藤井貞和『美しい小弓を持って』(25)(思潮社、2017年07月31日発行)
「悲し(律詩)」に、
という行がある。相模原障害者施設殺傷事件のことを書いているのだと思う。「十九人」という数字が事件を連想させる。
書き出しは、
とある。
こういう大事件に、詩は(詩のことばは)どう向き合うことができるのか。
八行という「律詩」の形式を借りて動いたことばのあとに、こう書かれている。
「現代に律詩とは」がつらい。現代詩があるのに「律詩」を借りてこなければならないのはなぜか。
ことばは、いまここにあるものと、簡単には「立ち向かう」ことができない。いまここできていること、しかもそれがいままで体験したことのないことの場合は、ことばは動いてくれない。
私は阪神大震災を描いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。読み方はいろいろできるだろうが、私は、ある出来事がほんとうの姿をみせるまでには時間がかかる。それがことばになって、ほんとうの姿をみせるのは、「出来事」に遅れるしかない、と読んだ。「ことばは遅れてあらわれる」と読んだ。ひとは、「いま/ここ」で起きたことを「過去」のことばのなかに探し出す。確実に生きていたことばに頼って、「いま/ここ」をとらえなおすしかない。すでにあったことばが「いま/ここ」に遅れてあらわれる。そのとき、はじめて、ひとは何が起きたのかわかる。何が起きたのか「わかる」ためには、「過去」をていねいに探るしかない。
そう藤井が書いているわけではないが、私はそんなふうに感じた。
何をしていいかわからなくなったとき、ことばがわからなくなったとき、ことばがこれまでどんなふうに動いてきたのか、それを探るしかないのである。「いま」を語ることばがみつからなくても、ことばは「過去」の中になかにしかない。
古典から現代まで、文学のことばを往復する藤井の、ことばにかける祈りを感じる。
この詩には、ことばへの「祈り」のようなものがある。
「悲し(律詩)」に、
十九人を喪うわれら、何を愛(かなし)と言おう。
という行がある。相模原障害者施設殺傷事件のことを書いているのだと思う。「十九人」という数字が事件を連想させる。
書き出しは、
人のさがはここに行きつくのか、家族の心痛を知らず。
ことばよ、空しく駆け去って応えはどこにもない。
とある。
こういう大事件に、詩は(詩のことばは)どう向き合うことができるのか。
八行という「律詩」の形式を借りて動いたことばのあとに、こう書かれている。
(反辞)
われらとは、現代に律詩とは。 立ち向かうとは。
「現代に律詩とは」がつらい。現代詩があるのに「律詩」を借りてこなければならないのはなぜか。
ことばは、いまここにあるものと、簡単には「立ち向かう」ことができない。いまここできていること、しかもそれがいままで体験したことのないことの場合は、ことばは動いてくれない。
私は阪神大震災を描いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「出来事は遅れてあらわれる」という一行がある。読み方はいろいろできるだろうが、私は、ある出来事がほんとうの姿をみせるまでには時間がかかる。それがことばになって、ほんとうの姿をみせるのは、「出来事」に遅れるしかない、と読んだ。「ことばは遅れてあらわれる」と読んだ。ひとは、「いま/ここ」で起きたことを「過去」のことばのなかに探し出す。確実に生きていたことばに頼って、「いま/ここ」をとらえなおすしかない。すでにあったことばが「いま/ここ」に遅れてあらわれる。そのとき、はじめて、ひとは何が起きたのかわかる。何が起きたのか「わかる」ためには、「過去」をていねいに探るしかない。
そう藤井が書いているわけではないが、私はそんなふうに感じた。
何をしていいかわからなくなったとき、ことばがわからなくなったとき、ことばがこれまでどんなふうに動いてきたのか、それを探るしかないのである。「いま」を語ることばがみつからなくても、ことばは「過去」の中になかにしかない。
古典から現代まで、文学のことばを往復する藤井の、ことばにかける祈りを感じる。
この詩には、ことばへの「祈り」のようなものがある。
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