詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

韓粉順(Han Boonsoon)「青」(李國寛訳)

2017-09-28 08:18:00 | 詩(雑誌・同人誌)
韓粉順(Han Boonsoon)「青」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 李國寛が訳している詩ばかり取り上げるのは、韓国の詩人の作品を狭い領域にとじこめることになるかもしれないが。しかし、好きなものはしようがない。好きではない作品について書いてもしようがない。
 で、きょうは韓粉順(Han Boonsoon)「青」。

夏は
私のそばで
まだ生い茂っている

深い谷間で
ひと眠りして
夕もやを渡り

時には
落して、時には
また手にも入った。

 私は田舎育ちである。まわりは自然しかない。だから、ここに書かれていることは、そのまま幼いときの「思い出」に重なる。
 と書けば、まあ、それでおしまいなのかもしれないけれど。

 この詩を読んだとき、私に何が起きているか。起きたか。それを書きたい。夏の風景などではなく。

夏は
私のそばで
まだ生い茂っている

 この一連目で、私は「そばで」と「まだ」に反応する。「そば」に身近。何かが自分に接している。私は何かとつながっている、という感じが「そばで」である。そして、その「つながっている」という感じを「まだ」が強調する。同時に、その「まだ」は「いま」までに長い時間があったことを知らせてくれる。長い間、何事かがあった。そしてそれは「まだ」私のそばに「残っている」。
 何が残っているか。「夏」である。「夏草」である。「残っている」ということばではなく「生い茂っている」と韓は書くのだが、私は「残っている」と読み替えてしまう。「誤読」する。
 二連目は「まだ」を言いなおしたものである。「まだ」のなかにある「長い時間」を具体的に描いて見せている。
 「ひと眠り」のなかにある「時間」、「夕もや」が出てくる時間。「夕方」までの「時間」と言えばいいか。その「時間」を「渡る」という動詞を書くことで、いっそう明確にする。
 二連目の主語は「夏(という時間)」なのかもしれないが、「ひと眠り」ということばが「私」を主語にしてしまう。つまり、夏の午後、夏草の上で寝ころんで「ひと眠り」したこと、眠るという動詞を生きたことを思い出させる。その動きに肉体が重なる。そうなると、最後の「渡り(渡る)」は私自身の動作としても読むことができる。
 もっとも、私が夕もやを渡ることはできないから、私の意識(思い)ということかもしれないが、「渡る」という動詞は肉体で再現できるから、どうしても意識(思い)ではなく、それを「肉体」で感じてしまうのである。
 三連目。
 そうやって見てきた「時間」が「時」という名詞で言いなおされる。
 「また」は「まだ」と似ているが違う。「まだ」は持続しているが「また」は反復である。この持続と反復の交錯というのも、またなつかくし、けだるい感じで肉体を刺戟する。
 「手に入った」と「手」ということばがきちんと書かれているのも肉体に優しい。「落した」は「手から落した」であるのだろう。「抽象的」なことを書いているのだが、それを「肉体」で感じてしまう。「手」に感触が「ある」のだ。
 そんなことを、ぼんやり思っている夏。まわりには、夏の青い光が、まだ残っている。そんなことを思うのだった。









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民主主義はどこへ行ったのか

2017-09-28 07:07:42 | 自民党憲法改正草案を読む
民主主義はどこへ行ったのか
            自民党憲法改正草案を読む/番外121(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月28日、西部版・14版)1面の見出し。

民進分裂へ/希望へ合流容認/衆院きょう解散 安倍政権に対抗

 ここまでは、あり得る展開である。しかし、2段でそえられた、

前原氏、無所属出馬も

 これは、どういうことだ。
 民進党の党首(代表)が「党首」の地位をほっぽりだしている。希望の党へ入党したいのだが、それでは無節操だから(?)、とりあえず「無所属」の立場で立候補する。だが、これも無節操だろう。だれが「党首」になるのか。だれが「民進党」の選挙をリードしていくのか。
 これは前原の「クーデター」だろう。

 このニュースでいちばん疑問に思うのは、民進党内での「民主主義」というのは、どうなっているのか、ということだ。
 「希望へ合流容認」はどうやって決めたのか。
 「前原・民進党代表」は選挙によって決めた。国会議員と民進党のサポーター(?)が投票して、前原を選んだ。選ぶまでには、いろいろなところで「議論」があったはずだ。今回は、どこで、どんなふうに「議論」したのか。
 「民主主義」は「議論」と同義である。ひとがそれぞれの意見を主張する。少数意見にも耳を傾ける。議論を尽くしたあと、決定する。「結論」も大事だが「過程」が大事である。
 「議論」をせずに「決定」だけを押しつけるのは「独裁」である。
 安倍の手法そのままである。
 代表選で前原に投票した人に、どう説明するのだろう。

 民進党の支持母体である連合は、どう判断しているのか。読売新聞の3面に、こういう記事が見える。

前原氏は(小池との階段を進める一方)同時並行で、民進党最大の支持団体である連合の神津里季生会長にも理解を求めていた。民進と共産党との共闘に否定的な連合は、「希望との連携は、共産を遠ざけることにつながる」として前原氏の決断を後押ししたという。

 民進党が批判しているのは共産党だけなのか。安倍・自民党はどうなのだ。また小池・希望の党を、どう判断しているのか。ここには書かれていない。

神津氏は27日の記者会見で「前原氏には期待をずっとしている」と語った。

 とも書かれている。「無所属」で出馬するとき、連合はどうするのか。「民進党支持」はやめて「無所属支持」に切り換えるのか。いったい、「無所属」から出馬する人間に、何を期待するのだ。
 私は民進党、前原の支持者ではないし、「経営陣になりたい欲望の集団」の連合にも批判的な人間だが、民主主義からあまりにもかけはなれた動きに、とてもこわいものを感じる。
 自分は一生生きて行けるだけの金を持っている。これから先もさらに国会議員で金を稼げるよう、当選だけを狙って何でもする。日本の将来などどうでもいい。国民の将来など知ったことではない、ということだろう。

 国の財政はすでに破綻している。年金はなくなり、「教育費無償化」は宣伝だけで実施されないだろう。東京電力福島第一原発の処理は、「自分が原因ではない」と言い張り放置するだろう。10年後には、電気自動車開発に乗り遅れたトヨタは倒産しているかもしれない。いまは日本に外国から労働者がやってきているが、10年後は、きっと日本の若者は中国へ出稼ぎに行くしかなくなるだろう。しかし、日本の若者は、中国周辺の諸外国の若者との競争に破れるだろうし、過去の歴史が障礙になり日本人の若者は中国では差別されるだろう。
 私はあと10年生きられるかどうかわからない人間だが、なんともやりきれない。
 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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