詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の「記者会見」戦法

2017-09-26 10:03:28 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「記者会見」戦法
            自民党憲法改正草案を読む/番外119(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月26日、西部版・14版)が、安倍の「解散表明会見」を伝えている。1面の見出し。

衆院28日解散
消費税使途 変更を問う
少子化や北情勢 首相「国難を突破」

 2019年に消費税を10%に引き上げる。それを財源に「全世代型社会保障」を実現する。消費税の使途の変更を含むので、その是非を問うために総選挙をする。信任を得たいというのが安倍の主張である。
 一見まともな「論理」に見える。
 だが、おかしなことばかりである。
 「全世代型社会保障」はたしかにすばらしい発想だが、誰かがそれに反対しているのか。「教育費の無償化」を含め、野党(特に民進党)が主張していたことと、どう違うのか。民進党の案ではだめで、安倍が提案しなければならない理由はどこにあるのか。
 さらに、その財源をどうするかを国会で議論したことはあるのか。
 国会で議論もされていないことをテーマ、争点に「民意を問う/信任を問う」というのはおかしくないか。
 財源をどこに求めるかを別にすれば、「全世代型社会保障」や「教育費の無償化」に反対する政党、国民はいないだろう。だれだって、年金を引き上げる、あらゆる教育費は無償にすると言われれば、喜んで賛成する。「反対」のしようがない。
 問題は、そういう金のつかい方をして、それで国家財政そのものが破綻しないかどうかである。いまはいい、けれど将来、国民は大きな負担を強いられる。消費税はさらに引き上げられる。そういうことになってもいいのか、というところまで含めての提案でなければならないのに、問題点を除外し、耳障りのいいことだけを語っている。
 だいたい、世論を二分するような論争も起きていないのに、国会を解散して「信任を問う」というのはおかしいだろう。
 国会を解散して「信任を問う」ということが必要だったのは、「戦争法案」「共謀罪法案」のときだろう。国会の外で、デモが行われている。そういう状況のときは、知らん顔して「多数議席」によりかかって採決を強行している。
 これだけでも、安倍が、安倍の身勝手で解散しているということがわかる。

 解散については、憲法で、こういう規定がある。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 これは国会と内閣との関係についての規定である。不信任を可決されるとは、内閣を国会が支持しないということ。不信任が可決されたら、議院内閣制のもとでは、内閣は総辞職をしなければならない。それだけでは、「一方的」である、というか、内閣に対抗手段がない。だから「解散権」を与えている。国会の議決はこうだが、内閣はこう考える。どちらの主張が正しいか、その「信任」を判断するために、国会を解散し、議員を選びなおす。それが「第六十九条」の趣旨である。
 こういうことは中学の社会科で習うはずである。
 安倍は、反対意見もあるだろうけれど、国会では「信任」されている。「信任」されているのに、その国会を「解散」し、「信任を問う」ということは意味がない。
 もし解散を言うのであれば、国会に「消費増税の使途の変更」を提案し、議論を経て、その案が「否決」される、さらには内閣不信任案が可決されるという経過の後でなければならない。
 最大限に譲っても、(安倍への不信任案が可決されていない状況であるのなら)、安倍への信任が問題になっているとき、それをテーマにしての解散でなければならないだろう。
 「戦争法案」「共謀罪法案」さらに「森友学園・加計学園問題」で、安倍への「信任」の度合いが急低下した。支持率が低下した。そういうときに、「世論調査ではそうだが、実際は私は信任されている。それを選挙で証明してみせる」といって解散するのなら、まだわかる。
 国会ではなく「世論調査」が「不信任を可決」しているのだから。
 しかし、安倍のやっていることは逆だ。世論調査の支持率が下がったら、不安になって選挙を封印する。支持率が回復したら、いまがチャンスと選挙をする。
 単に議席を守るために選挙するのであって、政策を推進するためではない。

 「国難」として、「少子化」と「北朝鮮情勢」を並列して掲げているのも、まったくおかしい。「少子化」はいまに始まった問題ではない。ほったらかしにしてきた問題である。昨年「幼稚園落ちた、日本死ね!」という女性の声が問題になったとき、安倍一派は、そういう発言をするのは(幼稚園を落ちるのは)共産党だ、と切り捨てたではないか。(自民党支持者なら、つてで幼稚園に入れるのに、ということだろう。)
 少子化は、ほんとうにやりたいことを隠すために、「おもて」に出してきた主張に過ぎない。
 一方の「北朝鮮情勢」についても、いいかげんである。安倍は情勢が緊迫化しているといいながら、政治空白を招く選挙を強行する。「民主主義の原点である選挙が、北朝鮮の脅しによって左右されることがあってはならない」というのはかっこいい言い分だが、もしそうなら自民党の改憲草案にある「緊急事態条項」も不要である。「緊急事態」が起きたときに、国会が空白になっては困る。だから議員の任期を選挙を経ずに延長するという条項など、いらない。「ある国が日本へ攻撃してきたからといって、民主主義の原点である選挙が左右されてはならない」ということになる。
 「緊迫情勢」と「緊急事態」は違うというかもしれない。では、いまの「緊迫情勢」とは何なのか。北朝鮮がミサイル実験をするたびに、国民に避難を呼びかけ、列車まで止めておいて、それは「緊急事態」ではないのか。「緊急事態」ではないのに、国民に「緊急事態」と嘘をついているのか。
 だいたい、北朝鮮のミサイル実験は、日本を照準にしているのもではないアメリカを視野に入れての展開である。安倍は、ただ「危機感」をあおっているだけである。

