藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)
「この世への施肥」には宮沢賢治が描かれている。宮沢賢治を読んだときの藤井が書かれている、といった方がいいのか。
「誤字のような気もするし」と宮沢賢治が実際に思ったわけではない。藤井が「軽佻」の誤字なのではないかと思った。でも、「軽跳」でもいいか、と思いなおしたということなのだろう。このとき、宮沢賢治と藤井が重なる。その重なりへ、私も重なって行く。
「軽跳」を「誤字」と思うことが「誤読」なのか、「軽跳」が「誤字」ではないと思うことが「誤読」なのか、とてもむずかしい。いいかえると、宮沢賢治は「軽佻」ということばを知っているけれどあえて「軽跳」と書き、そうすることで何らかの意味を込めたのかもしれない。もし、そうだとすると、それはどういう意味か。それを藤井(読者)に考えろと迫っているのか。
なんだか、ごちゃごちゃしてくる。
それがおもしろいと同時に、「軽跳」の直前にある「口耳の学」ということばに私の肉体はざわめく。聞きかじりの、知ったかぶり。聞いたことを、よくわからないまま口にすることをいうのだと思うけれど。
で、これが「軽佻(軽跳)」とも重なる。「軽佻」は「口耳の学」の言い直し。いや「口耳の学」を言いなおしたものが「軽佻」なのだが。
「意味」よりも、私は「口耳の学」ということば(表現)に私の「口」「耳」が興奮する。「口」は「ことば(声)」を発する器官。「耳」は「ことば(声)」を聞く器官。「けいちょう」という「ことば(音)」を「耳」で聞き、「口」で発する。このとき「軽佻」と「軽跳」の区別はない。区別がないから、それが混同して「軽佻」が「軽跳」になってしまう。「目」をつかって、「けいちょう」を「文字」としてつかみとっていれば、間違えることはないのだが。
もちろん逆もある。人間は、いろいろな間違え方をする。安倍は「云々」を「でんでん」と読んだ。「目」でつかみとっていることと「耳/口」でつかみとっていることが違っている。
どちらがどうとも言えないのだけれど。
でも、言いたい。
宮沢賢治は「ことば」をまず「耳」でつかみとる人間なのだ。そして、「声」にする人間なのだ。藤井もそうだと思う。「目」でことばと「意味」をつかみとる人間ならば「軽跳」とは書かないだろう。「目」で「軽佻」を読んだことがあるだろうけれど、「目」で確認しながらも「けいちょう」という音の方が「肉体」にしみついている。「ことば」は「音」なのだ。
何度か書いてきたことだが、藤井の「ことば」も、まず「音」が出発点だ。「音」に反応して「ことば」を動かしている。
「音」で「ことば」に反応する肉体(思想)が、「軽跳」ということばに触れて、思わず反応してしまったのだと思う。そのときの肉体の動きを感じてしまう。
詩は、こうつづいている。
「意味」、あるいは「文意」といえばいいのか、そういうものを探っている。
賢治がしていることは、作物にほどこす肥やし、施肥のように、「この世への」施肥なのである。賢治の文学は人間を育てる肥やしである。世間への肥やしになろうとしている、と賢治の生き方をとらえ、藤井は肯定している。
でも、こんなふうに読むと「道徳」になってしまう。
書きながら「嘘」をでっちあげている気になってしまう。
あ、賢治の生き方や文学を否定するつもりはないのだけれど。
私がこの部分でおもしろいと思ったのは、いま書いたような「意味」の部分ではない。
ここに「のど」ということばが出てくる。「肉体」が出てくる。「のど」は「口」と同じようにことば(声)を発する器官。「口」よりも「肉体」の「奥」に属するね。ことばを、「のど」でとらえ直している、というところに藤井を感じる。
こういう部分が、私は好きなのだ。
さらに。
最終行。「どこへゆくの、賢治。」は、「閉館」の最終行「きみとどこにいるのか、いま。」を思い起こさせる。とても似ている。一行空きのあと、ぽつんと置かれた一行一連。
「きみ」を私は藤井少年と読んだ。しかし「この世の施肥」では「賢治」と書かれているから、同じ調子ならば「きみ」は「中城ふみ子」かもしれない。あるいは逆に「賢治」は「これからの藤井(少年ではない藤井)」かもしれない。
「結論」を出さずに、どっちなんだろうなあ、と思うのが楽しい。
という気分。だからこの詩の最終行は、私の「誤読」では、
になる。
「この世への施肥」には宮沢賢治が描かれている。宮沢賢治を読んだときの藤井が書かれている、といった方がいいのか。
「師父よ もしもそのことが
口耳の学をわずかに修め
鳥のごとくに軽跳な
わたくしに関することでありますならば」……(野の師父)
と、宮沢賢治はここまで書いて、
「軽跳」という語でよかったか、
誤字のような気がするし、と
でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。
