詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)

2017-09-01 09:44:22 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(20)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「揺籃」は四つの部分(章?)から成り立っている。どれも「現代語」というわけではない。「文語」らしいもの、「文語文体」が含まれている。含まれている、とういよりも文語文なのかもしれない。

  (Ⅲ)山を出でて
謂はば芸術とは、山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、その樵夫にして、暗き道にぞ、而(しか)も山のことを語れば、たどりこし、何かと面白く語れることにて、いまひとたびの「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが、逢ふことにより、謂はば生活である。(和泉式部さん、中也さん)

 この詩の「要約」は、

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 になる。
「要約」のあいだ(?)にあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。言い直しである。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれない。
 ここで私が注目したのは読点「、」である。「謂はば芸術とは、……謂はば生活である。」のあいだに、いくつもの「、」がある。息継ぎである。この「、」が「比喩(経路)」の分岐点といえばいいのか、一息継ぎながら次のことばへ進む。地図で言えば「一区画」ごとに確認しながら進む感じ。「一区画」のそれぞれは「直線」であり、まっすぐ見とおせる。つまり、「一区画」そのものは迷いようがない。分岐点へきて、曲がるか、真っ直ぐに進むかを考えながら歩く感じ。
 ことばに則していうと。
 「謂はば芸術とは」はテーマの提示。何が書いてあるか、わかる。
 「「山を出でて「樵夫(きこり)山を見ず」の、」には、「芸術とは」を受ける「述語」が登場しない。だから「横道」に曲がった感じがする。「道」をかえたのだ。変えたのだけれど、そこに書いてあること自体はわかる。「山を出れば、樵夫は山を見ない」か、あるいは樵夫というものは木を見るけれど山というものは見ないということかあいまいだが(どっちともとれるが)、そこには樵夫と山とのことが書かれていることがわかる。
 「その樵夫にして、」は、視点が山から樵夫に動いたことを明らかにしている。これからは樵夫のことが書かれるのだと、わかる。
 「暗き道にぞ、」で、また、横道に曲がった。樵夫が山の中で歩く日の差さない暗い道かもしれない。よくわからないが、道が暗い、暗い道そのものは、わかる。
 「而(しか)も山のことを語れば、」は、あ、ここからは樵夫が山のことを語るのだなあ、とわかる。分岐点を通過したことがわかる。継ぎに何が始まるか予測ができる。
 という具合に、進んでいく。
 このときの「、」の区切りが、とても読みやすい。
 藤井が何を書こうとしているのか私には即断できないが、藤井はわかって書いているという「安心感」をよびおこす読点「、」である。
 古文(昔の書き方)には読点「、」も句点「。」もない。だから、どこで区切ってよんでいいのかわからないが、藤井の文には句読点があるので、一区切り一区切りがわかる。藤井が「一区切り」ずつ確認してことばを動かしていることがわかり、私は安心して(?)ついていくことができる。
 このときの「わかり方」というのは、「子供のときのことばの体験」に似ている。「全体の論理」はわからないが、瞬間瞬間はわかる。
 あ、少し、ずれてしまったか。
 この藤井の読点「、」の区切りが「わかりやすい」というのは、読みやすいということ。「ことばのかたまり」がつかみやすい。
 ことばには「意味単位」と「リズム単位」がある。それが藤井の場合、一致している。別の「意味単位」に動いていくとき、その「分岐点」に読点「、」を必ず入れる。息継ぎをする。
 そこに「肉体」を感じる。
 で、私は安心する。
 子供が親のあとについて歩くとき、まわりを見ていない。道を見ていない。親の「肉体」だけを見ている。そうやってついていくときの、どこへ行くのかわからないけれど、一緒にいると感じるときの「安心」に似ているかなあ。
 最近の若い人の「文体」には、この「安心感」がない。「リズム」と「意味」の「単位」が一致する感じ、この人は「道」を知っている(文体が確立されている)という感じがないときが多い。

