詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)

2017-09-18 18:02:14 | 詩集
金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)(2017韓中日詩選集)

 金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)は、一か所、非常に気になるところがあった。

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
空に道を作りながら飛んでいた鳥は
再び道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 四行目が、私の感覚では落ち着かない。つまずいてしまう。「再び道を消す」とはどういうことだろうか。その前に書かれているのは「道を作る」である。「再び道を作る」ならわかるが、「消す」では「再び」にならない。「再び」である限りは、同じ動詞でないと不自然である。
 「再び」を別なことばで言いなおすと、何だろうか。「もう一回」「また」ともいう。そして、それは「繰り返す」である。「再び」を「動詞」を中心にして考え直すと、ある「動詞」を繰り返すのが「再び」である。
 この「再び」のあとに、動詞を隠しているのではないか。作者にはわかりきっているので、書かずに省略してしまったことばがあるのではないか。
 「再び」ということばに先行する「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」という一行には、「道を作る」という動詞があるが、これは「消す」ということば(なくしてしまう、破壊する)とは対立するから、省略されているのは「道を作る」ではない。
 この行には、見えにくいが、もうひとつ「飛ぶ」という動詞がある。「飛んでいた鳥」と連体形で書かれているが「飛ぶ」という動詞がある。「繰り返されているのは「飛ぶ」という動詞である。「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」は

鳥は飛びながら道を作る

 でもある。
 そうであるなら、「再び道を消す」は、

鳥は再び飛びながら道を消す

 ということになる。「再び」は「飛ぶ」という動詞とつながっている。作者にとって、鳥は飛ぶもの。「飛ぶ」という動詞と切り離しては存在しないものだから、ついつい「飛ぶ」を省略して「再び」だけで表現してしまったのだろう。
 では、

鳥は再び飛びながら道を消す

 は、どういう「意味」になるのか。
 鳥は「再び」どころか、何度でも繰り返し繰り返し飛ぶ。自分がつくった同じ道を飛ぶ。そして何度でも繰り返していると、道は空というよりも、鳥の「肉体」のなかに作られる。「肉体」で道をおぼえてしまう。
 人間でも同じ道を通い続けると、「肉体」が道をおぼえてしまい、無意識に曲がり角を曲がってしまう。そのために、その日は会社へいくのではないのに、知らないうちに会社に向かって歩いている、というようなこともある。これは「肉体」のなかに(足の中に)、無意識に「道が作られてしまっている」ためである。
 こうなると、道は、おぼえた(作った)というよりも、「予め知っている」のではないかと思えるくらいになる。鳥自身の「肉体」のなかに「道を作る(覚え込む)」ことで、鳥は空に作った道を消す、ということなのだろう。

鳥は再び飛びながら道を消す

 は、自分で「作った道」に頼らなくても、自分の「肉体の中にある道」を飛んで行ける。もう「道」は必要ではない。だから、「消す」ということなのだろう。

 あるいは、空を飛んでいるとき、そこには「空の道」があるのだが、鳥が飛び去るとその「空の道」は「消え去る」、そして「再び」、「道のない空」にもどる、ということかもしれない。
 鳥が飛び去ったあと、「無傷」の空が「再び」もどってくる。「無傷の空(道のない空)」というのは、この詩では明確に書かれていないが、鳥が「飛ぶ」のが作者にとってごく自然なことであるように、「空には道がない」ということが作者にはわかりきったことである。
 そして、この「空には道がない」というのは、私たち読者にとっても自然なことである。常識である。だからこそ、「空に道を作りながら飛んでいた鳥」という行、鳥が空に道を作るという認識の仕方に驚き、そこに詩を感じる。
 だから、その「わかりきったこと(空には道がない)」という状態に、空が「再び」もどる、という具合に、「再び」に別な動詞を結びつけて読み直すこともできると思う。
 このとき、
 「鳥が空高く道を作らないのは」という一行は、