 あ、余分なことを書きすぎたか。
 今回の会見でいちばん問題なのは、安倍が「改憲問題」について触れなかったことである。
 消費税の使途以上に、憲法9条をどうするかは、「国の方針の変更」になる。70年守り続けてきた方針が大転換する可能性がある。ほんとうは、憲法を改正するための議席を守るために選挙をするのに、それを隠している。
 「全世代型社会保障」という、だれも反対できないような「美しい提案」で、ほんとうにやりたいことを隠している。隠したまま「信任」を問い、議席を確保すると、「改憲問題は自民党の以前からの主張である。公約にも書いている。信任された」と主張し、改憲を進めるのだ。改憲がとおってしまえば「全世代型社会保障」などは切って捨てられる。軍隊がいちばん大事。社会保障に頼るべきではない。自助努力が欠けている。国を守る軍隊がいちばん大事。軍事費を確保するためにさらに消費税を上げる必要がある、と安倍は平気で言うだろう。

 この記者会見では、何人かの記者が「指名」を受けて質問した。その質問も、傑作である。だれひとりとして「改憲問題」について質問しない。安倍が言わなかったからだが、言わなかったからこそ聞き出さなければならない。
 安倍は、昨年の参院選で「沈黙作戦」を展開した。何も言わない。言わないことで、野党の反論も封じる。争点を「アベノミクス」にしぼった。しかし、選挙に勝つと、一転して「これからのテーマは改憲だ」と言い張った。
 この詐欺の手口をマスコミも野党も追及しないのは、まったくだらしない。
 「改憲の主張をしないのはなぜか」と問わないといけない。問わない限り、安倍の政策のPRの片棒担ぎに終わってしまう。

 読売新聞は「改憲問題」について、こう書いている。

 首相が目指す憲法改正については、25日夜のNHKの番組で、「選挙において(自民)党の考え方を示していくことになる」と述べた。

 選挙になってしまえば、名前の連呼しかしないくせに、どうやって憲法問題を語るのか。参院選では党首討論会は一回しか開かれなかった。今回も一回なら、きっと憲法問題よりも「全世代型社会保障」を語るだけだろう。上田NHKは、籾井以上に巧妙に安倍の主張を支持するだろう。演出を巧みにするだろう。
 安倍の「口車」に乗るのではなく、安倍の「本音」をひきだし、野望(戦争でやる、軍隊の総指揮官になる)の問題点をあばく工夫が必要だ。
 これから安倍は「沈黙」する。「全世代型社会保障」ということだけを口にする。参院選で「アベノミクス」だけを言ったのと同じである。「沈黙作戦」のスタートが、28日の解散である。何も言わないまま(所信表明演説もせずに)、解散する。最低限、国会で「消費増税を税世代型社会保障につかう」と表明することが必要なのに、国民の代表である議員の前では一切語らず、上田NHKのテレビカメラの前で語るのだ。
 安倍にとっての「ていねいな説明」とは、上田NHKを利用して、国会議員から質問されないところで、指名した記者に答えるだけなのだ。記者は企業の一員であって、国民によって選ばれた議員、国民の代表ではない。国会では、安倍は質問する議員を指名できないが、記者会見では質問する記者を指名できる。この「仕組み」を利用していることにも、注意しなければならない。
 記者会見は「宣伝」である。



 「詩人が読み解く地味淫蕩憲法案の大事なポイント」「憲法9条改正、これでいいのか」は、自民党がことばをどんなふうに変更し、そうすることで国民をどうごまかそうとしているかを指摘したものです。
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金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)

2017-09-26 08:13:12 | 詩(雑誌・同人誌)
金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 金王魯(Kim Wangno)「君が私を白樺と呼ぶとき」(李國寛訳)は「恋愛詩」なのかもしれない。しかし、詩について語ったこと、比喩とは何かということを語った作品としても読むことができる。

