韓粉順(Han Boonsoon)「青」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)
李國寛が訳している詩ばかり取り上げるのは、韓国の詩人の作品を狭い領域にとじこめることになるかもしれないが。しかし、好きなものはしようがない。好きではない作品について書いてもしようがない。
で、きょうは韓粉順(Han Boonsoon)「青」。
私は田舎育ちである。まわりは自然しかない。だから、ここに書かれていることは、そのまま幼いときの「思い出」に重なる。
と書けば、まあ、それでおしまいなのかもしれないけれど。
この詩を読んだとき、私に何が起きているか。起きたか。それを書きたい。夏の風景などではなく。
この一連目で、私は「そばで」と「まだ」に反応する。「そば」に身近。何かが自分に接している。私は何かとつながっている、という感じが「そばで」である。そして、その「つながっている」という感じを「まだ」が強調する。同時に、その「まだ」は「いま」までに長い時間があったことを知らせてくれる。長い間、何事かがあった。そしてそれは「まだ」私のそばに「残っている」。
何が残っているか。「夏」である。「夏草」である。「残っている」ということばではなく「生い茂っている」と韓は書くのだが、私は「残っている」と読み替えてしまう。「誤読」する。
二連目は「まだ」を言いなおしたものである。「まだ」のなかにある「長い時間」を具体的に描いて見せている。
「ひと眠り」のなかにある「時間」、「夕もや」が出てくる時間。「夕方」までの「時間」と言えばいいか。その「時間」を「渡る」という動詞を書くことで、いっそう明確にする。
二連目の主語は「夏(という時間)」なのかもしれないが、「ひと眠り」ということばが「私」を主語にしてしまう。つまり、夏の午後、夏草の上で寝ころんで「ひと眠り」したこと、眠るという動詞を生きたことを思い出させる。その動きに肉体が重なる。そうなると、最後の「渡り(渡る)」は私自身の動作としても読むことができる。
もっとも、私が夕もやを渡ることはできないから、私の意識(思い)ということかもしれないが、「渡る」という動詞は肉体で再現できるから、どうしても意識(思い)ではなく、それを「肉体」で感じてしまうのである。
三連目。
そうやって見てきた「時間」が「時」という名詞で言いなおされる。
「また」は「まだ」と似ているが違う。「まだ」は持続しているが「また」は反復である。この持続と反復の交錯というのも、またなつかくし、けだるい感じで肉体を刺戟する。
「手に入った」と「手」ということばがきちんと書かれているのも肉体に優しい。「落した」は「手から落した」であるのだろう。「抽象的」なことを書いているのだが、それを「肉体」で感じてしまう。「手」に感触が「ある」のだ。
そんなことを、ぼんやり思っている夏。まわりには、夏の青い光が、まだ残っている。そんなことを思うのだった。
李國寛が訳している詩ばかり取り上げるのは、韓国の詩人の作品を狭い領域にとじこめることになるかもしれないが。しかし、好きなものはしようがない。好きではない作品について書いてもしようがない。
で、きょうは韓粉順(Han Boonsoon)「青」。
夏は
私のそばで
まだ生い茂っている
深い谷間で
ひと眠りして
夕もやを渡り
時には
落して、時には
また手にも入った。
私は田舎育ちである。まわりは自然しかない。だから、ここに書かれていることは、そのまま幼いときの「思い出」に重なる。
と書けば、まあ、それでおしまいなのかもしれないけれど。
この詩を読んだとき、私に何が起きているか。起きたか。それを書きたい。夏の風景などではなく。
夏は
私のそばで
まだ生い茂っている
この一連目で、私は「そばで」と「まだ」に反応する。「そば」に身近。何かが自分に接している。私は何かとつながっている、という感じが「そばで」である。そして、その「つながっている」という感じを「まだ」が強調する。同時に、その「まだ」は「いま」までに長い時間があったことを知らせてくれる。長い間、何事かがあった。そしてそれは「まだ」私のそばに「残っている」。
何が残っているか。「夏」である。「夏草」である。「残っている」ということばではなく「生い茂っている」と韓は書くのだが、私は「残っている」と読み替えてしまう。「誤読」する。
二連目は「まだ」を言いなおしたものである。「まだ」のなかにある「長い時間」を具体的に描いて見せている。
「ひと眠り」のなかにある「時間」、「夕もや」が出てくる時間。「夕方」までの「時間」と言えばいいか。その「時間」を「渡る」という動詞を書くことで、いっそう明確にする。
二連目の主語は「夏(という時間)」なのかもしれないが、「ひと眠り」ということばが「私」を主語にしてしまう。つまり、夏の午後、夏草の上で寝ころんで「ひと眠り」したこと、眠るという動詞を生きたことを思い出させる。その動きに肉体が重なる。そうなると、最後の「渡り(渡る)」は私自身の動作としても読むことができる。
もっとも、私が夕もやを渡ることはできないから、私の意識(思い)ということかもしれないが、「渡る」という動詞は肉体で再現できるから、どうしても意識(思い)ではなく、それを「肉体」で感じてしまうのである。
三連目。
そうやって見てきた「時間」が「時」という名詞で言いなおされる。
「また」は「まだ」と似ているが違う。「まだ」は持続しているが「また」は反復である。この持続と反復の交錯というのも、またなつかくし、けだるい感じで肉体を刺戟する。
「手に入った」と「手」ということばがきちんと書かれているのも肉体に優しい。「落した」は「手から落した」であるのだろう。「抽象的」なことを書いているのだが、それを「肉体」で感じてしまう。「手」に感触が「ある」のだ。
そんなことを、ぼんやり思っている夏。まわりには、夏の青い光が、まだ残っている。そんなことを思うのだった。
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