鳥が空の道を消すのは

 と読み替えたい。
 鳥が空の道を消す。そうすると、空は「再び」、「無傷の」、つまり「道」のない空にもどる。鳥の作った道が消え去ったあと、夜になると星が出てきて、星が空に道を作る。その邪魔にならないように、鳥は道を消していく。
 このとき「道を作る」という動きは「鳥」と「星」によって共有され、繰り返される。「道を作る」という動きが「再び」おこなわれる。その繰り返しによって、「鳥も星も空に道を作る」ということが読者の「認識」(新しい事実)になる。
 詩のことばを少し動かしながら読むと、「鳥が空高く道を作らないのは」は「鳥が道を消すのは」ということになる。詩のことばは少しずつ入れ替わりながら、「意味」を明確にしていくものである。
 大事なことは、繰り返しひとは書く。少しずつ形を変えながら繰り返す。

 そう読むと、書き出しの「空に道があることを/鳥たちは予め知っている」は、また

空に道があることを
星たちは予め知っている

 にもなる。一度書かれたことばが、少し形をかえて「再び/繰り返される」ことで、鳥と星が同じものになり、それをつなぐ「人間(思想)」も明確になる。

 そんなことを思いながら、「原文」は読んでいないのだが、私なら

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 という具合に訳してみたいなあ、と思ったのだった。すこし余分なことばを書き加え、散文的に説明すれば、

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
(鳥は繰り返し飛ぶことで、空の道をおぼえてしまったから、それを消すのである)
鳥が空高く道を作らないのは
(鳥が空の道を消してしまうのは)
その上に星たちの行く道があるからだ
(夜には星たちが空に道を作るからだ)

 ということになる。
 あるいは、こんなふうにも「意訳」したい。

空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ

 「再び」のかわりに「飛ぶ」という動詞を前行から引き継いで「再び」の代用にする。「再び」と「飛ぶ」は強烈に結びついているから、どちらかひとつをつかえば意味が通じるし、「再び」では「消す(消し去る)」と直接的に結びつかないからである。「飛び去る」と「消し去る」なら、「去る」ということばの繰り返しの中に「再び」を感じさせることもできると思う
 この場合、「鳥が空高く道を作らないのは」は先に書いたように「鳥が空高く(の)道を消し去るのは」という「意味」になる。
 また「再び」は、

鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
そうすると「再び」道のない空がもどってくる

 というふうにも補うことができる。この場合、詩には書かれていない「空は無傷のものである」という「常識(無意識)」どこかで補う必要があるとも思う。

 詩を読むとは、書かれていることばを読むと同時に、書かれていないことば、隠されていることば、作者の「無意識」を掘り起こしながら読むことである。

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姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)

2017-09-18 15:32:00 | 詩集
姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 2017年09月14日から09月17日まで、ソウルとピンチャンで「韓中日詩人フェスティバル」が開かれた。それを記念して「2017韓中日詩選集」が発行された。そのなかに、とても魅力的な詩がある。
 姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)

私がそっと手に取ったこの石を
生み出したのは川の水だろう。
丸くて平たいこの石からある思いが読み取れる。
堅固な暗闇の中でばたつく
得体の知れない飛翔の力を私は感じる。
手の中で息づく卵
鳥籠からたった今取り出した血の付いた卵のように
この中で目覚める宝石のような光と張り詰めた力が
私の血管に乗って伝わってくる。
左腕を槍のように伸ばし対岸の丘に向けて
右手をしばし曲げてから
力いっぱい放れば
水面は軽く石を跳ねて、跳ねて、さらに跳ねる。
見よ、流れる水の上に稲妻が走るように
花が咲く、咲く、咲く
石に唇をつける川の水よ
冷たく短い口づけ
水晶となって咲く虚無の花房よ。
私の手から飛んでいった石の意思が
花咲かせるその美しい水の言葉が
私にはわからない。
何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。

 川原での水切り遊び。だれにでもしたことがあるだろう。水面に滑るように小石を投げ、何回水面でジャンプするか。それを競ったことはだれにでもある体験だと思う。この詩は、そのことを書いているのだが、とても美しい。ことばが次々に変化していくところが感動的だ。
 「丸く平たい小石」の「丸く」が「卵」にかわる。そこから「鳥」が孵化し、飛び立ち、対岸へ飛んで行く。そのときの水面上に飛び散るしぶきを「花」にたとえている。鳥から、花への比喩の飛躍に美しい夢がある。ここがいちばんすばらしい。

