詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)

2017-09-02 11:19:21 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(21)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「閉館」では藤井少年(!)は中城ふみ子歌集『乳房喪失』を読んでいる。少年は「乳房」だけでも勃起する。「喪失」には中城の思いがこめられているだろうが、孤独な少年は「誤読」の方を好む。歌人が書いていることよりも、自分が読みたいものを読み取る。

あたりの書架がまぶしかったから、少年は、
中城ふみ子歌集を盗み出した。
乳房を喪失する少年の図書館。
ぼくらは自由の女神にさよならする。 「ノミ、
すら、ダニ、さへ、ばかり、づつ、ながら」。
ああ、文法とも定型詩とも「さよなら」しよう。

 中城は乳房と「さよなら」したのだろう。藤井は中城の感情とも「さよなら」し、自分の世界へ突っ走る。

黒雲が覆う自由の女神、
かえらないだろう、ふたたびは、
ぼくらの図書館に。 ノミ、
カエル、ヘビ、ダニが、
詩行から詩行へ跳躍する、
ぴょいぴょいの歌。

 最初に引用した「ノミ」「ダニ」は昆虫ではなく、「助詞」である。歌の中にでてきたことば。「すら」「さへ」「ながら」と少年でもつかうが「……だに」というような言い方はしないだろうなあ。歌集のなかで見つけたのだ。「だに」だけなら違ったことも思うだろうけれど「のみ」も出てくるので、知っている昆虫の「ノミ、ダニ」へ脱線していく。「誤読」していく。つまり「文法」と「さよなら」をする。短歌(定型詩)とも「さよなら」し、勝手なことを思う。
 それが暴走し、「かえらない(乳房)」ということばに出会って「かえる→カエル」という具合に逸脱していく。「帰る、返る」ということばは知っているが「ノミ、ダニ」の影響で「カエル」を連想する。それがさらに、たぶん、歌集には書かれてもいない「ヘビ」をも呼び寄せる。
 こういうことは短歌の「鑑賞(批評)」とは、まったく関係がない。むしろ、そういう「読み方」をすれば「学校文法(教育)」では拒否される。
 でも、少年は、そういうことをしてしまう。
 これはなぜだろう。
 こんなことは考えても仕方かないことかもしれない。考えても文学の鑑賞、批評には無関係なことかもしれない。
 でも、そこに何か「まぶしい」ものがないだろうか。いきいきとしたものがないだろうか。

 助詞の「のみ」「だに」を、昆虫の「ノミ、ダニ」と読む。それは、ことばの「意味」からの解放である。「哲学」からの解放と呼ぶこともできるだろう。
 「文法」には「哲学」がある。ことばの動かし方を「整える」力がある。文法に従うと、ことばが正確に「つたわりやすい」。「哲学」というよりも「経済学」かもしれない。
 「意味」からの解放は、別のことばで言えば「むだ」。「のみ、だに」を昆虫と読む(理解する)というのは、何の役にも立たない。「むだ」は「経済学」に反する。
 この「むだ」を拒絶する「経済/資本主義」も、ひろく言えば「哲学」。「人間の行動の規範」が「哲学」なのだから、「文法」はことばの「経済学(哲学)」と言える。
 「文法」とは「哲学」である。
 「文法」とはことばの動かし方を支配する力、「動詞」であると定義することもできる。「文法」というのは「名詞」だが、実際には動き回るもの。そこにあるものではなく、ことばのなかを動きまわり、ことばを整えるのが「文法」である。
 そして「文法」によって整えられたものが「意味」ということになる。
 その「文法」に支配されていることばを別な視点で見つめなおす、「文法支配」を拒絶する。それは、まったく「むだ」なことなのなだが、でも、この「むだ」が、なぜか、おもしろい。
 なぜだろうか。
 「ことば」を「ことば」以前に引き戻す力が、そのとききらめくのだと思う。「まぶしく」光るのだと思う。
 「ことば」は「意味」である前に「音」であった。そのことを思い出させてくれる。言いたいことがあるのに「ことば」にならない。それでも、大声を出す。そのときの「肉体」の解放感。「むだ」な解放感かもしれないけれど、「声」の衝動が、ある。

 あ、また余分なことを書きすぎたなあ。

 藤井の詩には、「声」がある。「音」の喜びがある。「文字」(整えられた意味)になる前の「声(音)」の自然がある。
 人間はたぶん「文法(ことばの哲学)」を生き続けるうちに、この自然から遠ざかり、人工的に(経済的に)なっていくのだと思うけれど、それから逸脱する力を藤井の「音」から私は感じ取る。
 聞いていて「楽しい」と感じさせるものがある。「音」にかえろうとする欲望がある。
 藤井の「声」を聞いたこともないし、詩を読むときも私は音読はしない。黙読はしないのだけれど、なぜか「音(音楽)」を感じる。
 助詞の「のみ、だに」を昆虫の「ノミ、ダニ」と言い換えているだけの(?)詩なのだけれど。

閉館の時刻。 光がとどかない館内に、
短詩をまた送って。

きみはどこにいるのか、いま。

 この最後の「きみ」は「藤井少年」だろう。
 「意味(哲学/文法)」を蹴散らかして「音」に遊んだあのときの喜び。その喜びは、しかし、消えてはいない。「どこにいるのか」と問うとき、藤井にはその「存在」をおぼえている。つまり「存在」がわかっている。
 詩をとおして、「少年」と交流している。それが「声」の「音楽」となって聞こえてくる。

神の子犬
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書肆山田
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