韓中日詩人フェスティバル(2017年09月14日-09月17日)
韓中日詩人フェスティバルに参加した。2017年09月14日から09月17日まで、ソウルと平昌で開かれた。「平和」「環境」「治癒」の3テーマでフォーラムがあった。私は「環境」に参加した。
中国の詩人の基調報告は日本語翻訳がなくてよくわからなかったが、韓国の詩人の基調報告と似ているように感じた。
二人が共通して(?)語ったことは、「環境破壊=人間破壊=ことばの破壊」という形で要約できる。少し論理的に語りなおすと、次のようになる。
(1)自然環境の破壊と文明(産業)の創造・発展は表裏一体である。
産業革命によって自然環境破壊が加速した。
(2)文明が社会をつくり、社会が人間の自然を破壊した。
たとえば本来存在しない男女差別をつくりあげ、それが社会を固定した。
(3)社会構造の固定化は、同時にことばの破壊でもある。
ことば本来の自然がなくなった。
(4)自然のことばをとりもどすことで、人間性と自然を回復することが求められる。
ことばを取り戻す方法として詩がある。
詩は、あらゆる存在との「対話」であり、「対話」を回復するのが詩である。
(5)中国には「詩教」ということばがある。
詩を通じて、他の存在(自然を含む)との対話方法を教える。
(5)は中国詩人が言っていることで、韓国詩人はこういうことを言っていない。
それをわきにおいておいて、大胆に言い換えると、人間と自然(環境)との共存が、中国と韓国の詩人との思い描いている「ユートピア」である。
ユートピアでは人間の尊厳、生命の尊厳が保障されている。
破壊された自然と人間(の自然)を救うために対話が必要であり、その対話を推し進めるのが詩である。詩の力で、環境破壊と人間破壊を根本的に解決しよう、と提言しているように思えた。
これはなんだか予定調和的な「結論」であり、私はかなり違和感をおぼえた。
フォーラムの結論としてはそれでいいのだろうけれど、個人的には違うことも考えた。
共存のユートピアとは違うものがあるのではないか。
破壊の可能性、暴力の可能性、愉悦の解放ということが語られないまま、予定された結論にむかってことばが動いているように感じた。
ひとはなぜ暴力にひかれるのか、破壊にひかれるのか、暴力や破壊によって回復する人間性というものもあるのではないのか。いのちの可能性というものもあるのではないのか。
「環境フォーラム」には日本から細田傳造、天童大人も参加していた。たまたま細田がとなりに座っていたので、「暴力や破壊によって回復する人間性について、何か反論しなくていいんですか? 反論してくださいよ」とけしかけたのだが、「論理的に語れない」と拒まれてしまった。「論理的に語れない」とは、「感情的には語りたい」ということかもしれない。「声」を発することで人間の根源にふれよううとしている天童も何かいいたいはずだと思うのだが、席が離れていて、けしかけることができなかった。
私は破壊や暴力による人間性の回復というようなことを、私自身のことばのテーマとはしていないので、自分のことばとしては語ることがなかった。違和感が非常に強い「結論」と感じた。
私が細田や天童の「代弁」をすることはできないので、私が細田の詩について感じていることを書くことで、破壊や暴力が人間性の回復になることもある、愉悦をひきだし、いのちを輝かせることもあるということを書いておきたい。細田の詩の魅力は「予定調和」とは無縁なところにある。「予定調和」を破壊するところにある。
フェスティバルの資料のなかに「魚永福」という詩がある。(長い作品なので、そのことばを読んだ瞬間に感じることをそのまま書くために、三つにわけて紹介する。)
「さかな」とは「魚本修練兵」のことである。長い名前なので、いつも「さかな」と呼ばれている。これは、一種の人間性の否定(なまえを正確に呼ばないのは失礼なことである)。だから魚本は「さかなと呼ぶな」と反抗もするのだが、そんな反抗にかまっているひまはない。生きることが大前提である。だから「魚の侭で走れ」と言う。「首を縛って走った」ということもする。他人の自由を奪ってでも、走る。逃げる。他人の自由、名前の尊厳などに気配りをしていてはだめなのだ。そういう瞬間もあるのだ。
