藤井貞和『美しい小弓を持って』(22)(思潮社、2017年07月31日発行)
「散水(さんすい)象」では高橋和巳(藤井はタカハシ・カズーミと書いている)の『邪宗門』を読んでいる。「八終局」という「思想」に触れて、こう書いている。
簡単に言うと、『邪宗門』のなかにわからないことばがあった。「散水象」って、何なの? わからないから「象が鼻で水を撒いた」って想像するのだけれど。
私が注目したのは。
「わかるんです」「わかります」「しれません」のことばの変化。動詞の変化。
「わかる」とはどういうことか。「最後の飲酒」は最後に酒を飲むこと。「肉体」が参加している。酒を「飲む」。「肉体」が「動詞」になる。「最後の歌唱」は「歌う」。「最後の舞踏」は「おどる」。ここまでは「わかる」とは「肉体」で反芻できること。藤井は高橋の「肉体」と藤井の「肉体」を重ね、追体験できる。
「最後の誘惑」はちょっととまどう。誰かを「誘惑する」。「飲酒」が「誘惑」かもしれない。そういう場合は「誘惑される」。「能動」と「受動」が混在する。それまでが「能動」なので「誘惑する」と読めばいいのかもしれない。
「最後の旋風」は? 「旋風」は「肉体」では引き起こせない。「旋風」を見るということかなあ。「比喩」かもしれない。ここでは藤井の「肉体/動詞」で高橋の「肉体/動詞」を追認するということはむずかしい。「わかる」の性質が変わっている。「旋風」という「ことば」がわかる。「旋風」の意味するものがわかる。「頭」でわかる、に変わっている。
「散水象」は、ちょっとわきに置いておいて。
「石弾戦」は「石をぶつけ合って戦う」ということかなあ。これは「肉体」を動かすこともできる。「石を投げる(ぶつける)」。でも、実際に石を投げるという「肉体」を反芻するというよりも、「頭」で想像する部分の方が大きいだろうなあ。
ここには「肉体でわかる」ことと、「頭でわかる」ことが混在している。「肉体でわかる」ことは「わかる」と明確に書いている。
「散水象」は「わかる」とも「わからない」とも書いていない。かわりに「何だろうなあ」と書いている。この「何だろうなあ」を「動詞」にするとどうなるのだろうか。「考える」になると思う。「考える」は「肉体で考える」ということもあるにはあるが、一般的に「頭で考える」というだろうなあ。
で、「頭」で考えたあと「しれません」ということばが出てくる。「わかりません」ではなく「しれません」。漢字をまじえていいのかどうかわからないが「知れません」と書き直してみる。
「わかる」「知る」というふたつの動詞が出てきたことになる。そして「知る」には「考える」という動詞が関係している。
(「象が鼻で水を撒いたのかもしれません」ではなく、「象が鼻で水を撒いたのかもわかりません」という言い方ができないわけではないだろうけれど、「しれません」の方が私には落ち着くように感じられる。「想像する」「空想する」、その結果は「頭」のなかに動いている。「知」に属する、と私は無意識に考えているのだろう。)
「何だろうな」と「考える」。
この「考える」という「動詞」は、どういうことをしているのだろうか。
藤井の書いていることに則していうと、まず藤井は高橋の「考え(思想)」を取り戻そうとしている。高橋は死んでしまっていない。『邪宗門』は書かれてしまったあとである。その『邪宗門』のなかに書かれた「過去」を「いま」に呼び戻す。それが「考える」の最初にすること。
そして「考える」とは、実は何が「可能か」(できるか)を「考える」ということである。何かを「可能にする」。
前に逆戻りするが「最後の飲酒」は「飲酒を可能にする」ということであり、その「可能にする」を「肉体」で実践すると「酒を飲む」ということになる。だから、そこにも「頭」(思考)は動いているのだが、「肉体の動き」の方が「面倒くさくない」ので、私は「肉体で反芻する」と省略してしまう。私は安直へ流れる人間である。この「可能にする」は「欲望する」と言い換えると、もっと「肉体」に近づく。「飲むことを考え、それを可能にする」ではなく、簡単に「飲むことを欲望する」、つまり「飲みたい」という「欲望」のままに「肉体」を動かす。ほら、また「知」を遠ざけ、欲望に身を任せてしまうだらしない人間になってしまった。
ちょっと態勢を立て直して。
「考える」ことが「可能にする」ということなら。
「散水象」ということばから何が可能か。「象」は藤井の「肉体」ではないが、そこにある。その象に何をさせることができるか。「散水」。水を撒く。どうやって? 象なら鼻をつかってか。
なんだか、よくわからない。
藤井も「何だろうな」と考え始めたが、わからないまま、
と書き続けられる。括弧があるから、「最後の愛による……」からは「引用」なのかもしれない。それが最後までつづいている。途中を省略して、最後の二行。
