金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)(2017韓中日詩選集)
金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)は、一か所、非常に気になるところがあった。
四行目が、私の感覚では落ち着かない。つまずいてしまう。「再び道を消す」とはどういうことだろうか。その前に書かれているのは「道を作る」である。「再び道を作る」ならわかるが、「消す」では「再び」にならない。「再び」である限りは、同じ動詞でないと不自然である。
「再び」を別なことばで言いなおすと、何だろうか。「もう一回」「また」ともいう。そして、それは「繰り返す」である。「再び」を「動詞」を中心にして考え直すと、ある「動詞」を繰り返すのが「再び」である。
この「再び」のあとに、動詞を隠しているのではないか。作者にはわかりきっているので、書かずに省略してしまったことばがあるのではないか。
「再び」ということばに先行する「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」という一行には、「道を作る」という動詞があるが、これは「消す」ということば(なくしてしまう、破壊する)とは対立するから、省略されているのは「道を作る」ではない。
この行には、見えにくいが、もうひとつ「飛ぶ」という動詞がある。「飛んでいた鳥」と連体形で書かれているが「飛ぶ」という動詞がある。「繰り返されているのは「飛ぶ」という動詞である。「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」は
でもある。
そうであるなら、「再び道を消す」は、
ということになる。「再び」は「飛ぶ」という動詞とつながっている。作者にとって、鳥は飛ぶもの。「飛ぶ」という動詞と切り離しては存在しないものだから、ついつい「飛ぶ」を省略して「再び」だけで表現してしまったのだろう。
では、
は、どういう「意味」になるのか。
鳥は「再び」どころか、何度でも繰り返し繰り返し飛ぶ。自分がつくった同じ道を飛ぶ。そして何度でも繰り返していると、道は空というよりも、鳥の「肉体」のなかに作られる。「肉体」で道をおぼえてしまう。
人間でも同じ道を通い続けると、「肉体」が道をおぼえてしまい、無意識に曲がり角を曲がってしまう。そのために、その日は会社へいくのではないのに、知らないうちに会社に向かって歩いている、というようなこともある。これは「肉体」のなかに(足の中に)、無意識に「道が作られてしまっている」ためである。
こうなると、道は、おぼえた(作った)というよりも、「予め知っている」のではないかと思えるくらいになる。鳥自身の「肉体」のなかに「道を作る(覚え込む)」ことで、鳥は空に作った道を消す、ということなのだろう。
は、自分で「作った道」に頼らなくても、自分の「肉体の中にある道」を飛んで行ける。もう「道」は必要ではない。だから、「消す」ということなのだろう。
あるいは、空を飛んでいるとき、そこには「空の道」があるのだが、鳥が飛び去るとその「空の道」は「消え去る」、そして「再び」、「道のない空」にもどる、ということかもしれない。
鳥が飛び去ったあと、「無傷」の空が「再び」もどってくる。「無傷の空(道のない空)」というのは、この詩では明確に書かれていないが、鳥が「飛ぶ」のが作者にとってごく自然なことであるように、「空には道がない」ということが作者にはわかりきったことである。
そして、この「空には道がない」というのは、私たち読者にとっても自然なことである。常識である。だからこそ、「空に道を作りながら飛んでいた鳥」という行、鳥が空に道を作るという認識の仕方に驚き、そこに詩を感じる。
だから、その「わかりきったこと(空には道がない)」という状態に、空が「再び」もどる、という具合に、「再び」に別な動詞を結びつけて読み直すこともできると思う。
このとき、
「鳥が空高く道を作らないのは」という一行は、
と読み替えたい。
鳥が空の道を消す。そうすると、空は「再び」、「無傷の」、つまり「道」のない空にもどる。鳥の作った道が消え去ったあと、夜になると星が出てきて、星が空に道を作る。その邪魔にならないように、鳥は道を消していく。
このとき「道を作る」という動きは「鳥」と「星」によって共有され、繰り返される。「道を作る」という動きが「再び」おこなわれる。その繰り返しによって、「鳥も星も空に道を作る」ということが読者の「認識」(新しい事実)になる。
