慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)(2017韓中日詩選集)
慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)には、非常にひかれる。ただ、やはり何かしっくりこない部分もある。
最終行の「最高だ」。これが、しっくりこない。「意味」は「最高だ」で間違いないのだろうけれど、この詩を書いた人が日本人だったとしたら「最高だ」と言うかどうか。私は違ったことばだろうと思う。ほかのことばの、矛盾したような、ねじまがったような文体、その一方で「ぽたぽた」「ごろごろ」「ぎゅっ」「ぷちっ」というような口語の直接的な響きと、どうも「あわない」。四行目の「よかった」と同様、もっと口語的なことばなのではないか、と思った。あるいは、もっと「文語」的なことばか。「最高」では「だ」をつけたくらいでは「口語」にはならない。「平凡」な感じがして、詩のもっている強い響きが死んでしまう。
最初、「至高」ということばが思い浮かんだ。ふつうは口にしないことば。「文語」的なことばである。「至上の愛」ということばも思い浮かんだ。これも「文語」的だ。「極上」はどうだろうか。「文語」的ともいえるが、少し族物っぽい。そういう意味では「口語」的かもしれない。でも「極上」は、なんとなく嘘っぽいなあ。安物の宣伝みたいだなあ。
「至上の愛」から「愛の愉悦」ということも考えた。この詩には「傷つく愛」が描かれている。それを「最上」のものととらえている。血を流す愛をほめたたえている。「極上の愛の愉悦」。そう思ったとき「極上」の「極」から「極楽」ということばがひらめいた。愛の愉悦の果に、昇天する。エクスタシーで我を失う。「天国」へのぼる。その、喜び。
私は「極楽」ということばをつかわないが、昔は、よく聞いた。老いた人が、何かに満足して「ああ、極楽、極楽」と言う。ごく一般的な「口語」だった。あの「ああ、極楽、極楽」という感じが、最終行の「最高だ」の意味ではないだろうか。
「よかった、よかった」は老いたひとも言う。口語だから。でも「最高だ」は、私のいなかの年寄りは言わないなあ。気取っている。「よかった、よかった」「まるで極楽だなあ」「ああ、極楽だ、極楽だ」という感じ。もちろん、そこは「極楽」ではなく「現実世界」。でも、何か、逸脱している。「最高だ」では、その「逸脱感」がでない。
で。
この「逸脱感」から、詩を読んでいくと、ことばが非常に濃密であることがわかる。先に私は「矛盾したような、ねじまがったような文体」と書いたのだが、その「矛盾」「ねじまがった」という感じが「逸脱」を刺戟する。
書き出しの
が矛盾(?)し、ねじまがっている。「我慢した」が、まずおかしい。おかしいけれど、とてもよくわかる。いきなり鮮血が飛び散るのではなく、じわりと出てくる。「出血」そのものは「我慢」しているわけではない。むしろ「我慢できずに」出てきてしまうのが血である。「我慢する」は血が流れる(血が出る)ことを直接描写しているのではなく、血の出てくる感じを描写している。この詩は最初から「気持ち(感じ)」に焦点をあてて、ことばを動かしている。「長く我慢した」の「長く」が「感じ(気持ち)」を強調している。「時間」が長いのではなく、「感じること」が「長い」のだ。
「赤い血」(これは動脈?)から血が「青い静脈」のなかへ落ちる。うーん、これでは「出血」ではないのだが。でも、自分の「静脈」ではなく「世界の静脈」へ落ちる。自分の血が他人の血のなかへ落ちる。そして、交じりあう。激しいことばで言うと、血がセックスする。血が愛し合う。「同じ肉体」ではなく、「違う肉体」と交わる。
ここから「愉悦」が生まれる。「よかった」「ああ、気持ちがいい」になる。そして、ここからは「私」と「相手」が渾然一体となってくる。セックスの快楽というのは、自分が感じているのか相手が感じているのかわからない部分がある。相手が感じないと、なんだか自分自身でしらけてしまう。今の快感は相手の快感なのか、自分の快感なのか、「ああ、、いい」といいながらわからなくなるのが最上のセックスだろう。それが描かれている。その「感じ」が描かれている。
傷を「癒す(治療する)」のが一般的だが、このひとは「傷と遊ぶ」と書いている。どこか性格がねじまがっているような、奇妙な、しかし、なんとなく「わかる」喜びである。マゾ・サド感覚というとおおげさだが、人間には、こういう「死へ近づく」感覚に溺れたい欲望のようなものがある。やはり「区別」がなくなる。わけのわからないのが「愉悦」というものなのだ。
こういうことは、小さい子供の頃、やった記憶がある。だれでも経験していると思う。不思議な「愉悦」がある。「極楽」という感覚ではないが。もしかしたら「地獄」の喜びかもしれないが。
傷と「遊び」、
と「怒る」ということばが出てくるのも、「逸脱」へと感覚を動かしていく。「遊び」はたいてい「仲良く遊ぶ」ものである。でも「遊びながら」、相手を「怒らせる」。これは、何といえばいいのか、相手の中で「怒り」が動き出す瞬間を見る喜びだなあ。おおっ、「怒る」感情があるのだ、と新しい発見をする喜び。
いつも「仲良し」だけでは、つまらない。いつも「健康」だけではつまらない。ずーっと「健康」だけではつまらない。傷つきたい、傷ついてみたいという感覚が誰にでもあるのかもしれない。他人の包帯姿になんとなくあこがれる「子供の欲望」みたいなものかなあ。
この一行も強いなあ。私はぞくぞくしてしまう。読みながら、その一行に傍線を引くだけでは満足できず、私はその一行を四角く囲んでいる。さらに☆マークをつけている。とても気に入ったのだ。
傷つく愛にまみれている。こころの傷が「肉体」になって、あちこちにある。そうやって生きてきたのだ。それは「肉体の表面の傷(肌に残る傷跡)」というよりも、「肉体」の奥でうごめく「記憶」である。忘れられない「快感」の思い出である。それが「多い」と詩人は言うのだ。
傷つかない愛がいいのかもしれないけれど、傷つく愛、傷つけあう愛も、人間の「本性」に踏み込んでいくようで、おもしろい。傷つき、痛みでわめき散らす。これは、傷つくことができる人間にだけ許された、不思議な人間の「可能性」なのだ。
この詩は、「あんた、愛の深さをどれだけ知っているか」と問いかけてもいる。
相手に噛みついて傷つけ、噛みつかれて傷つけられる。それでも生きている。傷が生きている実感を、いっそう強くする。
この不思議な傷つけあい、苦悩し、同時にそこに「至福」(最高の幸せ)をみつける。それが「熱愛」である。
これはやっぱり、いくつもの愛を生きてきた人間だけがたどりつく世界だなあ。「極楽」だなあ。
私は韓国の詩人について何も知らずに、ただ、ことばをひたすら追いかけて読んだのだが、09月15日の「詩の流れるアリランコンサート」で慎達子本人が詩を朗読した。老人であった。私は瞬間的に、マリグリット・デュラスを思い出した。実際、この「極楽」感覚、「愉悦」感覚はデュラスではないか。
だから、私は、それから「最高だ」の一行を、自分で「ああ、極楽」と書き換えて読んでいる。
*
その後、時間があるときに、ボランティアの通訳の人(韓国人)に質問してみた。「最高だ」と訳されていることばを、ふつうのひとはどういうときに使うのか。どんなときに、そのことばを聞くか。するとひとりが、「日本の若者のつかう『やばい』という感じでつかう」と言った。
あ、それなら、年寄りならばやっぱり「極楽」だろう。
「やばい」は本来否定的につかわれてきた。それは困る、という感じに。いまは逆に「全体的肯定」のようにつかわれている。自分のそれまでの感覚を前面否定して、まったく新しい肯定的世界が広がるときに「やばい」と言う。
若者の絶対肯定が「やばい」なら、老人の「絶対肯定」が「極楽」である。「極楽」は死後の世界。「現実」ではない。その現実では「ない」という否定、生きているいままでの自分を否定し、超越した世界。「否定」があるから「肯定」がいっそう強くなる。否定と肯定が衝突し、いままでとは違った何か、「逸脱」した世界に突入してしまう。
「逸脱の愛」の境地を描いているのだと思う。「逸脱の愛」が「熱愛」なのだ。
慎達子(Shin Dalja)「熱愛」(吉村優里訳)には、非常にひかれる。ただ、やはり何かしっくりこない部分もある。
手を切ってしまった
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた
よかった
何日かはこの傷と遊ぼう
使い捨ての絆創膏を貼ってはまた剥がして傷を舌で撫で
かさぶたを取ってはまた悪化させ
つまみ食いするように少しずつ傷を怒らせよう
そう、そうやって愛すれば十日は軽く過ぎるだろう
血を流す愛も何日かは順調に持ちそうだ
私の体にはそういう傷跡が多い
傷と遊ぶことで老いてしまい
慢性シウマチの指の痛みもひどく
今夜はその痛みとごろごろ転がりまわろう
恋人役をしよう
唇にぎゅっと噛みつき
私の愛の唇がぷちっと腫れて破れて
誰が見ても私、熱愛に落ちたと言うだろう
最高だ
最終行の「最高だ」。これが、しっくりこない。「意味」は「最高だ」で間違いないのだろうけれど、この詩を書いた人が日本人だったとしたら「最高だ」と言うかどうか。私は違ったことばだろうと思う。ほかのことばの、矛盾したような、ねじまがったような文体、その一方で「ぽたぽた」「ごろごろ」「ぎゅっ」「ぷちっ」というような口語の直接的な響きと、どうも「あわない」。四行目の「よかった」と同様、もっと口語的なことばなのではないか、と思った。あるいは、もっと「文語」的なことばか。「最高」では「だ」をつけたくらいでは「口語」にはならない。「平凡」な感じがして、詩のもっている強い響きが死んでしまう。
最初、「至高」ということばが思い浮かんだ。ふつうは口にしないことば。「文語」的なことばである。「至上の愛」ということばも思い浮かんだ。これも「文語」的だ。「極上」はどうだろうか。「文語」的ともいえるが、少し族物っぽい。そういう意味では「口語」的かもしれない。でも「極上」は、なんとなく嘘っぽいなあ。安物の宣伝みたいだなあ。
「至上の愛」から「愛の愉悦」ということも考えた。この詩には「傷つく愛」が描かれている。それを「最上」のものととらえている。血を流す愛をほめたたえている。「極上の愛の愉悦」。そう思ったとき「極上」の「極」から「極楽」ということばがひらめいた。愛の愉悦の果に、昇天する。エクスタシーで我を失う。「天国」へのぼる。その、喜び。
私は「極楽」ということばをつかわないが、昔は、よく聞いた。老いた人が、何かに満足して「ああ、極楽、極楽」と言う。ごく一般的な「口語」だった。あの「ああ、極楽、極楽」という感じが、最終行の「最高だ」の意味ではないだろうか。
「よかった、よかった」は老いたひとも言う。口語だから。でも「最高だ」は、私のいなかの年寄りは言わないなあ。気取っている。「よかった、よかった」「まるで極楽だなあ」「ああ、極楽だ、極楽だ」という感じ。もちろん、そこは「極楽」ではなく「現実世界」。でも、何か、逸脱している。「最高だ」では、その「逸脱感」がでない。
で。
この「逸脱感」から、詩を読んでいくと、ことばが非常に濃密であることがわかる。先に私は「矛盾したような、ねじまがったような文体」と書いたのだが、その「矛盾」「ねじまがった」という感じが「逸脱」を刺戟する。
書き出しの
手を切ってしまった
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた
が矛盾(?)し、ねじまがっている。「我慢した」が、まずおかしい。おかしいけれど、とてもよくわかる。いきなり鮮血が飛び散るのではなく、じわりと出てくる。「出血」そのものは「我慢」しているわけではない。むしろ「我慢できずに」出てきてしまうのが血である。「我慢する」は血が流れる(血が出る)ことを直接描写しているのではなく、血の出てくる感じを描写している。この詩は最初から「気持ち(感じ)」に焦点をあてて、ことばを動かしている。「長く我慢した」の「長く」が「感じ(気持ち)」を強調している。「時間」が長いのではなく、「感じること」が「長い」のだ。
「赤い血」(これは動脈?)から血が「青い静脈」のなかへ落ちる。うーん、これでは「出血」ではないのだが。でも、自分の「静脈」ではなく「世界の静脈」へ落ちる。自分の血が他人の血のなかへ落ちる。そして、交じりあう。激しいことばで言うと、血がセックスする。血が愛し合う。「同じ肉体」ではなく、「違う肉体」と交わる。
ここから「愉悦」が生まれる。「よかった」「ああ、気持ちがいい」になる。そして、ここからは「私」と「相手」が渾然一体となってくる。セックスの快楽というのは、自分が感じているのか相手が感じているのかわからない部分がある。相手が感じないと、なんだか自分自身でしらけてしまう。今の快感は相手の快感なのか、自分の快感なのか、「ああ、、いい」といいながらわからなくなるのが最上のセックスだろう。それが描かれている。その「感じ」が描かれている。
何日かはこの傷と遊ぼう