ここに「知られぬまま」「知れ」と「知る」という動詞が出てくる。「わかる」ではなく「知る」。
藤井は「わかる」から出発して「知る」という動詞へ向かっている。その変化がこの詩の中に書かれていることになるのだが……。
「知る」という動詞について、この二行からどんなことを言えるだろうか。少し考えてみる。
「終るならば」「消されるならば」。「……ならば」というのは「仮定」であり、そこでは「可能性」が考えられている。「考える」というのは「可能性」を考えることと、ここでも言いなおすことができる。「終えることだろう」の「だろう」は、やはり「仮定」であり、それは「可能性」のひとつである。
「考える」ということは「可能性を知る」ということなのかもしれない。
と、書いた瞬間、私の思考は、突然、飛躍する。
「考える」と「可能性を知る」とのあいだには、何があるのか。「ことば」がある。「ことば」で「考える」のだと気づく。
詩にもどると、「飲酒」「歌唱」というのも「ことば」。「散水象」というのも「ことば」。「ことば」をどう動かせるか。それを「知る」には「過去」にことばがどう動いているか、それを「知る」必要がある。高橋は、ことばをどう動かしていたか。藤井は、それを探っているのである。
藤井は、シェークスピアではないが「ことば、ことば、ことば」の人である。
「ことば」に触れて、ことばの「可能性」を探る。どこまでも過去(文献)を耕し、過去にあったものを呼び戻し、育てる。「遠い過去」だけではなく、高橋というような、わりと「近い過去」をも懸命に耕す。
「わかる」ものだけを引っぱりだすのではなく、わからないもの、「何だろうな」としか言えないものをこそ、引っ張りだし、考える。ことばでつなぎ、動かそうとする。「知ろう」とする。そういう欲望で動いているように見える。
この詩に何が書いてあるのか。私にはわからない。けれど、藤井はいつでも「ことば」といっしょに動いていると言えると思う。
「散水(さんすい)象」では高橋和巳(藤井はタカハシ・カズーミと書いている)の『邪宗門』を読んでいる。「八終局」という「思想」に触れて、こう書いている。
最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の旋風と、
そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の散水象って、何だろうなあ。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません。
簡単に言うと、『邪宗門』のなかにわからないことばがあった。「散水象」って、何なの? わからないから「象が鼻で水を撒いた」って想像するのだけれど。
私が注目したのは。
「わかるんです」「わかります」「しれません」のことばの変化。動詞の変化。
「わかる」とはどういうことか。「最後の飲酒」は最後に酒を飲むこと。「肉体」が参加している。酒を「飲む」。「肉体」が「動詞」になる。「最後の歌唱」は「歌う」。「最後の舞踏」は「おどる」。ここまでは「わかる」とは「肉体」で反芻できること。藤井は高橋の「肉体」と藤井の「肉体」を重ね、追体験できる。
「最後の誘惑」はちょっととまどう。誰かを「誘惑する」。「飲酒」が「誘惑」かもしれない。そういう場合は「誘惑される」。「能動」と「受動」が混在する。それまでが「能動」なので「誘惑する」と読めばいいのかもしれない。
「最後の旋風」は? 「旋風」は「肉体」では引き起こせない。「旋風」を見るということかなあ。「比喩」かもしれない。ここでは藤井の「肉体/動詞」で高橋の「肉体/動詞」を追認するということはむずかしい。「わかる」の性質が変わっている。「旋風」という「ことば」がわかる。「旋風」の意味するものがわかる。「頭」でわかる、に変わっている。
「散水象」は、ちょっとわきに置いておいて。
「石弾戦」は「石をぶつけ合って戦う」ということかなあ。これは「肉体」を動かすこともできる。「石を投げる(ぶつける)」。でも、実際に石を投げるという「肉体」を反芻するというよりも、「頭」で想像する部分の方が大きいだろうなあ。
ここには「肉体でわかる」ことと、「頭でわかる」ことが混在している。「肉体でわかる」ことは「わかる」と明確に書いている。
「散水象」は「わかる」とも「わからない」とも書いていない。かわりに「何だろうなあ」と書いている。この「何だろうなあ」を「動詞」にするとどうなるのだろうか。「考える」になると思う。「考える」は「肉体で考える」ということもあるにはあるが、一般的に「頭で考える」というだろうなあ。
で、「頭」で考えたあと「しれません」ということばが出てくる。「わかりません」ではなく「しれません」。漢字をまじえていいのかどうかわからないが「知れません」と書き直してみる。