詩のことばを少し動かしながら読むと、「鳥が空高く道を作らないのは」は「鳥が道を消すのは」ということになる。詩のことばは少しずつ入れ替わりながら、「意味」を明確にしていくものである。
大事なことは、繰り返しひとは書く。少しずつ形を変えながら繰り返す。
そう読むと、書き出しの「空に道があることを/鳥たちは予め知っている」は、また
にもなる。一度書かれたことばが、少し形をかえて「再び/繰り返される」ことで、鳥と星が同じものになり、それをつなぐ「人間(思想)」も明確になる。
そんなことを思いながら、「原文」は読んでいないのだが、私なら
という具合に訳してみたいなあ、と思ったのだった。すこし余分なことばを書き加え、散文的に説明すれば、
ということになる。
あるいは、こんなふうにも「意訳」したい。
「再び」のかわりに「飛ぶ」という動詞を前行から引き継いで「再び」の代用にする。「再び」と「飛ぶ」は強烈に結びついているから、どちらかひとつをつかえば意味が通じるし、「再び」では「消す(消し去る)」と直接的に結びつかないからである。「飛び去る」と「消し去る」なら、「去る」ということばの繰り返しの中に「再び」を感じさせることもできると思う
この場合、「鳥が空高く道を作らないのは」は先に書いたように「鳥が空高く(の)道を消し去るのは」という「意味」になる。
また「再び」は、
というふうにも補うことができる。この場合、詩には書かれていない「空は無傷のものである」という「常識(無意識)」どこかで補う必要があるとも思う。
詩を読むとは、書かれていることばを読むと同時に、書かれていないことば、隠されていることば、作者の「無意識」を掘り起こしながら読むことである。
金鍾海(Kim Jonghae)「鳥は自分の道を知る」(吉村優里訳)は、一か所、非常に気になるところがあった。
空に道があることを
鳥たちは予め知っている
空に道を作りながら飛んでいた鳥は
再び道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ
四行目が、私の感覚では落ち着かない。つまずいてしまう。「再び道を消す」とはどういうことだろうか。その前に書かれているのは「道を作る」である。「再び道を作る」ならわかるが、「消す」では「再び」にならない。「再び」である限りは、同じ動詞でないと不自然である。
「再び」を別なことばで言いなおすと、何だろうか。「もう一回」「また」ともいう。そして、それは「繰り返す」である。「再び」を「動詞」を中心にして考え直すと、ある「動詞」を繰り返すのが「再び」である。
この「再び」のあとに、動詞を隠しているのではないか。作者にはわかりきっているので、書かずに省略してしまったことばがあるのではないか。
「再び」ということばに先行する「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」という一行には、「道を作る」という動詞があるが、これは「消す」ということば(なくしてしまう、破壊する)とは対立するから、省略されているのは「道を作る」ではない。
この行には、見えにくいが、もうひとつ「飛ぶ」という動詞がある。「飛んでいた鳥」と連体形で書かれているが「飛ぶ」という動詞がある。「繰り返されているのは「飛ぶ」という動詞である。「空に道を作りながら飛んでいた鳥は」は
鳥は飛びながら道を作る
でもある。
そうであるなら、「再び道を消す」は、
鳥は再び飛びながら道を消す
ということになる。「再び」は「飛ぶ」という動詞とつながっている。作者にとって、鳥は飛ぶもの。「飛ぶ」という動詞と切り離しては存在しないものだから、ついつい「飛ぶ」を省略して「再び」だけで表現してしまったのだろう。
では、
鳥は再び飛びながら道を消す
は、どういう「意味」になるのか。
鳥は「再び」どころか、何度でも繰り返し繰り返し飛ぶ。自分がつくった同じ道を飛ぶ。そして何度でも繰り返していると、道は空というよりも、鳥の「肉体」のなかに作られる。「肉体」で道をおぼえてしまう。
人間でも同じ道を通い続けると、「肉体」が道をおぼえてしまい、無意識に曲がり角を曲がってしまう。そのために、その日は会社へいくのではないのに、知らないうちに会社に向かって歩いている、というようなこともある。これは「肉体」のなかに(足の中に)、無意識に「道が作られてしまっている」ためである。
こうなると、道は、おぼえた(作った)というよりも、「予め知っている」のではないかと思えるくらいになる。鳥自身の「肉体」のなかに「道を作る(覚え込む)」ことで、鳥は空に作った道を消す、ということなのだろう。
