岡田哲也『花もやい』を、あれについて書こうか、これについて書こうか考えながら読み進んで、「おるすばん」まできて、私の気持ちががらりとかわった。
「ひらがな」がなつかしくて、あたたかい。あ、この詩について何か書きたいと思った。説明も何もいらない詩だと「わかる」。けれど、この「わかる」を別のことばで言えたらどんなにうれしい気持ちになれるだろう。
また読み進むと「いろりばた」という作品がある。これも「ひらがな」で書かれている。この詩も、なつかしくて、あたたかい。
少し説明っぽい。一行目の「うらわかい」という修飾語にはつまずくが、「わらいころげ」から始まる描写が、あ、こういう情景をおぼえている、となつかしくなる。
二連目の「さんぼんのまきが いっぽんになってもえている」はとても美しい。言われてみて、はじめて思い出すことができる光景だ。明るい炎のなかで三本が一本になって燃える、その統一感。「一本になる」という動詞で語られている。
でも、「統一感」ということばは、少し固苦しい。「一本になる」というのも、すこし「理」が強すぎるかなあ。
もっと違うことばがあるはずだ。岡田の「キーワード」がどこかにあるはずだ。
「雨糸」という作品。
書き出しは「理」が強いかなあ。
でも三連目はいいなあ。「理」が動いてはいるのだが、岡田が「イルカ」になっている感じがする。二連目の言い直しというか、二連目を「深めた」のが三連目なのだが、うーん、水族館へイルカを見に行きたい、イルカが何を感じているのか自分でも確かめたいという欲望に襲われる。
で、この「イルカ」と「わたし(岡田)」の「一体感」はどこからきているのか。
二連目には「わからなくなる」ということばがある。イルカと岡田の区別がわからなくなる。これが「一体感」。
「いろりばた」では「わたし」と「おんな」と「おんなのこ」が、やはり「一体感」として描かれていた。「さんぼんのまきが いっぽんになって」と象徴的に書かれていた。その言い方を借りると、「イルカとわたしが一匹になって」になるのか。いや、おかしいね。「岡田がイルカになって」がいちばん近いのだけれど、それは「別々のもの」が「ひとつになる」という感じとは違うなあ。
どう言いなおせばいいのだろう。
そう思って読み直すと、一連目、四連目に「つないで」ということばがあるのに気づく。微妙に、その周囲のことばが違う。
「天と地」が「地と天」と言いなおされ、「糸」が「人」と言いなおされている。一連目は完全に「比喩」だが、四連目は「比喩」を超える。「人がつないで」の「人」は岡田と置き換えることができる。人が何かと何かをつなぐ。両手でふたつのものをつかめば、人はふたつのものを「つなぐ」ことができる。「ひとつ」にすることができる。
「さんぼんのまきが いっぽんになって」ではなく、「さんぼんのまきを いっぽんにして」ということを、人間はすることができる。人の行為、自分の「動詞」として「肉体」を動かすことができる。
岡田のキーワードは、この「つなぐ」だな、と私は思った。
かけはなれたものを、つなぐ。イルカと自分をつなぐ。「気持ち」をつなぐ。「気持ち」をつないで、「気持ち」がイルカになると、「肉体」もイルカになる。それは、自分自身をイルカに「する」ということでもある。
で。
最初の「おるすばん」にもどる。
「ただいま」という「声」は、たとえばお母さんと子供を「つなぐ」。家の中にお母さんがいなくても、「(お母さん)ただいま」と言えば、「気持ち」がつながる。母はどこかで、その子供の声を聞く。いま、家に帰って「ただいま」と言った。その声が聞こえる。
ことばが、声が、その時間を呼び寄せ、それを「事実」にする。
げんかんの とを あけたら
ただいま
と いってごらん
でんきは きえているけど
おかえり
と へんじがするよ
おかしいな だれかいるのかな
どきり
と したら
もいちど いってごらん
ただいま
すると くらやみが ゆらめいて
おつかれさま
と こたえるよ
おるすばん が いるんだよ
だから
さむいとき や
くらいときほど
おおきなこえ だすんだよ
「ひらがな」がなつかしくて、あたたかい。あ、この詩について何か書きたいと思った。説明も何もいらない詩だと「わかる」。けれど、この「わかる」を別のことばで言えたらどんなにうれしい気持ちになれるだろう。