花が咲く、咲く、咲く

 この一行に、私は傍線を引き、それから行頭に☆マークをつけて、あれこれ考え始める。この詩の感想を書きたい。どう書けば私が感じたことがことばになるか。そう考えながら、詩を読み直す。どこに感動したのか、ゆっくり読み直す。
 花の比喩に、なぜ、こころが震えたのか。
 比喩の多い詩、、比喩の詩と言ってしまえばそれでおしまいになりそうな詩になぜ感動したのか。
 書き出しの一行。

私がそっと手に取ったこの石を

 ここに「手」という「肉体」が描かれ、「取る」という「動詞」が動いている。このことばを読んだときから、私の「肉体」は動き始めている。
 「石」を「手に取る」。その動きを、私は私自身の「肉体」で追体験できる。石を手に取った記憶が「肉体」のなかからよみがえってくる。書かれているのは「姜の肉体」だが、そこに「私の肉体」が重なるようにして動く。自分の「体験」として、それを追いかけることができる。
 「丸くて平たい」形の「丸く」から「卵」を「手に取った」記憶がよみがえる。「肉体」がおぼえている。「鳥籠」で姜はどんな鳥を飼ったことがあるのか知らないが、私は鳩を飼ったことがある。鳩は卵を産む。その卵を「手に取って」みたこともある。その重さは、そこに「いのち」があるという重さだ。雛がかえり、飛べるようになるとどんなにうれしいだろうと、わくわくする。
 この感覚を姜は、

私の血管に乗って伝わってくる。

 と書いている。「私の血管に乗って伝わってくる」のなら、「私の思い」も「私の血管に乗って伝わっていく」。「卵」に伝わっていくはずである。そして、ふたつの「血(いのちのみなもと)」はつながる。交じりあう。やがて生まれてくる鳥は、ただの鳥ではない。姜は鳥になって生まれ変わる。その鳥には姜の血が流れている。さまざまな思いが流れている。
 石を投げる(放る)は、鳥になって飛んで行くでもある。
 ただほんとうの鳥ではなく、その鳥は比喩で、実際は石が水の上を飛び跳ねていく。
 夢と、比喩と、現実が交錯する。そして、その夢にも、比喩にも、現実にも、姜の「肉体」が深く関係している。肉体の動き、手に取る、手で包む、手で感じる、手で放る。手というか、右の掌だけではなく、石に触れていない左の手も投げるという動作に参加している。書かれていないが、足や、腰もいっしょに動いている。肉体のぜんぶが動いて、石を「放る(投げる)」。そのとき、石はただ投げられる物体ではなく、姜の思いが石になって飛んで行く。姜の肉体そのものが飛んで行く感じになる。
 水切りのしぶきを「一回、二回、三回」と数えるとき、「思い」はそのしぶきの場所まで飛んでゆき、自分自身の肉体もその場所まで飛んで行ってしまっている。川原にいることを忘れてしまう。
 この感じを、

私の手から飛んでいった石の意思が

 と姜は書くが、飛んで行ったのは「石の意思」ではなく、「姜の意思」なのだ。「石」と「姜」は一体になっている。
 人間は「肉体」だけではなく「精神」でもできている。「意思」も含んでいる。その「意思」が跳びながら、花を咲かせる。
 だから、それは「川の水」が開いた花であると同時に、「石」に託された姜「意思」が開かせた花であり、また姜の「意思」が開いた花でもある。こういうものは「区別」はできない。
 「比喩」。何かを「比喩」で表現するというときには、そこには人間の「精神(意思)」が動いている。その動いていたものが、ここで「花」という形に生まれ変わる。
 石が卵に、卵が鳥に、そして鳥が花に。
 「比喩」の自然な変化、そこに参加していく「肉体」と「動詞」。それが一体になっている。
 二行目にもどる。