「丸裸」は人間が生まれたままの姿だが、それは一種の「恥」である。「文明」の否定である。しかし、それでいいのだ。「ツチノコ」は人間ではない。「アミ族の男」は「文明」からは遠いかもしれない。しかし、それでいいのだ。「朝鮮人徴用工」が「げらげら腹抱えて笑う」。差別してきた人間に笑われる。屈辱だ。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。生きるのだ。生きるために、走る。二人は「総員」二人になって、二人だけだけれど「総員」になって、真剣に走る。「総員」という言い方に、絶対にふたりとも生きるんだという「欲望(本能)」がぎっしりつまっている。
走った先に、「いのち」がある。「いのち」を守るために、なにもかも捨ててしまって、ただ「走る」という動詞になる。「走る」ときに「ツチノコ」であってもかまわない。「朝鮮人徴用工」に笑われようとかまわない。その瞬間「人間」でなくてもかまわない。「人間」でなくなること、「ツチノコ」になることで、「いのち」そのものになる。そういうこともあるのだ。
「人死させるわけにはいかない」、死んではいけない。そのために「人間性」を捨てる。「人間性」を捨てて「いのち」そのものになる。「ニンゲン二匹」ということばがある。「二人」ではなく「二匹」。人間ではなく、けだもの(動物)になっている。なまなましい「やせい」の「いのち」になっている。そして、「走る」という動詞そのものになる。「動詞」は「人間」と「動物」に共通する。「いのち」の運動だ。
「いのち」そのものになること。ここには、それが「愉悦」であるとは直接書かれていない。しかし、私は感じる。ただひた走る力、そういう力があるという愉悦を生きている細田がいる。
走って、走って、走ったから、いま、ここにこの作品が「ことば」としてある。
で。
ちょっともどって。
この作品に、細田のキーワードを見た。「いいから!」である。この「いいから!」はなかなかむずかしい。「そんなことはどうでもいいから」の「どうでも」が省略されている。「いい」は肯定。「どうでもいい」は否定。これが、ごっちゃになっている。そして「否定」はことばにはならず「肯定」だけがことばになっている。
この感じ、韓国語、中国語で、どう言うのかなあ。韓国語、中国語では、どう訳されているかなあ。
その否定と肯定がごっちゃになっている、切り離せないものになってニンゲンを動かしているという「人間観」が、細田の思想(肉体)である。
(この「いいから!」というのは、どこかで慎達子「熱愛」の「最高だ」につながっていると思う。慎の「最高だ(ああ、極楽)」にも否定と肯定の強固な結合がある。)
天童を引き合いに出したので、天童のことも書いておきたい。天童のやっていることは「ことば」の回復というよりも、「声(肉体)」の回復である。言い換えると「ことば」の「意味」はどうでもいい。(と、書いてしまうと、まあ、天童は怒るかもしれないが、私にはそういう印象がある。天童の「声」を私は今回はじめて聞いたが、聞いているとき「意味」なんか追いかけていない。声が出てくるときの「肉体」の動きを自分の「肉体」で追っている。)「声」のなかにつながっている「いのちの歴史(肉体の歴史)」が大事である、という考え方だと思う。
文明(産業社会)が環境を破壊し、人間性を破壊する。それにどう立ち向かうか。まず「声」を出す、というところから天童は出発する。ひとは生まれた瞬間から「声」を出す。空気を吸って、空気を吐きだす。その蓄積が生きるということである。その呼吸に「音」を乗せて、自分の欲望を伝える。その力を取り戻すことが大切である。
「大声」は一種の暴力だが、そういう「暴力」を回復することも大切なのだ。
破壊の可能性、暴力の愉悦、愉悦の解放ということを抜きにして、環境と人間の調和ということに「結論」をもっていってしまっては、何かが欠落する。たぶん「現代」というものが欠落する。私たちがいま生きていて、その生きている瞬間に肉体が反応する「反発力」のようなものが欠落する。
