金王魯(Kim Wangno)「君を花と呼んで十日泣いた。」(李國寛訳)、金芝幹(Kim Jeehun)「路地という言葉の中には」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)
李國寛訳以外の作品を読んでみたが、感想を書きたいと思う作品がなかなかみつけられない。だから、こんどは逆に李國寛訳の作品に何か共通するものはないか、それを探してみた。
金王魯(Kim Wangno)「君を花と呼んで十日泣いた。」(李國寛訳)の書き出し。
「いくらきれいに咲いた花でも十日持たない」ということばを知らなかった。「十個の不老長生の象徴するもの(太陽、山、水など)」を知らなかったので、君を花と呼んでしまった。
そのあとの「泣いた」は花が色褪せたというよりも、花は私から去った(散ってしまった)ということだろうけれど。
で終わる詩は、失恋の詩と言うことになる。「散る花」は「別れていく人」と言い換えられている。
金芝幹(Kim Jeehun)「路地という言葉の中には」(李國寛訳)の一連目はこうである。
「路地という言葉はなんと温かいのだろう」に、私ははっとした。
詩人は「路地」そのものに反応しているのではない。路地という「言葉」に反応してことばを動かしている。
金王魯「君を花と呼んで十日泣いた。」には「花無十日紅という言葉の前で」という表現がある。
金芝幹と金王魯は、「言葉」に反応している。
もしかすると、訳者の李國寛も「ことば」に反応しているのかもしれない。
このときの「ことば」というのは「定義」がむずかしい。「ことば」は何かを指し示している。だから「ことば」を読むというのは「何が書かれているか」を読むことである。「何が」というのは「意味」にかわることもある。
でも、「ことば」は何かを指し示したり、意味を語る前に、ただ「ことば」であるときがある。「ことば」が先にあって、それが「事実」を引き寄せ、動かすことによって生まれてくる「世界(意味)」というものもある。
こういうものに、李國寛は反応しているのではないのか。
「事実」はどうでもいい。「ことば」が動くときに生まれてくる「世界」、「ことば」と「世界」の緊密な関係にひかれているのではないのか。
作品に沿って、言いなおしてみる。
金芝幹は「路地」そのものを描いているわけではない。「路地という言葉」について描いている。
一行目で「温かい」ということばを動かす。二行目で「ぬくもり」と言いなおす。「温かい」は形容詞、「ぬくもり」は名詞。「温かさ」と言い換えると名詞になる。その名詞に、「残る」という動詞をつなげる。そうすると、その「残る」に私の「肉体」が参加していく。「残る」は「残す」でもある。
ここから変化が加速する。
「残す」「残る」は「捨てる」という動詞を浮かび上がらせる。「捨てる」は「残す」の反対の動きだが、その反対のもののなかに、つまり捨てられたもののなかには何かが「残っている」。たとえば、「温かさ/ぬくもり」が。つかった後でも、「練炭」はすぐに冷たくなっているわけではない。また「ぬくもり」が「残っている」。
この、動詞の「交錯」が、とてもおもしろい。単独に「残す」「捨てる」という動詞だけを考えたときには思いつかないようなことが、「事実」として書かれている。それは、私たちの「肉体」がおぼえている記憶である。記憶の事実が、そこにある。
これを、さらに金芝幹は、動かす
「無愛想な」ということばが、非常に強い。「無愛想」は「温かい」とか「ぬくもり」とは逆のものである。どちらかというと「冷たい」。でも、「無愛想」のなかには「温かい」「ぬくもり」も「残っている」。「無愛想」ではなく「愛想をふりまくことができない」「無骨」ということかもしれないと、思う。
ここから「父」が浮かび上がる。ケガをしたとき赤チンを塗ってくれるのは、たいていは父ではなく母だろう。看護婦のイメージだね。でも、母がいないとき、父が塗ってくれた。優しさ(傷への心配)を前面に出すのではなく、むしろ隠すようにして赤チンを塗る。でも、そこには隠しきれない愛がある。温かさ、ぬくもりがある。
いくつものことばが交錯し、交錯することで、「ひとこと」ではいえない隠れている何かをひきだして見せる。
このときの、交錯することばの運動が私は大好きである。ことばが、肉体がおぼえていることを、あざやかによみがえらせてくれる。この瞬間が好きなのだ。そして、そのことばの動きの中に、人間の「肉体」の動きが自然に重なるものが、特に好きである、私は。
李國寛も、きっとそういうことばの動き、ことばがつくりだす世界と人間との関係が好きなのだろうと、私は想像した。
読むことは、結局、自分自身の知っていることを確かめることであるとも思った。
人は知らないことは理解できない。知っていることだけを、より深く知るためにことばを読むのだと思った。
李國寛訳以外の作品を読んでみたが、感想を書きたいと思う作品がなかなかみつけられない。だから、こんどは逆に李國寛訳の作品に何か共通するものはないか、それを探してみた。