傷を「癒す(治療する)」のが一般的だが、このひとは「傷と遊ぶ」と書いている。どこか性格がねじまがっているような、奇妙な、しかし、なんとなく「わかる」喜びである。マゾ・サド感覚というとおおげさだが、人間には、こういう「死へ近づく」感覚に溺れたい欲望のようなものがある。やはり「区別」がなくなる。わけのわからないのが「愉悦」というものなのだ。
使い捨ての絆創膏を貼ってはまた剥がして傷を舌で撫で
かさぶたを取ってはまた悪化させ
こういうことは、小さい子供の頃、やった記憶がある。だれでも経験していると思う。不思議な「愉悦」がある。「極楽」という感覚ではないが。もしかしたら「地獄」の喜びかもしれないが。
傷と「遊び」、
つまみ食いするように少しずつ傷を怒らせよう
と「怒る」ということばが出てくるのも、「逸脱」へと感覚を動かしていく。「遊び」はたいてい「仲良く遊ぶ」ものである。でも「遊びながら」、相手を「怒らせる」。これは、何といえばいいのか、相手の中で「怒り」が動き出す瞬間を見る喜びだなあ。おおっ、「怒る」感情があるのだ、と新しい発見をする喜び。
いつも「仲良し」だけでは、つまらない。いつも「健康」だけではつまらない。ずーっと「健康」だけではつまらない。傷つきたい、傷ついてみたいという感覚が誰にでもあるのかもしれない。他人の包帯姿になんとなくあこがれる「子供の欲望」みたいなものかなあ。
私の体にはそういう傷跡が多い
この一行も強いなあ。私はぞくぞくしてしまう。読みながら、その一行に傍線を引くだけでは満足できず、私はその一行を四角く囲んでいる。さらに☆マークをつけている。とても気に入ったのだ。
傷つく愛にまみれている。こころの傷が「肉体」になって、あちこちにある。そうやって生きてきたのだ。それは「肉体の表面の傷(肌に残る傷跡)」というよりも、「肉体」の奥でうごめく「記憶」である。忘れられない「快感」の思い出である。それが「多い」と詩人は言うのだ。
傷つかない愛がいいのかもしれないけれど、傷つく愛、傷つけあう愛も、人間の「本性」に踏み込んでいくようで、おもしろい。傷つき、痛みでわめき散らす。これは、傷つくことができる人間にだけ許された、不思議な人間の「可能性」なのだ。
この詩は、「あんた、愛の深さをどれだけ知っているか」と問いかけてもいる。
相手に噛みついて傷つけ、噛みつかれて傷つけられる。それでも生きている。傷が生きている実感を、いっそう強くする。
赤い血が長く我慢したかのように
世界の青い動脈の中へとぽたぽた垂れ落ちた
この不思議な傷つけあい、苦悩し、同時にそこに「至福」(最高の幸せ)をみつける。それが「熱愛」である。
これはやっぱり、いくつもの愛を生きてきた人間だけがたどりつく世界だなあ。「極楽」だなあ。
私は韓国の詩人について何も知らずに、ただ、ことばをひたすら追いかけて読んだのだが、09月15日の「詩の流れるアリランコンサート」で慎達子本人が詩を朗読した。老人であった。私は瞬間的に、マリグリット・デュラスを思い出した。実際、この「極楽」感覚、「愉悦」感覚はデュラスではないか。
だから、私は、それから「最高だ」の一行を、自分で「ああ、極楽」と書き換えて読んでいる。
*
その後、時間があるときに、ボランティアの通訳の人(韓国人)に質問してみた。「最高だ」と訳されていることばを、ふつうのひとはどういうときに使うのか。どんなときに、そのことばを聞くか。するとひとりが、「日本の若者のつかう『やばい』という感じでつかう」と言った。
あ、それなら、年寄りならばやっぱり「極楽」だろう。
「やばい」は本来否定的につかわれてきた。それは困る、という感じに。いまは逆に「全体的肯定」のようにつかわれている。自分のそれまでの感覚を前面否定して、まったく新しい肯定的世界が広がるときに「やばい」と言う。
若者の絶対肯定が「やばい」なら、老人の「絶対肯定」が「極楽」である。「極楽」は死後の世界。「現実」ではない。その現実では「ない」という否定、生きているいままでの自分を否定し、超越した世界。「否定」があるから「肯定」がいっそう強くなる。否定と肯定が衝突し、いままでとは違った何か、「逸脱」した世界に突入してしまう。
「逸脱の愛」の境地を描いているのだと思う。「逸脱の愛」が「熱愛」なのだ。
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