鳥は再び飛びながら道を消す
は、自分で「作った道」に頼らなくても、自分の「肉体の中にある道」を飛んで行ける。もう「道」は必要ではない。だから、「消す」ということなのだろう。
あるいは、空を飛んでいるとき、そこには「空の道」があるのだが、鳥が飛び去るとその「空の道」は「消え去る」、そして「再び」、「道のない空」にもどる、ということかもしれない。
鳥が飛び去ったあと、「無傷」の空が「再び」もどってくる。「無傷の空(道のない空)」というのは、この詩では明確に書かれていないが、鳥が「飛ぶ」のが作者にとってごく自然なことであるように、「空には道がない」ということが作者にはわかりきったことである。
そして、この「空には道がない」というのは、私たち読者にとっても自然なことである。常識である。だからこそ、「空に道を作りながら飛んでいた鳥」という行、鳥が空に道を作るという認識の仕方に驚き、そこに詩を感じる。
だから、その「わかりきったこと(空には道がない)」という状態に、空が「再び」もどる、という具合に、「再び」に別な動詞を結びつけて読み直すこともできると思う。
このとき、
「鳥が空高く道を作らないのは」という一行は、
鳥が空の道を消すのは
と読み替えたい。
鳥が空の道を消す。そうすると、空は「再び」、「無傷の」、つまり「道」のない空にもどる。鳥の作った道が消え去ったあと、夜になると星が出てきて、星が空に道を作る。その邪魔にならないように、鳥は道を消していく。
このとき「道を作る」という動きは「鳥」と「星」によって共有され、繰り返される。「道を作る」という動きが「再び」おこなわれる。その繰り返しによって、「鳥も星も空に道を作る」ということが読者の「認識」(新しい事実)になる。
詩のことばを少し動かしながら読むと、「鳥が空高く道を作らないのは」は「鳥が道を消すのは」ということになる。詩のことばは少しずつ入れ替わりながら、「意味」を明確にしていくものである。
大事なことは、繰り返しひとは書く。少しずつ形を変えながら繰り返す。
そう読むと、書き出しの「空に道があることを/鳥たちは予め知っている」は、また
空に道があることを
星たちは予め知っている
にもなる。一度書かれたことばが、少し形をかえて「再び/繰り返される」ことで、鳥と星が同じものになり、それをつなぐ「人間(思想)」も明確になる。
そんなことを思いながら、「原文」は読んでいないのだが、私なら
空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ
という具合に訳してみたいなあ、と思ったのだった。すこし余分なことばを書き加え、散文的に説明すれば、
空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は再び飛ぶことで空の道を消す
(鳥は繰り返し飛ぶことで、空の道をおぼえてしまったから、それを消すのである)
鳥が空高く道を作らないのは
(鳥が空の道を消してしまうのは)
その上に星たちの行く道があるからだ
(夜には星たちが空に道を作るからだ)
ということになる。
あるいは、こんなふうにも「意訳」したい。
空に道があることを
鳥たちは予め知っている
鳥は飛びながら空に道を作り
鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
鳥が空高く道を作らないのは
その上に星たちの行く道があるからだ
「再び」のかわりに「飛ぶ」という動詞を前行から引き継いで「再び」の代用にする。「再び」と「飛ぶ」は強烈に結びついているから、どちらかひとつをつかえば意味が通じるし、「再び」では「消す(消し去る)」と直接的に結びつかないからである。「飛び去る」と「消し去る」なら、「去る」ということばの繰り返しの中に「再び」を感じさせることもできると思う
この場合、「鳥が空高く道を作らないのは」は先に書いたように「鳥が空高く(の)道を消し去るのは」という「意味」になる。
また「再び」は、
鳥は飛び去ることで空の道を消し去る
そうすると「再び」道のない空がもどってくる
というふうにも補うことができる。この場合、詩には書かれていない「空は無傷のものである」という「常識(無意識)」どこかで補う必要があるとも思う。
詩を読むとは、書かれていることばを読むと同時に、書かれていないことば、隠されていることば、作者の「無意識」を掘り起こしながら読むことである。
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