金王魯(Kim Wangno)「君を花と呼んで十日泣いた。」(李國寛訳)の書き出し。
雨のじめじめ降る日 花無十日紅という言葉の前で 泣いた。
君を何かと呼べば その何かになると言うので
君を花と呼んだので その十長生の太陽、山、水、石、雲、松、不老草
亀、鶴、鹿の中で鶴や確と呼ぶべきだったのに
私が花無十日紅という言葉を知らずに 君を花と呼んだので 泣いた。
「いくらきれいに咲いた花でも十日持たない」ということばを知らなかった。「十個の不老長生の象徴するもの(太陽、山、水など)」を知らなかったので、君を花と呼んでしまった。
そのあとの「泣いた」は花が色褪せたというよりも、花は私から去った(散ってしまった)ということだろうけれど。
散る花よりも さらにすすり泣き 別れていく人よりも さらに深く長く 泣いた。
で終わる詩は、失恋の詩と言うことになる。「散る花」は「別れていく人」と言い換えられている。
金芝幹(Kim Jeehun)「路地という言葉の中には」(李國寛訳)の一連目はこうである。
路地という言葉はなんと温かいのだろう
まだぬくもりの残る
誰かの捨てた練炭のように
ケガをした膝に赤い薬を塗ってくれた無愛想な
父のように
「路地という言葉はなんと温かいのだろう」に、私ははっとした。
詩人は「路地」そのものに反応しているのではない。路地という「言葉」に反応してことばを動かしている。
金王魯「君を花と呼んで十日泣いた。」には「花無十日紅という言葉の前で」という表現がある。
金芝幹と金王魯は、「言葉」に反応している。
もしかすると、訳者の李國寛も「ことば」に反応しているのかもしれない。
このときの「ことば」というのは「定義」がむずかしい。「ことば」は何かを指し示している。だから「ことば」を読むというのは「何が書かれているか」を読むことである。「何が」というのは「意味」にかわることもある。
でも、「ことば」は何かを指し示したり、意味を語る前に、ただ「ことば」であるときがある。「ことば」が先にあって、それが「事実」を引き寄せ、動かすことによって生まれてくる「世界(意味)」というものもある。
こういうものに、李國寛は反応しているのではないのか。
「事実」はどうでもいい。「ことば」が動くときに生まれてくる「世界」、「ことば」と「世界」の緊密な関係にひかれているのではないのか。
作品に沿って、言いなおしてみる。
金芝幹は「路地」そのものを描いているわけではない。「路地という言葉」について描いている。
一行目で「温かい」ということばを動かす。二行目で「ぬくもり」と言いなおす。「温かい」は形容詞、「ぬくもり」は名詞。「温かさ」と言い換えると名詞になる。その名詞に、「残る」という動詞をつなげる。そうすると、その「残る」に私の「肉体」が参加していく。「残る」は「残す」でもある。
ここから変化が加速する。
「残す」「残る」は「捨てる」という動詞を浮かび上がらせる。「捨てる」は「残す」の反対の動きだが、その反対のもののなかに、つまり捨てられたもののなかには何かが「残っている」。たとえば、「温かさ/ぬくもり」が。つかった後でも、「練炭」はすぐに冷たくなっているわけではない。また「ぬくもり」が「残っている」。
この、動詞の「交錯」が、とてもおもしろい。単独に「残す」「捨てる」という動詞だけを考えたときには思いつかないようなことが、「事実」として書かれている。それは、私たちの「肉体」がおぼえている記憶である。記憶の事実が、そこにある。
これを、さらに金芝幹は、動かす
「無愛想な」ということばが、非常に強い。「無愛想」は「温かい」とか「ぬくもり」とは逆のものである。どちらかというと「冷たい」。でも、「無愛想」のなかには「温かい」「ぬくもり」も「残っている」。「無愛想」ではなく「愛想をふりまくことができない」「無骨」ということかもしれないと、思う。
ここから「父」が浮かび上がる。ケガをしたとき赤チンを塗ってくれるのは、たいていは父ではなく母だろう。看護婦のイメージだね。でも、母がいないとき、父が塗ってくれた。優しさ(傷への心配)を前面に出すのではなく、むしろ隠すようにして赤チンを塗る。でも、そこには隠しきれない愛がある。温かさ、ぬくもりがある。
いくつものことばが交錯し、交錯することで、「ひとこと」ではいえない隠れている何かをひきだして見せる。
このときの、交錯することばの運動が私は大好きである。ことばが、肉体がおぼえていることを、あざやかによみがえらせてくれる。この瞬間が好きなのだ。そして、そのことばの動きの中に、人間の「肉体」の動きが自然に重なるものが、特に好きである、私は。
李國寛も、きっとそういうことばの動き、ことばがつくりだす世界と人間との関係が好きなのだろうと、私は想像した。
読むことは、結局、自分自身の知っていることを確かめることであるとも思った。
人は知らないことは理解できない。知っていることだけを、より深く知るためにことばを読むのだと思った。
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |