだ
(なんだって!)
それでも知らないより知っているほうがいくらかましだろう
(なんだって!)
そのぶん悲惨さも深いだろうけどね
(なんだって!)
「なんだって!」を補ってみると、どのことばも「肯定」ではないことがわかる。言ったことを「肯定」して「論理」を積み重ねていくのではない。常に「否定」を孕んでいる。
結局ひとは知ることができるのかできないのか
という一行が象徴的だが、ことばは「疑問」によって扉が開かれ、「答え」を探すことで解放される。「答え」の所有者は「疑問」であると言うこともできるが、「答え」などほんとうはなくて、ただ「答え」へ向けて動いていく動きがあるだけである。言い換えると「答え」は「正しい」ものでなくてもいい。「間違い」であってもいい。常に、
なんだって!
という新しい「怒り」というか、「衝動」をうながすものならそれでいいのだ。野沢は常に「なんだって!」という怒りをバネに、「論理の罠」と闘っている。
で。
私はというと、野沢のことばを読みながら「なんだって!」と繰り返し、自分のなかのことばを動かしている。野沢のことばに刺戟を受けて、かってにあれこれことばを動かしている。私のなかから「詩」と呼べることばが飛び出してくるかどうかはわからない。けれども、こうやって書いていることは、ことばが動いているということであり、「放たれたがっている」ことばがあるということなのだろう。
ことばが命と同じぐらいに軽くなったいま
どうしてことばを発せられるか
「ことばが命と同じぐらいに軽くなった」は、「命がことばと同じぐらいに軽くなった」と読み替えた方がいいのかもしれない。現代の状況に重なるかもしれない。
「どうしてことばを発せられるか」と野沢は自問の形で書いているが、そういう状況だからこそ、ことばを発しないといけない。ことばを命と同じくらい重いものにしないといけない。ことばを「自然/野生/野蛮」にしないといけない。だれのものでもないもの、ただそこに生きているだけのもの、所有されないものにしないといけないという思いがあり、それが再び野沢に「走都」を発行させ、詩を書かせているのだと思う。
この時代
哲学のことばは浪費され
低能な施政者の紋切り型だけが虚空をうつ
ことばはこれほど価値がなくなったのか
どこかにあるべきことばの力を
いまなお求めるのはだれの仕事なのか
誰の仕事でもない。それぞれひとりひとりの仕事だという思いが、野沢に「個人誌」をつくらせている。
詩の時間、詩という自由―「同時代詩通信」より (1985年) | |
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