君が私を白樺と呼んで去った後、私は白樺になった
誰かを何かと呼ぶことが
どれほど苦しく時には危険なのか知っているのだが
白樺や草花などと呼ぶために
自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法
誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする
私たちが互いを何かと呼んでやるならば
私たちは喜んでその何かになり暗い路地や
戦場でも明るい街灯や花として夜通し燃え上がって待とう
夜明けが来る足音もそうやって待とう
君が私を白樺と呼んでくれたように
君を星だと呼んであげたとき暗い白樺の森の上に
君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 私には私の名がある。君には君の名がある。けれど、それとは違う名で相手を呼ぶ。「白樺」「星」と。この名前は、特別な名前だ。二人だけの間で通じる名前だ。愛しているときに、そういうことが起きる。
 愛は「苦しく時には危険」である、というのは常識かもしれない。しかし、ひとは、こういう誰もが知っているところをとおって生きる。
 で、そのあと

自分の魂の唇を整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 この一行が美しいなあ。
 「魂の唇を整える」というのは、私の実感からは遠い。私は「魂」というものを知らない。ひとがそういうことばをつかうのは聞くが、自分では言わない。他人のことばを引用するときにはつかうけれど。なぜ「魂」をつかわないかといえば、存在を実感できないからだ。見たことがない。さわったことがない。
 それでもこの一行を美しいと感じるのは、「魂」を「唇」という「肉体」であらわした後、

整えて数えきれないほど練習した美しい発声法

 とつづくからだ。「整える」「練習する」という「動詞」があるからだ。「動詞」は私自身の「肉体」で反復することができる。私の唇を整え、ことばを練習する。こういうことは、よくやる。美しく「発声」できるかどうかはわからないが、美しくしたいという気持ちはある。そういうことを思い出すから。
 「意味」に「頭」が反応するのではなく、「ことば」に「肉体」が反応して、私の「肉体」のなかに眠っていたものが動き始める。
 特別な名前ではなく、ただその人の名前であるだけで、それを呼ぶときにどきどきすることもある。初恋のとき。友人がなんでもない調子で呼んでいる、その名前。それを呼ぶことができない。あのとき、どこかで私は無意識に唇を整え、声の出し方を練習している。
 でも、愛というのは、かならずしも実らない。詩は、そういうことも書いている。

君が星になって浮かび上がりきらめくなら私だけの星だと意地を張ったりしないだろう。

 というのは、別れた後だから言えることばかもしれない。「意地を張る」が「唇を整えて数えきれないほど練習した」と向き合っているようで、せつない。「意地を張ったりしないだろう」と否定形、否定形の推量として書かれているところが、かなしい。ここに「感情の整え方」がある。
 そして、感情を整えた後、最後の一行。

君が私を白樺と呼んで去った後 私は白樺になった

 「白樺」と呼ばれているときは、まだ「私」でもあった。君が去って、「白樺」と呼ばれなくなったときに、「白樺」と呼ばれることの「意味」がわかったということだろう。「白樺になった」と「白樺と呼ばれることが私にどういう意味があるのかわかった」と言い換えるられるだろう。

 それにしても。

 不思議なことだが、私がおもしろいと感じる作品には李國寛が訳していることが多い。どこかで「ことば」を共有しているのかもしれない。韓国語を習うなら、この人から学ぶと、私の場合は納得しやすいかもしれない、というような、詩とはあまり関係ないことも考えた。
 しかし、意外と重要な問題があるかもしれない。
 たとえば、詩に限らず、あるひとの「翻訳」がどうにもなじめないとか、逆にあるひとの「翻訳」が読みやすいと感じるのは、たぶんことばの感覚がどこかで通じているのだろう。

誰もが思いを込めて一人の人を何かと呼びたかったり呼んだりするのだが
その人は呼ぶ声が全く聞こえない所に流れて行ってしまったり
呼びながら求めた人は世界の向こう側に立っていたりする

 こういう向きを変えながら反復するような、まだるっこしいことばの展開のしかたにも強くひかれる。(原文もまだるっこしいのだろうけれど、それをそのまま日本語にする「呼吸」にひかれる。)
 「意味」だけではない何かがある。「正確」かどうかだけでは判断できない何かがあるということだろう。特に詩は、そうだろうと思う。詩は「意味」だけをつたえるものではない。詩は「意味」として語ることのできない何か、客観化できない何かを語る。そのことばに触れることで、自分自身のことばを作り替えを求められるのが詩だ。(哲学とは、文学というのは、そう定義できるだろうけれど、詩の場合、特にその要素が大きい。)
 このとき、何かが「共有」されていないと、その作り替えがうまくいかない。というか、作り替えへと、ことばが動いていかない。「共有」されていると、自分のことばを作り替えたいという欲望が動き始めるといえばいいのか。

 他の人の訳で、気に入る作品はないだろうか。
 探してみなければ、と思う。


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