詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)

2017-09-06 09:15:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「悲し(律詩)」に、

十九人を喪うわれら、何を愛(かなし)と言おう。

 という行がある。相模原障害者施設殺傷事件のことを書いているのだと思う。「十九人」という数字が事件を連想させる。
 書き出しは、

人のさがはここに行きつくのか、家族の心痛を知らず。
ことばよ、空しく駆け去って応えはどこにもない。

 とある。
 
 こういう大事件に、詩は(詩のことばは)どう向き合うことができるのか。
 八行という「律詩」の形式を借りて動いたことばのあとに、こう書かれている。

(反辞)
われらとは、現代に律詩とは。 立ち向かうとは。

 「現代に律詩とは」がつらい。現代詩があるのに「律詩」を借りてこなければならないのはなぜか。
 ことばは、いまここにあるものと、簡単には「立ち向かう」ことができない。いまここできていること、しかもそれがいままで体験したことのないことの場合は、ことばは動いてくれない。
 私は阪神大震災を描いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。読み方はいろいろできるだろうが、私は、ある出来事がほんとうの姿をみせるまでには時間がかかる。それがことばになって、ほんとうの姿をみせるのは、「出来事」に遅れるしかない、と読んだ。「ことばは遅れてあらわれる」と読んだ。ひとは、「いま/ここ」で起きたことを「過去」のことばのなかに探し出す。確実に生きていたことばに頼って、「いま/ここ」をとらえなおすしかない。すでにあったことばが「いま/ここ」に遅れてあらわれる。そのとき、はじめて、ひとは何が起きたのかわかる。何が起きたのか「わかる」ためには、「過去」をていねいに探るしかない。
 そう藤井が書いているわけではないが、私はそんなふうに感じた。

 何をしていいかわからなくなったとき、ことばがわからなくなったとき、ことばがこれまでどんなふうに動いてきたのか、それを探るしかないのである。「いま」を語ることばがみつからなくても、ことばは「過去」の中になかにしかない。
 古典から現代まで、文学のことばを往復する藤井の、ことばにかける祈りを感じる。
 この詩には、ことばへの「祈り」のようなものがある。

美しい小弓を持って
クリエーター情報なし
思潮社
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是枝裕和監督「三度目の殺人」(★★★★)

2017-09-06 08:04:42 | 映画
監督 是枝裕和 出演 福山雅治、役所広司、広瀬すず

 私は、こういう「謎解き」映画は好きではない。是枝の作品では「歩いても歩いても」のような、日常を描いたものが好きなのだが。
 あ、でもこれは問題提起として大傑作。
 真実とは何かを「裁判」をテーマに描ききっている。
 いちばんの見どころは、福山雅治と役所広司の、刑務所での面会シーン。ガラス(プラスチック?)の仕切りを挟んで二人が向き合い、対話する。ガラスなので、そこに顔が映る。その映った顔と、もうひとりの顔が重なる。ひとりの実像と、もうひとりの虚像(?)が重なる。これが、非常にスリリングである。
 「ひとつの殺人事件」をめぐって、「犯人」と「弁護士」が重なってしまう。
 重なり方には「ふたつ」ある。
 最初は、映画の中ほどから後半にかけてか。福山雅治が右側にいる。その福山雅治の顔を覗き込むように役所広司が顔をガラスに近づけていく。役所広司の目の中の光(マンガで言う星)が福山雅治の目に重なるようにして揺れる。福山雅治が役所広司の「気迫」に乗っ取られるという感じ。
 これをとおして、実際、福山雅治は役所広司に「人間」として乗っ取られる。そのきっかけになる。それまで役所広司は殺人を自白している。福山雅治は、いかに量刑を軽くするかという「法廷戦術」を展開しようとしていた。しかし、この重なり合いのあと、役所広司は「殺人はしていない。無実だ」と訴える。「自白すれば死刑にならずにすむ」といわれたので、そういったまでだと主張を転換する。
 これに、隠されていたいろいろな事実(人間関係)が加わるのだが、それはまあ、見てのお楽しみ。劇的な展開のあと、裁判があり、役所広司は結局「死刑判決」を受ける。決着がつく。
 このあとに、福山雅治は役所広司に最後の面会にゆく。そこでもガラス越しに二人の顔が重なる。こんどは福山雅治は左側。つまり、右を向いている。この顔に、同じく右を向いた役所広司の顔が重なる。ふたりは「同じ方向」を向いている。しかし、微妙にずれる。非常に近づいたかと思うと、すーっと離れていく。離れていくけれど、重なっている。
 ここにこの映画の主張(哲学)が凝縮している。
 ふたりは同じように「事件」を見ている。同じ側から見ている。そこにもうひとりの主人公の広瀬すずがからんでいる。
 何のために、役所広司は「無罪」を主張したのか。その「解釈」が、福山雅治と役所広司では違う。その「違い」を役所広司が受けれ入れたような印象を与える形で描かれている。(これは、受け取り方次第。)
 書くことは、いろいろあるし、いろいろにも書けるが、省略する。ぜひ、見てほしい。ひとは、何をどう考えるか。何のために、そう考えるのか。そのとき、そのひとは、どういう存在なのか。
 複雑である。そこが、非常におもしろい。
 このおもしろさは役所広司の演技に負うところが非常に大きい。主張が二転三転するのだが、どの主張も「不透明な手触り」として迫ってくる。他人を見る目も、自分自身を見る目も変化する。その七変化がなまなましい。
 それにしてもガラス越しのシーンの演技はたいへんだろうなあ。演じているふたりには相手は見えても、ガラス越しにどう映っているかは見えない。その見えない部分を重ね合わせるのだから、すごいとしかいいようがない。
 ガラス越しのふたりの演技を見るだけで、この映画に満足できる。この映像だけで全編が描ききれたら★10個。
 ベルリン(ベネチア?)映画祭の審査結果が楽しみである。
              (2017年09月05日、ソラリアシネマ1、TNC試写会)

 *

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