佐川亜紀『さんざめく種』(土曜美術出版販売、2017年08月15日発行)
時代、現実とどう向き合うか。どうことばにするか。むずかしい問題である。時代、現実の方がことばより先に動くからである。それをただ追いかけるのではなく、突き破るようにしてことばを動かし、見落としている「時代」「現実」を「いま」「ここ」として提出する。見落としているものは、すでにあるも、つまり「過去」でもある。「過去」を引っ張りだし、「未来」として噴出させる、露呈させる。そういうことができたとき、時代、現実をとらえることができたといえるかもしれない。
「ルージュ」にその「手がかり」のようなものを見た。
津波の被災地で、だれかがつかっていた口紅の箱が出てきた。そこに書かれている「色」を私は具体的には知らない。だからこそ、そこに「肉体」を感じる。私の知らない「色」を知っていて、その「色」に願いをかけていたひとがいる。
それは「まだ生きている」。
この口紅、この色で、きょうはこういう生き方をする。生き方をしたい。欲望が生きている。津波以前、つまり「過去」にその女性は、そういう風に生きていた。(私の想像は「誤読」だが、つまり間違いを多く含んでいるだろうけれど。)ひとは生きる欲望をもっている。そして、それを自分にできる形で実現する。口紅にも、そういうものが含まれている。
それを奪ったのが津波。それにともなうさまざまなことがら。
それは「過去」であるだけではない。これからも起きるかもしれないこと、つまり「未来」でもある。
だから佐川は書くのだ。
「未来」をふたたび津波や原発事故で奪わさせてはいけない。ひとのいのち、生きる欲望を奪わさせてはいけない。
その叫びを、
と、具体的に書く、その口紅の色に感じた。佐川はそれを識別できる。つまり、それをつかっているひとの欲望を「共有」している。
こういうことばが、私は好きだ。
「聖なる泥/聖なる火」には、こういう行がある。
「川」は「流れる」という動詞になって「世界」を結びつける。「東京電力福島第一原発」が広島と福島を結びつけるだけではなく、「川(水)」が「流れる」という動詞が、水といっしょに「流す」ものを結びつけ、さらに離れたいくつもの「土地」を結びつける。
この「結びつき」は「書く」という動詞で強くなる。「現実」になる。
この「現実」を「水」は消そうとする。「泥水」も覆い隠そうとする。けれども、何度でも「書く」のである。「消えても」「書く」のである。
「消えても」は「消されても」でもある。
「消そうとする/水」は、「泥水」よりも、もっと暴力的かもしれない。「泥水」には奪われた「過去」がびっしりとつまっている。「消そうとする/水」は「未来」を奪っていく。
この畳みかけるようなリズムも、私は好きである。
一方、同じ詩の中の、次の部分。
ここに出てくる「クラウド化(される/する)」ということばは、どうつかみ取るべきなのか。私は困惑する。
それまでのことば、たとえば「死ぬ時の 泥になる時の官能」というのは、強烈な矛盾であり、個人によって(肉体によって)つかみとられる「事実」である。さまざまな口紅の色や、破壊された肉体の、腕、足、腹に通じるものである。
「クラウド化(される/する)」は、どうか。
個人というよりも、個人を否定する力によって動いている。私たちがそういう力によって支配されているということは理解できるが、理解できるからこそ、そういう力と向き合う別のことばがほしいと私は思う。
詩の中にふいにまぎれこむ「意味」。それも「個人」を否定する力が押しつけてくる「意味」というものを、ときどき感じてしまう.「現実」を描くにしろ、そういう「意味」をたたき壊しながら書かないと、せっかくの「肉体」が奪われしまう、と私は感じる。
「青い馬」と「魚をみごもった日」は、いのちを引き継ぐものの「力」を感じさせてくれる。いのちを引き継ぐのは力がいることなのだと教えてくれる。
時代、現実とどう向き合うか。どうことばにするか。むずかしい問題である。時代、現実の方がことばより先に動くからである。それをただ追いかけるのではなく、突き破るようにしてことばを動かし、見落としている「時代」「現実」を「いま」「ここ」として提出する。見落としているものは、すでにあるも、つまり「過去」でもある。「過去」を引っ張りだし、「未来」として噴出させる、露呈させる。そういうことができたとき、時代、現実をとらえることができたといえるかもしれない。