 また、ずれてしまったか。
 それとも、ずれずに書いているか、わからなくなるなあ。

 最初にもどって、別なことを書こう。

謂はば芸術とは、……謂はば生活である。

 これがこの「文(句点「。」で区切られた単位)」の「要約」になる。そのあいだにあることは、「芸術」と「生活」をつなぐ「比喩」である。「比喩」といわずに「経路」と言えばいいのかもしれないけれど、私は「比喩」というこことばの方を好む。「比喩」の方が「意味領域」が広く、いろいろのことを持ち込めるからである。
 藤井は「芸術は」と言い始めて、それを説明するのに「樵夫」を持ち出してくる。これは「論理」をすでに「比喩化」している。「芸術」と「樵夫」は同じものではない。「芸術」を「絵画」とか「音楽」「文学」と言いなおしたときは、「芸術」の範疇を限定し、論理の動きを整えようとしている感じがつたわるが、「芸術」を語るのに「樵夫」を出してきては、視線が拡散される。「論理」がはぐらかされる。
 もちろん「樵夫」を出してくるのは、「絵画/音楽/文学」を引き合いに出すことでは語れないものがあるからそうするのだが、「芸術」と認められてすでに存在するもの(いま、そこにある絵画や文学など)を利用せず、「芸術」には含まれないものを借りてきて「芸術」を語ろうとするから、それを「比喩」という。(比喩は、どんなときでも、対象そのものではないものを借りてきて、対象を代弁することである。)
 で、「樵夫」の何を、藤井は「比喩」にするのか。「語る」という動詞がある。「語る」こと、そのことばの動きに「芸術」を見ている。
 そのキーポイントが、

「あれが『山』(名辞)で、あの山はこの山よりどうだ」なぞいふ

 部分。
 ここには『山』(名辞)という「註釈」がついている。
 ここが、わっと叫び声をあげたいくらいに面白い。
 一方に「山」という概念がある。でも樵夫は「概念」を語らない。「あの山」「この山」という具体的なものを語る。
 これを、藤井の書いている「一文」ぜんたいにあてはめると、

あれが「芸術(あるいは詩)」(名辞)で、あの語り口(文章)はこの語り口(文章)より、どのうこうの、

 ということになるかもしれない。
 「概念」なんか問題にしても何も語ったことにならない。具体的な「山(作品)」があるだけである。
 そして、その「具体的」なことのなかには、

たどりこし、

 が反映されている。そのひとが生きてきたことが反映されている。そこが面白いのである。
 こういう「具体的な語り」に触れることを、

逢ふ

 という動詞で言いなおしている。単に「語り」を聴くのではなく、それを語る人に「逢う」。会って、そのひとの暮らしをしっかりとわかる。共感する。
 そういうことが起きたなら、それは「芸術」を味わったことになる。「芸術」とは「生活(暮らし)」の具体的な「細部」を知ることだ、生活の具体的な部分に「芸術」がある、ということだ。

 こんなふうに、「比喩(経路)」を別なことばで言いなおすことができるかもしれない。
 でも、これは余分なことだね。
 「意味」なんて、本(他人のことば)を読む動機にならない。
 私は、いま書いた「意味(ストーリー)」よりも、藤井の「息継ぎ」を信じている。ことばといっしょに動いている「肉体」を信じている。「息継ぎ」を信じているから、それにあわて、「誤読」を拡大することができる。これが楽しい。
 「息継ぎ」が合わないと、ついていくことができない。私のついていき方が「正しい」か「間違っている」かは、この際、問題ではない。
 私の「肉体」がついていけるかどうか、それが私にとっての問題である。
 「間違っている」としても、それは私の問題であって、だれに迷惑をかけるわけでもいない。
 「芸術(文学)」の読み方なんか、間違っていようがどうしようが、他人には関係ない。作者にも関係ない。私はそう思って読んでいるし、感想も書いている。

美しい小弓を持って
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思潮社
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