「環境と詩」というのが今回のフォーラムのテーマだからしかたないのかもしれないが、詩ではなく「現代詩」という表現をつかえば、すこし違ったことばのぶつかりあいがあったかもしれない。
「反論」がないフォーラムというのは、すこし寂しい。そんなことを感じた。
韓中日詩人フェスティバルに参加した。2017年09月14日から09月17日まで、ソウルと平昌で開かれた。「平和」「環境」「治癒」の3テーマでフォーラムがあった。私は「環境」に参加した。
中国の詩人の基調報告は日本語翻訳がなくてよくわからなかったが、韓国の詩人の基調報告と似ているように感じた。
二人が共通して(?)語ったことは、「環境破壊=人間破壊=ことばの破壊」という形で要約できる。少し論理的に語りなおすと、次のようになる。
(1)自然環境の破壊と文明(産業)の創造・発展は表裏一体である。
産業革命によって自然環境破壊が加速した。
(2)文明が社会をつくり、社会が人間の自然を破壊した。
たとえば本来存在しない男女差別をつくりあげ、それが社会を固定した。
(3)社会構造の固定化は、同時にことばの破壊でもある。
ことば本来の自然がなくなった。
(4)自然のことばをとりもどすことで、人間性と自然を回復することが求められる。
ことばを取り戻す方法として詩がある。
詩は、あらゆる存在との「対話」であり、「対話」を回復するのが詩である。
(5)中国には「詩教」ということばがある。
詩を通じて、他の存在(自然を含む)との対話方法を教える。
(5)は中国詩人が言っていることで、韓国詩人はこういうことを言っていない。
それをわきにおいておいて、大胆に言い換えると、人間と自然(環境)との共存が、中国と韓国の詩人との思い描いている「ユートピア」である。
ユートピアでは人間の尊厳、生命の尊厳が保障されている。
破壊された自然と人間(の自然)を救うために対話が必要であり、その対話を推し進めるのが詩である。詩の力で、環境破壊と人間破壊を根本的に解決しよう、と提言しているように思えた。
これはなんだか予定調和的な「結論」であり、私はかなり違和感をおぼえた。
フォーラムの結論としてはそれでいいのだろうけれど、個人的には違うことも考えた。
共存のユートピアとは違うものがあるのではないか。
破壊の可能性、暴力の可能性、愉悦の解放ということが語られないまま、予定された結論にむかってことばが動いているように感じた。
ひとはなぜ暴力にひかれるのか、破壊にひかれるのか、暴力や破壊によって回復する人間性というものもあるのではないのか。いのちの可能性というものもあるのではないのか。
「環境フォーラム」には日本から細田傳造、天童大人も参加していた。たまたま細田がとなりに座っていたので、「暴力や破壊によって回復する人間性について、何か反論しなくていいんですか? 反論してくださいよ」とけしかけたのだが、「論理的に語れない」と拒まれてしまった。「論理的に語れない」とは、「感情的には語りたい」ということかもしれない。「声」を発することで人間の根源にふれよううとしている天童も何かいいたいはずだと思うのだが、席が離れていて、けしかけることができなかった。
私は破壊や暴力による人間性の回復というようなことを、私自身のことばのテーマとはしていないので、自分のことばとしては語ることがなかった。違和感が非常に強い「結論」と感じた。
私が細田や天童の「代弁」をすることはできないので、私が細田の詩について感じていることを書くことで、破壊や暴力が人間性の回復になることもある、愉悦をひきだし、いのちを輝かせることもあるということを書いておきたい。細田の詩の魅力は「予定調和」とは無縁なところにある。「予定調和」を破壊するところにある。
フェスティバルの資料のなかに「魚永福」という詩がある。(長い作品なので、そのことばを読んだ瞬間に感じることをそのまま書くために、三つにわけて紹介する。)
生還
さかな!
ウスク沼の縁道で怒鳴った
自分のことをさかなと呼ぶな!
調教演習からの帰路引率中
一名の修練兵が反抗する
夕暮遠雷
いいから!魚の侭で走れ
帝国軍人の身分で雷にうたれて
斃れるわけにはいかない
早く!