「ルージュ」にその「手がかり」のようなものを見た。
津波に襲われた町で 黒い泥の中から 黒い箱
思いがけなく なまなましくきらめくものが
たくさん出て来た
ローズピンク オレンジアミューズ
レッドセダクション クリスタルベージュ
まだ生きている肉片みたいに
津波の被災地で、だれかがつかっていた口紅の箱が出てきた。そこに書かれている「色」を私は具体的には知らない。だからこそ、そこに「肉体」を感じる。私の知らない「色」を知っていて、その「色」に願いをかけていたひとがいる。
それは「まだ生きている」。
この口紅、この色で、きょうはこういう生き方をする。生き方をしたい。欲望が生きている。津波以前、つまり「過去」にその女性は、そういう風に生きていた。(私の想像は「誤読」だが、つまり間違いを多く含んでいるだろうけれど。)ひとは生きる欲望をもっている。そして、それを自分にできる形で実現する。口紅にも、そういうものが含まれている。
それを奪ったのが津波。それにともなうさまざまなことがら。
それは「過去」であるだけではない。これからも起きるかもしれないこと、つまり「未来」でもある。
だから佐川は書くのだ。
「未来」をふたたび津波や原発事故で奪わさせてはいけない。ひとのいのち、生きる欲望を奪わさせてはいけない。
その叫びを、
ローズピンク オレンジアミューズ
レッドセダクション クリスタルベージュ
と、具体的に書く、その口紅の色に感じた。佐川はそれを識別できる。つまり、それをつかっているひとの欲望を「共有」している。
こういうことばが、私は好きだ。
「聖なる泥/聖なる火」には、こういう行がある。
死者たちの川があふれる
ヒロシマの元安川の腕が流れてきて
釜石の足が流れてきて
南相馬の腹が流れてきて
仙台の胸が流れてきて
水に書く 消えても 何度も泥水に書く
「川」は「流れる」という動詞になって「世界」を結びつける。「東京電力福島第一原発」が広島と福島を結びつけるだけではなく、「川(水)」が「流れる」という動詞が、水といっしょに「流す」ものを結びつけ、さらに離れたいくつもの「土地」を結びつける。
この「結びつき」は「書く」という動詞で強くなる。「現実」になる。
この「現実」を「水」は消そうとする。「泥水」も覆い隠そうとする。けれども、何度でも「書く」のである。「消えても」「書く」のである。
「消えても」は「消されても」でもある。
「消そうとする/水」は、「泥水」よりも、もっと暴力的かもしれない。「泥水」には奪われた「過去」がびっしりとつまっている。「消そうとする/水」は「未来」を奪っていく。
この畳みかけるようなリズムも、私は好きである。
一方、同じ詩の中の、次の部分。
泥の中に
骨が 箸が 乳が
泥の中の子宮 生まれる時
死ぬ時の 泥になる時の官能
そうしたものもすでにクラウド化されていて
ここに出てくる「クラウド化(される/する)」ということばは、どうつかみ取るべきなのか。私は困惑する。
それまでのことば、たとえば「死ぬ時の 泥になる時の官能」というのは、強烈な矛盾であり、個人によって(肉体によって)つかみとられる「事実」である。さまざまな口紅の色や、破壊された肉体の、腕、足、腹に通じるものである。
「クラウド化(される/する)」は、どうか。
個人というよりも、個人を否定する力によって動いている。私たちがそういう力によって支配されているということは理解できるが、理解できるからこそ、そういう力と向き合う別のことばがほしいと私は思う。
詩の中にふいにまぎれこむ「意味」。それも「個人」を否定する力が押しつけてくる「意味」というものを、ときどき感じてしまう.「現実」を描くにしろ、そういう「意味」をたたき壊しながら書かないと、せっかくの「肉体」が奪われしまう、と私は感じる。
「青い馬」と「魚をみごもった日」は、いのちを引き継ぐものの「力」を感じさせてくれる。いのちを引き継ぐのは力がいることなのだと教えてくれる。
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