生み出したのは川の水だろう。

 ここに「生み出す」という「動詞」がある。
 この「生み出す」という「動詞」を引き継いで、姜は石から卵を、卵から鳥を「生み出した」。その姜に応えるように、川の水は、こんどは「花」を「生み出した」。それは、ある意味では、姜への「返礼」である。
 日本のことばいえば、ここでは「相聞歌」が交わされている。川の水と姜が「石」を媒介にして、互いの心(意思)を打ち明けあっている。そういう風に読むこともできる。「相聞歌」であるからこそ、そこには「唇をつける」(キスをする)という「動詞」も加わってくる。「相聞歌」は、もう、この瞬間からセックスそのものでもある。
 セックスはエクスターにつながる。エクスタシーの瞬間に発することばをひとはおぼえてはない。何といっているのか「分からない」。分からないけれど、それをひとは記憶している。「記憶(する)」ということばを姜はつかっている。
 「記憶」は「意識(頭脳)」の「記憶」を指すことが多いが、「肉体の記憶」というものもある。「肉体がおぼえている」。たとえば、「泳ぐ」「自転車を漕ぐ」。こういうことは長い間やっていなくても「肉体」が勝手に反応して、溺れない、倒れずに走るということができる。
 石を投げる「水切り遊び」もまた「肉体の記憶」になる。投げるときの腕の動かし方、腰のひねり方。石を選ぶときの、掌の感覚。これはまた「石に対する記憶」でもある。どんな石を選んだか、という「記憶」。すべては渾然一体となっている。「渾然一体」は、ことばにはできない。
 ことばにできないから「分からない」というが、分からなくても「おぼえている」ということがある。
 素手で何ももっていない。でも、その素手には(掌には)記憶がある。

何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。

 私が「おぼえている」ということばであらわそうとしたものを、姜は「留まる」という動詞であらわしているように思う。「記憶」が「留まる」ことを「記憶する、おぼえている」という。

 多くのことを私は語りすぎたかもしれないが、まだまだ語り足りない。
 この詩には、ことばの「呼応」というものがたくさんある。
 「生み出す」と「卵」、「ばたつく」と「飛翔」、「飛翔」と「放る(放つ)」、「飛翔の力」と「張り詰めた力」、「血の付いた卵」と「目覚める宝石(のようにな光)」、「目覚める」と「血管に乗って心臓に伝わる(心臓を刺戟し、鼓動を激しくする)」、「暗闇」と「光」、「思いが読み取れる」と「記憶する」、「左手」と「右手」、「伸ばす」と「曲げる」。類義語の呼応、反対語の呼応が交錯する。この交錯が「音楽」となって響いてくる。この「音楽」は「音」そのものの響きあい、和音ではなく、肉体と意識の交錯する「無音の音楽」である。肉体と意識を動かすことで感じ取ることのできる音楽である。
 その「無音の交響楽」の豪華さとスピードに、私は酔いしれてしまった。



 この詩は、09月16日、38度線近くの会場で朗読された。
 そこに行くまで、この詩の「対岸」ということばは、もっぱら「川の向こう」という「意味」であった。私の知っている「川岸」(私のふるさとにもある川岸)であった。だからこそ、私はこの詩に私自身の「肉体の記憶」を重ねてしまったのだが。
 そうか、姜にとっては「対岸」は北朝鮮のことだったのか。
 うすうすとは感じていたのだが、北朝鮮のすぐそばまで来て朗読を聞くと、それがはっきりと実感できるものに変わる。「花=意思」がくっきりとみえてくる。
 いつでも「対岸」を姜は意識している。「水切りの石」のように、「ことば」を「対岸」にまで届けたい。水切りの石が跳びはねながら、ふたつをわけるもの(境界線、川、水)の上に「花」を咲かせながらつながるといい。
 そういうことを夢見ているのだとも思った。
 ほかにもたくさんのすばらしい詩があるが、この一篇の詩に出会えたのは、ほんとうに幸運だった。うれしかった。

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