また読み進むと「いろりばた」という作品がある。これも「ひらがな」で書かれている。この詩も、なつかしくて、あたたかい。
いろりばたで わたしと ひとりのおんなと うらわかい
おんなのこが ひをかこんでいる ときおり おんなのこ
は わらいころげ それをおんなはたしなめたり たしな
めるくせに みずからもわらったり わたしも それをな
がめては かおを ほころばせている
まるで さんぼんのまきが いっぽんになってもえている
あるいは おたがいの なつかしい ぜんせのひととであ
ってる そんなかんじで こおったきゃべつのような わ
たしのむねのあたりも みょうにあたたかい
少し説明っぽい。一行目の「うらわかい」という修飾語にはつまずくが、「わらいころげ」から始まる描写が、あ、こういう情景をおぼえている、となつかしくなる。
二連目の「さんぼんのまきが いっぽんになってもえている」はとても美しい。言われてみて、はじめて思い出すことができる光景だ。明るい炎のなかで三本が一本になって燃える、その統一感。「一本になる」という動詞で語られている。
でも、「統一感」ということばは、少し固苦しい。「一本になる」というのも、すこし「理」が強すぎるかなあ。
もっと違うことばがあるはずだ。岡田の「キーワード」がどこかにあるはずだ。
「雨糸」という作品。
天と地を
糸でつないで 雨が降る
窓ガラスごし 雨を見てると
この世が水槽か
わたしが魚か わからなくなる
水族館のイルカが 膚で感じるのは
人の視線だろうか
塩の薄さだろうか それとも
消毒くさい海の匂いだろうか
地と天を
人がつないで 雨が降る
書き出しは「理」が強いかなあ。
でも三連目はいいなあ。「理」が動いてはいるのだが、岡田が「イルカ」になっている感じがする。二連目の言い直しというか、二連目を「深めた」のが三連目なのだが、うーん、水族館へイルカを見に行きたい、イルカが何を感じているのか自分でも確かめたいという欲望に襲われる。
で、この「イルカ」と「わたし(岡田)」の「一体感」はどこからきているのか。
二連目には「わからなくなる」ということばがある。イルカと岡田の区別がわからなくなる。これが「一体感」。
「いろりばた」では「わたし」と「おんな」と「おんなのこ」が、やはり「一体感」として描かれていた。「さんぼんのまきが いっぽんになって」と象徴的に書かれていた。その言い方を借りると、「イルカとわたしが一匹になって」になるのか。いや、おかしいね。「岡田がイルカになって」がいちばん近いのだけれど、それは「別々のもの」が「ひとつになる」という感じとは違うなあ。
どう言いなおせばいいのだろう。
そう思って読み直すと、一連目、四連目に「つないで」ということばがあるのに気づく。微妙に、その周囲のことばが違う。
天と地を
糸でつないで 雨が降る
地と天を
人がつないで 雨が降る
「天と地」が「地と天」と言いなおされ、「糸」が「人」と言いなおされている。一連目は完全に「比喩」だが、四連目は「比喩」を超える。「人がつないで」の「人」は岡田と置き換えることができる。人が何かと何かをつなぐ。両手でふたつのものをつかめば、人はふたつのものを「つなぐ」ことができる。「ひとつ」にすることができる。
「さんぼんのまきが いっぽんになって」ではなく、「さんぼんのまきを いっぽんにして」ということを、人間はすることができる。人の行為、自分の「動詞」として「肉体」を動かすことができる。
岡田のキーワードは、この「つなぐ」だな、と私は思った。
かけはなれたものを、つなぐ。イルカと自分をつなぐ。「気持ち」をつなぐ。「気持ち」をつないで、「気持ち」がイルカになると、「肉体」もイルカになる。それは、自分自身をイルカに「する」ということでもある。
で。
最初の「おるすばん」にもどる。
「ただいま」という「声」は、たとえばお母さんと子供を「つなぐ」。家の中にお母さんがいなくても、「(お母さん)ただいま」と言えば、「気持ち」がつながる。母はどこかで、その子供の声を聞く。いま、家に帰って「ただいま」と言った。その声が聞こえる。
ことばが、声が、その時間を呼び寄せ、それを「事実」にする。
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