詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』

2017-09-09 07:19:25 | 詩集
横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』(モノクローム・プロジェクト、2017年07月13日発行、らんか社発売)

 横山黒鍵『そして彼女はいった--風が邪魔した』の「Fairy-Tail -おとぎ話と妖精の粉-』に、こういう行がある。

素肌のままシーツに身体を横たえて、蓄積された自分の匂いを嗅ぐ。

 私は、こういう一行がとても好きだ。「蓄積された」に説得力がある。自分の匂いに気づくひとは少ない。いつも嗅いでいるので気がつかない。匂いの記憶が肉体に蓄積されているためである。
 これを逆手にとって(?)、自分の肉体以外のもの(シーツ)に「蓄積された」ととらえるとき、まるで自分の肉体がシーツになったような、シーツと自分の肉体が見分けがつかなくなったような錯覚に陥る。
 どう書いていいのかわからないが、「肉体」が更新された、という感じになる。
 この行は、

常に剥がれ続けるかつての自分であったものたちが雪に凍る。

 と引き継がれる。「匂い」は「剥がれ続ける」ということばで言いなおされる。
 「匂い」というのは私にとっては「肉体」の内部からあふれてくるものだが、横山は「剥がれる」という動詞でとらえなおす。「内部」というよりも「外部」が「剥がれる」。「内部が剥がれる」という言い方がないわけではないが、「内部」が「剥がれる」では、「シーツ」と接触点がなく、「シーツ」に匂いが「蓄積する」ということもないだろう。
 もっとも、新しいシーツに身を横たえたとき、その新鮮な感触のために、「肉体の内部に蓄積されたもの、内部に剥がれ続けたもの、剥がれ続け蓄積したもの」が匂う、ということはあるかもしれないが。
 いずれにしろ、ここまでは、ことばの運動として納得ができる。つまり、私の肉体は横山のことばを「肉体」で追いかけることができる。ことばを読むとき、私の「肉体」は動く。そして横山の「ことばの肉体」と交わる。私はこれを「ことばのセックス」と呼んでいるのだが……。
 このあと、しかし、私はついていけなくなる。

その様子はとても幻想的でありまた幻想であり、だから敢えて暗闇に火を灯そうとする。手探り。古びた燐寸。甘い香りの中にも妖精は住んでいる。この妖精は妖精であるがゆえに出会うことはない。

 「幻想的」「幻想」は「事実」ではない、ということ。「錯覚」と言いなおせば「意識に起きた事実」ということになる。そこには「肉体」がまだ存在する。「火を灯す」には「灯す」という「動詞」がある。「手探り」には「探る」という「動詞」がある。
 しかし、「妖精」はどうだろうか。「住んでいる」という「動詞」が「肉体」を刺戟するが、どうも私には納得できない。「妖精」というものを見たことがないから、「住んでいる」と「動詞」を押しつけられても納得できない。
 「出会うことはない」と「肉体」と完全に分離されても、ねえ。
 その「出会うことはない」の直前の「……であるがゆえに」という「論理」のことばが、また、とてもうさんくさい。
 ここに「論理」というものの「でたらめさ」が隠れている。「論理」というのは、自分の頭脳の都合のいいように「事実」をねじ曲げる力のことである。「妖精」は現実には存在しない。それを「……であるがゆえに」という論理を持ち込むことで「頭」のなかに引き込み、「出会うことはない」という「事実」で「現実」にしてしまう。(出会わないから、存在していなくても存在していると言い張ることができる。不在の証明ができないことをいいことに、存在を主張できる。)「現実」として動いているのは「……であるがゆえに」という「論理」だけであり、「肉体」は無関係になる。
 これが横山のことばの運動の特徴と言えば言えるのかもしれないが、私はこういう運動を好まない。

隙間なく敷き詰められたコンクリート。踏みしめれば硬い反発が身体を浮かせる。

 こういう「肉体」でもう一度確かめなおしたい美しい行もあるのだが、「肉体」が最後まで「肉体」として動いていかない。「肉体」が途切れる。

 まあ、「途切れる」をキーワードにして、横山のことばをとらえなおせば、また違ったことを語ることができるとは思うけれど。
 たとえば「蓄積された自分の匂いを嗅ぐ」の「蓄積された(蓄積する)」という「動詞」も、それは「肉体」自身の動きではなく、対象を「頭」で整えなおすときに明確になる「動詞」であると言いなおすことができる。横山は最初から「肉体」と「頭」の衝突を描いている。「肉体」と「頭」の衝突によって始まる新しいことばの運動がここにある、ということもできる。
 というようなことを書きながら、「論理」は、いつでもいいかげんなものであるなあ、と私再びは思ったりする。
 で。
 思ったりはするのだけれど、ついでに「補足」したくもなる。「肉体」と「頭」の衝突というか、そういうものから始まる新しい運動というとき、私が何を指しているのか、具体的に書いておきたいとも思う。
 「序詩」の最初の部分。

あらたなゆきが
ふきんこうな はかりのうえを まう
ひらかれたもじのように
そらをそらんじて
ふいにあしをいれて
みじろぎもせずに

 二行目「ふきんこうな はかり」はとても魅力的である。「はかり」は「均衡」を中心にして動いている。この動きに「肉体」を重ねることができる。私たちは両手に別々のものを乗せ、バランスをとるようにして右の方が重い、いや左が重いと判断することができる。自分の「肉体」を「はかり」にしているわけである。「均衡」は「肉体」のなかに存在する。「均衡」自体が「肉体」である。
 でも、そこに「不均衡」という「頭(判断)」をいきなりぶつけてくる。そうすると、私の「肉体」のなかにある「はかり(均衡感覚)」は、どきりとする。驚く。この衝撃から、たしかに詩は始まると思う。
 こういうところを横山のことばが狙っているということがわかる。
 でも、これが

はらはらと まう
げんしのはならびらを
ふきあげる

 「げんし」は「原子」か「原始」か。どちらともあてはめることができるのは「げんし」が他のことばと綿密に結ばれていない(関係を持っていない)、つまりことばとことばがまじわって、その結果として生まれてきたことばではないからである。
 こういう「肉体」だけではとらえられないもの、「頭」がかってに引き寄せてしまうことば(論理がかってに捏造する世界)へと変化していくと、私はおもしろいとは感じなくなる。
 私がおもしろいと感じるのは、いつでも「肉体」が動いている部分である。
 好きな行もたくさんあるが、いやだなあと感じる行もたくさんある。そういう詩集である。



そして彼女はいった―風が邪魔した。 (ブックレット詩集2)
クリエーター情報なし
らんか社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする