詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

民主主義はどこへ行ったのか(2)

2017-09-29 12:17:51 | 自民党憲法改正草案を読む
民主主義はどこへ行ったのか(2)
            自民党憲法改正草案を読む/番外122(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月29日、西部版・14版)1面に「政党政治の否定だ」というタイトルの前木理一郎・政治部長の文章が載っている。民進党が希望の党へ合流することを批判する内容である。
 「選挙は政党と政党の理念の戦いだ」という主張はまっとうな意見である。「各党は理念や要綱に基づいた政権公約を有権者に訴える」というのも基本である。しかし、

これほど露骨な「当選ファースト」は、たとえ政権交代が目的であっても、限度を越えている。

 という指摘は、どういうものだろう。
 納得がいかない。
 ここに書かれていることは、なぜ、こういうことが起きたのか、という「出発点」を見落としている。
 今回の選挙が、民進党が仕掛けたものなら、この論は正しい。民進党が政権交代を求め、内閣不信任案を提出し、それが可決された結果、国会が解散され、選挙が行われることになったというのなら、たしかに正しい。
 憲法には「解散」を、こう規定している。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 しかし、今回の選挙は「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決した」結果のものではない。つまり、民進党が仕掛けたものではない。
 安倍が、安倍の都合で国会を解散した。
 狙いは何か。
 森友学園・加計学園問題を隠すため、憲法改正を推し進めるためなど、いろいろ言われているが、要は「今の議席数を、今後4年間は維持したい。できることなら、いま以上の議席数を今後4年間維持したい」ということだろう。
 民進党は求心力が低下している。ごたごたつづきである。いま総選挙をすれば、民進党は壊滅する、とにらんで安倍が解散を強行した。言い換えると、民進党議員の「首切り作戦」に出たということだろう。
 民進党議員は、失職したくない。どんな形でもいいから当選したい、と思った。そのためなら、希望の党に合流するのがいちばん手っとり早い。「理念」が必要だというが、理念があっても議員になれなければ理念を実行できないという大問題がある。「現実的」に対処したということだろう。

 私は民進党の行動を支持するつもりはないが、だからといって前木が書いているような視点からは批判したくない。安倍の行動には目をつむり、前原の行動だけを批判しても何も始まらない。
 「政党政治」以前に、「民主主義」が否定されているのだ。問われているのだ。
 安倍は、解散の名目に「全世代型社会保障」を実現するためを掲げた。財源を19年から実施する消費税増税に求める。こういう税金の「使途変更」をともなう政策の前には、その是非を国民に党必要がある、だから選挙をする、という。
 もっともらしいが、安倍の主張している「論点」は、どこで、どうやって議論された結果出てきたものなのか。
 国会で消費税増税をどうつかうかを、いつ議論したのか。その議論は、どういう内容だったか。民進党をはじめ野党は、どう主張しているか。どんな対立点があるのか。もし、相いれない対立点があり、どちらが「正しいか」を国民に問うのなら、安倍の主張は意味がある。
 しかし、議論にもなっていないことを突然「争点だ」と主張して、選挙をおこなう、そのために国会を解散するというのは、それこそ「当選ファースト」の考えに基づいた行動だろう。
 この安倍のいいかげんさは、消費増税を「全世代型社会保障」にあてるといいながら、そう主張した直後に、「リーマン・ショック級の経済危機が起きた場合は消費税増税は見送る」と言っているところに象徴的にあらわれている。財源を消費税増税に求めて政策を実施する、といいながら、経済事情が悪化すれば消費税は上げないという。では、財源はどこに? 財源のメドもないのに政策をぶち上げている。
 こういう「リップサービス」を「当選ファースト」の露骨な政策というのではないだろうか。

 今回の「どたばた」は、安倍がトップダウンで解散を決め、テキトウな政策をでっちあげたことと、前原がやはりトップダウンで希望の党への合流を決めたことに原因がある。党を構成する議員の間で民主的な議論があり、そこから「結果」が出てきたのではなく、ふたりの「独裁者」が勝手に方針をおしつけているところにある。
 「民主主義」というものが否定されている。
 「議論」そのものが、否定されている。
 選挙に入れば「政策論争」をする、「政策を国民に訴えていく」というが、誰が街頭で「政策をきちんと(ていねいに)説明する」だろうか。「自分の名前」を叫ぶだけではないか。
 昨年の夏の参院選では、安倍は「沈黙作戦」を強行した。党首討論を一回だけしか開かない。マスコミも、そのときに政策を伝えるだけで、あとは沈黙する。沈黙すると、巨大政党の意見だけがひろがる。少数意見は、どこにもひろがっていかない。必然的に、巨大政党が有利になる。この「宣伝の原理」を利用した「沈黙作戦」を思いついた人間のやり口が、どんどん拡大していると見るべきなのだ。
 たとえ自民党内に「議論」があったとしても、それは伝えない。安倍の「決定」だけをマスコミがつたえる。自民党内の少数意見はなかったことになる。民進党も同じ。前原の「決定」だけがマスコミをつうじてつたわる。「議論」は封印される。