魚本修練兵の首を縛って走った
接収兵舎の鰐淵寺(がくおんじ)を目指して走った
「さかな」とは「魚本修練兵」のことである。長い名前なので、いつも「さかな」と呼ばれている。これは、一種の人間性の否定(なまえを正確に呼ばないのは失礼なことである)。だから魚本は「さかなと呼ぶな」と反抗もするのだが、そんな反抗にかまっているひまはない。生きることが大前提である。だから「魚の侭で走れ」と言う。「首を縛って走った」ということもする。他人の自由を奪ってでも、走る。逃げる。他人の自由、名前の尊厳などに気配りをしていてはだめなのだ。そういう瞬間もあるのだ。
近くで空が光った
雷に撃たれてあっけなく
事切れるわけにはいかない
丸腰になって走った
丸裸になって
両手をあげて
総員弐だけになって走った
ツチノコになって走った
神を捨てて走ったアミ族の男になって
走った
こっちを見てげらげら腹抱えて笑う
セメント採掘の
朝鮮人徴用工の群れの中を走った
半島人の夕餉の中を走った
「丸裸」は人間が生まれたままの姿だが、それは一種の「恥」である。「文明」の否定である。しかし、それでいいのだ。「ツチノコ」は人間ではない。「アミ族の男」は「文明」からは遠いかもしれない。しかし、それでいいのだ。「朝鮮人徴用工」が「げらげら腹抱えて笑う」。差別してきた人間に笑われる。屈辱だ。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。生きるのだ。生きるために、走る。二人は「総員」二人になって、二人だけだけれど「総員」になって、真剣に走る。「総員」という言い方に、絶対にふたりとも生きるんだという「欲望(本能)」がぎっしりつまっている。
走った先に、「いのち」がある。「いのち」を守るために、なにもかも捨ててしまって、ただ「走る」という動詞になる。「走る」ときに「ツチノコ」であってもかまわない。「朝鮮人徴用工」に笑われようとかまわない。その瞬間「人間」でなくてもかまわない。「人間」でなくなること、「ツチノコ」になることで、「いのち」そのものになる。そういうこともあるのだ。
落雷なんかで
人死させるわけにはいかない
赤肌のニンゲン二匹におびえて逃げまわる
野鼠の群れの中を走った
風が来た
雨が来た
青と赤の二体の鬼になって走った
鬼の兵長と魚の永福になって走った
「人死させるわけにはいかない」、死んではいけない。そのために「人間性」を捨てる。「人間性」を捨てて「いのち」そのものになる。「ニンゲン二匹」ということばがある。「二人」ではなく「二匹」。人間ではなく、けだもの(動物)になっている。なまなましい「やせい」の「いのち」になっている。そして、「走る」という動詞そのものになる。「動詞」は「人間」と「動物」に共通する。「いのち」の運動だ。
「いのち」そのものになること。ここには、それが「愉悦」であるとは直接書かれていない。しかし、私は感じる。ただひた走る力、そういう力があるという愉悦を生きている細田がいる。
走って、走って、走ったから、いま、ここにこの作品が「ことば」としてある。
で。
ちょっともどって。
この作品に、細田のキーワードを見た。「いいから!」である。この「いいから!」はなかなかむずかしい。「そんなことはどうでもいいから」の「どうでも」が省略されている。「いい」は肯定。「どうでもいい」は否定。これが、ごっちゃになっている。そして「否定」はことばにはならず「肯定」だけがことばになっている。
この感じ、韓国語、中国語で、どう言うのかなあ。韓国語、中国語では、どう訳されているかなあ。
その否定と肯定がごっちゃになっている、切り離せないものになってニンゲンを動かしているという「人間観」が、細田の思想(肉体)である。
(この「いいから!」というのは、どこかで慎達子「熱愛」の「最高だ」につながっていると思う。慎の「最高だ(ああ、極楽)」にも否定と肯定の強固な結合がある。)
天童を引き合いに出したので、天童のことも書いておきたい。天童のやっていることは「ことば」の回復というよりも、「声(肉体)」の回復である。言い換えると「ことば」の「意味」はどうでもいい。(と、書いてしまうと、まあ、天童は怒るかもしれないが、私にはそういう印象がある。天童の「声」を私は今回はじめて聞いたが、聞いているとき「意味」なんか追いかけていない。声が出てくるときの「肉体」の動きを自分の「肉体」で追っている。)「声」のなかにつながっている「いのちの歴史(肉体の歴史)」が大事である、という考え方だと思う。
文明(産業社会)が環境を破壊し、人間性を破壊する。それにどう立ち向かうか。まず「声」を出す、というところから天童は出発する。ひとは生まれた瞬間から「声」を出す。空気を吸って、空気を吐きだす。その蓄積が生きるということである。その呼吸に「音」を乗せて、自分の欲望を伝える。その力を取り戻すことが大切である。
「大声」は一種の暴力だが、そういう「暴力」を回復することも大切なのだ。
破壊の可能性、暴力の愉悦、愉悦の解放ということを抜きにして、環境と人間の調和ということに「結論」をもっていってしまっては、何かが欠落する。たぶん「現代」というものが欠落する。私たちがいま生きていて、その生きている瞬間に肉体が反応する「反発力」のようなものが欠落する。
「環境と詩」というのが今回のフォーラムのテーマだからしかたないのかもしれないが、詩ではなく「現代詩」という表現をつかえば、すこし違ったことばのぶつかりあいがあったかもしれない。
「反論」がないフォーラムというのは、すこし寂しい。そんなことを感じた。
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