「誤字のような気もするし」と宮沢賢治が実際に思ったわけではない。藤井が「軽佻」の誤字なのではないかと思った。でも、「軽跳」でもいいか、と思いなおしたということなのだろう。このとき、宮沢賢治と藤井が重なる。その重なりへ、私も重なって行く。
「軽跳」を「誤字」と思うことが「誤読」なのか、「軽跳」が「誤字」ではないと思うことが「誤読」なのか、とてもむずかしい。いいかえると、宮沢賢治は「軽佻」ということばを知っているけれどあえて「軽跳」と書き、そうすることで何らかの意味を込めたのかもしれない。もし、そうだとすると、それはどういう意味か。それを藤井(読者)に考えろと迫っているのか。
なんだか、ごちゃごちゃしてくる。
それがおもしろいと同時に、「軽跳」の直前にある「口耳の学」ということばに私の肉体はざわめく。聞きかじりの、知ったかぶり。聞いたことを、よくわからないまま口にすることをいうのだと思うけれど。
で、これが「軽佻(軽跳)」とも重なる。「軽佻」は「口耳の学」の言い直し。いや「口耳の学」を言いなおしたものが「軽佻」なのだが。
「意味」よりも、私は「口耳の学」ということば(表現)に私の「口」「耳」が興奮する。「口」は「ことば(声)」を発する器官。「耳」は「ことば(声)」を聞く器官。「けいちょう」という「ことば(音)」を「耳」で聞き、「口」で発する。このとき「軽佻」と「軽跳」の区別はない。区別がないから、それが混同して「軽佻」が「軽跳」になってしまう。「目」をつかって、「けいちょう」を「文字」としてつかみとっていれば、間違えることはないのだが。
もちろん逆もある。人間は、いろいろな間違え方をする。安倍は「云々」を「でんでん」と読んだ。「目」でつかみとっていることと「耳/口」でつかみとっていることが違っている。
どちらがどうとも言えないのだけれど。
でも、言いたい。
宮沢賢治は「ことば」をまず「耳」でつかみとる人間なのだ。そして、「声」にする人間なのだ。藤井もそうだと思う。「目」でことばと「意味」をつかみとる人間ならば「軽跳」とは書かないだろう。「目」で「軽佻」を読んだことがあるだろうけれど、「目」で確認しながらも「けいちょう」という音の方が「肉体」にしみついている。「ことば」は「音」なのだ。
何度か書いてきたことだが、藤井の「ことば」も、まず「音」が出発点だ。「音」に反応して「ことば」を動かしている。
「音」で「ことば」に反応する肉体(思想)が、「軽跳」ということばに触れて、思わず反応してしまったのだと思う。そのときの肉体の動きを感じてしまう。
詩は、こうつづいている。
でも軽跳でゆきましょうや はは と
ふりむいてわらう。 振り返りながら、
「そのこと」とはなんでしょう、賢治さん、
作物への影響 二千の施肥の設計、
そうね、施肥。 「風のことば」をのどにつぶやく。
どこへゆくの、賢治。
「意味」、あるいは「文意」といえばいいのか、そういうものを探っている。
賢治がしていることは、作物にほどこす肥やし、施肥のように、「この世への」施肥なのである。賢治の文学は人間を育てる肥やしである。世間への肥やしになろうとしている、と賢治の生き方をとらえ、藤井は肯定している。
でも、こんなふうに読むと「道徳」になってしまう。
書きながら「嘘」をでっちあげている気になってしまう。
あ、賢治の生き方や文学を否定するつもりはないのだけれど。
私がこの部分でおもしろいと思ったのは、いま書いたような「意味」の部分ではない。
「風のことば」をのどにつぶやく。
ここに「のど」ということばが出てくる。「肉体」が出てくる。「のど」は「口」と同じようにことば(声)を発する器官。「口」よりも「肉体」の「奥」に属するね。ことばを、「のど」でとらえ直している、というところに藤井を感じる。
こういう部分が、私は好きなのだ。
さらに。
最終行。「どこへゆくの、賢治。」は、「閉館」の最終行「きみとどこにいるのか、いま。」を思い起こさせる。とても似ている。一行空きのあと、ぽつんと置かれた一行一連。
「きみ」を私は藤井少年と読んだ。しかし「この世の施肥」では「賢治」と書かれているから、同じ調子ならば「きみ」は「中城ふみ子」かもしれない。あるいは逆に「賢治」は「これからの藤井(少年ではない藤井)」かもしれない。
「結論」を出さずに、どっちなんだろうなあ、と思うのが楽しい。
「きみ」は藤井少年でよかったのか、
誤読のような気がするし(中城ふみ子のような気がするし)、と
でも「藤井少年」でゆきましょうや はは と
ふりむいて(振り返って)私はわらう。
という気分。だからこの詩の最終行は、私の「誤読」では、
どこへゆくの、貞和。
になる。
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