「わかる」「知る」というふたつの動詞が出てきたことになる。そして「知る」には「考える」という動詞が関係している。
(「象が鼻で水を撒いたのかもしれません」ではなく、「象が鼻で水を撒いたのかもわかりません」という言い方ができないわけではないだろうけれど、「しれません」の方が私には落ち着くように感じられる。「想像する」「空想する」、その結果は「頭」のなかに動いている。「知」に属する、と私は無意識に考えているのだろう。)
「何だろうな」と「考える」。
この「考える」という「動詞」は、どういうことをしているのだろうか。
藤井の書いていることに則していうと、まず藤井は高橋の「考え(思想)」を取り戻そうとしている。高橋は死んでしまっていない。『邪宗門』は書かれてしまったあとである。その『邪宗門』のなかに書かれた「過去」を「いま」に呼び戻す。それが「考える」の最初にすること。
そして「考える」とは、実は何が「可能か」(できるか)を「考える」ということである。何かを「可能にする」。
前に逆戻りするが「最後の飲酒」は「飲酒を可能にする」ということであり、その「可能にする」を「肉体」で実践すると「酒を飲む」ということになる。だから、そこにも「頭」(思考)は動いているのだが、「肉体の動き」の方が「面倒くさくない」ので、私は「肉体で反芻する」と省略してしまう。私は安直へ流れる人間である。この「可能にする」は「欲望する」と言い換えると、もっと「肉体」に近づく。「飲むことを考え、それを可能にする」ではなく、簡単に「飲むことを欲望する」、つまり「飲みたい」という「欲望」のままに「肉体」を動かす。ほら、また「知」を遠ざけ、欲望に身を任せてしまうだらしない人間になってしまった。
ちょっと態勢を立て直して。
「考える」ことが「可能にする」ということなら。
「散水象」ということばから何が可能か。「象」は藤井の「肉体」ではないが、そこにある。その象に何をさせることができるか。「散水」。水を撒く。どうやって? 象なら鼻をつかってか。
なんだか、よくわからない。
藤井も「何だろうな」と考え始めたが、わからないまま、
カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、
と書き続けられる。括弧があるから、「最後の愛による……」からは「引用」なのかもしれない。それが最後までつづいている。途中を省略して、最後の二行。
それが報道されずには、知られぬまま終るならば、ここから消されるならば、
天上は最後の散水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。
ここに「知られぬまま」「知れ」と「知る」という動詞が出てくる。「わかる」ではなく「知る」。
藤井は「わかる」から出発して「知る」という動詞へ向かっている。その変化がこの詩の中に書かれていることになるのだが……。
「知る」という動詞について、この二行からどんなことを言えるだろうか。少し考えてみる。
「終るならば」「消されるならば」。「……ならば」というのは「仮定」であり、そこでは「可能性」が考えられている。「考える」というのは「可能性」を考えることと、ここでも言いなおすことができる。「終えることだろう」の「だろう」は、やはり「仮定」であり、それは「可能性」のひとつである。
「考える」ということは「可能性を知る」ということなのかもしれない。
と、書いた瞬間、私の思考は、突然、飛躍する。
「考える」と「可能性を知る」とのあいだには、何があるのか。「ことば」がある。「ことば」で「考える」のだと気づく。
詩にもどると、「飲酒」「歌唱」というのも「ことば」。「散水象」というのも「ことば」。「ことば」をどう動かせるか。それを「知る」には「過去」にことばがどう動いているか、それを「知る」必要がある。高橋は、ことばをどう動かしていたか。藤井は、それを探っているのである。
藤井は、シェークスピアではないが「ことば、ことば、ことば」の人である。
「ことば」に触れて、ことばの「可能性」を探る。どこまでも過去(文献)を耕し、過去にあったものを呼び戻し、育てる。「遠い過去」だけではなく、高橋というような、わりと「近い過去」をも懸命に耕す。
「わかる」ものだけを引っぱりだすのではなく、わからないもの、「何だろうな」としか言えないものをこそ、引っ張りだし、考える。ことばでつなぎ、動かそうとする。「知ろう」とする。そういう欲望で動いているように見える。
この詩に何が書いてあるのか。私にはわからない。けれど、藤井はいつでも「ことば」といっしょに動いていると言えると思う。
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