 いま、ネットであふれかえっているも、「議論」の封印である。自分の意見と違う相手をみつけては、ただ罵詈雑言を浴びせている。罵詈雑言が多ければ、その主張が「正しく」、侮蔑された人が「間違い」という「判定」が幅を利かせている。
 「議論」を否定する、ことばの「内戦状態」が起きている。非論理が、あふれかえっている。
 マスコミでは、まだ「罵詈雑言」は飛び交ってはいないが、「論理の省略」という形で、一方的な論理が偽装されている。これは目に見えにくいが、やはり「暴力」である。
北朝鮮の攻撃によって日本が破壊される前に、「ことばの内戦、議論の崩壊」によって、日本は壊滅する。自己崩壊する。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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山口佳代子「おくりびと」、季村敏夫「光景」

2017-09-29 10:50:04 | 詩(雑誌・同人誌)
山口佳代子「おくりびと」、季村敏夫「光景」(「河口から」3、2017年09月15日発行)

 山口佳代子「おくりびと」は、火葬後、骨を拾いながらの会話から始まる。

足首の骨がしっかりしている、と男
よく山を歩きましたからね、と母
脳を覆う骨が分厚いこと、と男
記憶力が抜群だった、と息子

 男は火葬場の係の人だろうか。骨の特徴を言う。そのことばに誘われて、「みおくりびと」が死んだ人のことを語る。これが、なかなかおもしろい。男のことばが「みおくりびと」のことばを誘い出している。ことばが重なって、死んだ人を描写し始める。
 相槌は書かれていないが、みんな相槌を打っている。そうだったなあ、と思い出している。
 不思議な呼吸が書かれている。

これが鼻、頬骨がはっきりしている
人によってお顔が作れない場合も
ございます、と男が話している

骨は淡い薄紫で
花弁みたい、と娘
野山を巡り、薬草を
ドウランに入れて帰り
標本を二万本も残した人
樹精に守られていたのです
碧い光が、冬空から降り注ぎ

 思い出が一気に長くなる。「よく山を歩きました」は「野山を巡り」と言いなおされ、「記憶力が抜群だった」は「標本を二万本も残した」と言いなおされ、人物像が明確になる。
 「みおくりびと」は、「外的」特徴だけでは満足しない。「肉体」がなくなったので、せめて「精神」をことばで明確にしたいと思うのだろうか。

樹精に守られていたのです

 「樹精」ということばのなかに「精神」の「精」がある。「みおくりびと」の思いは、きっとそこに結晶する。
 しかし、このあと、思いもかけないことばがつづいてくる。「起承転結」の「転」のような感じ。

いや、どなたも、こんな色におなりですよ
なぜそのようなお色に染まるかといえば
私にもわかりませんが、とふたたび男

 係の男は骨の形、強さには興味があるが、色には関心がない。こんなことは、わざわざ言わなくてもいいのだろうが、職業柄、ついつい言ってしまう。骨の色に、そのひとの特徴が出ることはない、あくまで形、頑丈さに人柄が出ると言いたいのだろう。
 うーん。
 こういうとき、ひとは、「冷淡さ」(客観性)をどうやって乗り越え、「感情」を再び獲得することができるのか。

それなら、誰もが草木に守られている
焼かれたあと、人は花弁となるのだ
父を納めた壺が温かい、と孫息子

 なるほどねえ。
 ことばはだんだん「論理」になっていく。「論理」の発見が詩であるかどうかは、むずかしい。
 「結」を考えると、こうなるしかないのだろうけれど。
 私は最初の、

よく山を歩きましたからね、

 という「母」のことばが、いちばん「実感」があふれている気がして好きである。「論理」として美しくなるに従って、うるさいような感じがしてくる。
 こういう感想を書くのは申し訳ないが。



 季村敏夫「光景」も、死に関係する詩を書いている。

海からの風に
棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる

打たれつづける
簡素な響きが植えつけられ
歩みが始まる

 釘を打ちつける音が耳に残っている。それを残したまま、棺を担いで歩く。歩いていると、なおも耳に釘を打つ音が聞こえてくるということだろう。
 この「時差」のようなものが、おもしろい。
 季村は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、これはどういうときにもそうなのだ。釘を打つ音が聞こえなくなったときこそ、その音がはっきりとやってくる。思い出され、ことばにすることによって、「出来事」が「事実」になる。「事実」になって、「肉体」に刻み込まれる。
 一連目の

棺に打ち込まれる釘
打たれる音がまじる

 この「呼吸」も印象的だ。「棺に打ち込まれる釘の/打たれる音がまじる」ということなのだが、学校文法の文のにようには「整えられていない」。「釘」がまず意識され、それから「音」が意識されるのか。文章としては、そうなのかもしれないが、何か「打たれる(打ち込まれる)」音がある。そのあと「あ、あれは釘を打ち込む音だ」と気づくのかもしれない。いや、そういう「時間の論理」を越えて、瞬間的に全体がつかみとられていると考えるべきだろう。瞬間的、つまり「同時」なので、「の」を挿入することができない。「学校文法」では書けない「事実」がここに書かれている。
 「出来事は遅れてあらわれる」というのは、「事実」は瞬間的に起きてしまい、それを「論理的」に、「正確に」とらえなおすことができるのは、あとになってからだ、ということであり、同時に、そうやって「遅れてあらわれる」前にも「事実」があって、それをそのままつかみ取るのが詩の力。
 ことばは、どの瞬間、いちばん強くて、可能性に満ちているのか。
 それを考えたくなる詩である。








日々の、すみか (Le livre de luciole)
クリエーター情報なし
書肆山田
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