詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の国連演説

2017-09-22 12:17:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の国連演説
            自民党憲法改正草案を読む/番外116(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月22日、西部版・14版)2面。安倍の国連演説の記事がある。

北との対話「無に帰した」/首相国連演説/米韓首脳と会談

 とても違和感がある。
 安倍は、北の、誰と対話したことがあるのだろうか。
 アントニオ猪木は、誰と対話したかわからないが、ともかく北朝鮮を訪問し、誰かと対話してきている。どんなときでも「対話」を閉ざしてはならない、と言って、単独で北朝鮮にわたっている。
 安倍は、トランプと対話しているだけではないか。

 安倍は「国際社会に圧力強化を訴えた」とも書いているが、「圧力強化」とはどういうことだろうか。
 対話をやめて、軍事行動をとるということか。

 北朝鮮はアメリカと向き合っている。ICBMの開発も水爆も、アメリカの「譲歩」を引き出すための方法である。北朝鮮のすぐとなりに韓国があり、米軍の基地がある。すぐ近くに日本があり、米軍の基地がある。これは北朝鮮にとっては、たいへんな脅威だろう。ソ連(当時)がキューバにミサイルを持ち込もうとしたとき、アメリカ(ケネディ大統領)は非常に危機感を抱いた。アメリカ本土のすぐ近くにミサイル基地ができる。ソ連にミサイル基地があるのとは状況が違う。おなじ恐怖を北朝鮮が感じているのは明らかだろう。
 ひとは誰でも、自分自身の恐怖には敏感だが、他人の恐怖には鈍感である。

 こんな具合に考えてみよう。
 一軒、家を挟んで暴力団の事務所がある。暴力団は拳銃やさまざまな武器をもっている。なんでもバズーカ砲まで手に入れたらしい。襲われないように、やっぱり拳銃を持たなきゃ、と家族がどこかからか拳銃を手に入れてきた。それで安心できる? 私はむしろ逆である。ピストルをもっていることがわかったら、逆に暴力団が襲ってきはしないか。何にも持たない方がいいんじゃないだろうか。
 どんなに時間がかかっても、近所で暮らしているのだから、みんながこのまま安心できるように、危険なもの(武器)を持つのはやめようと、訴えつづけるしかないのではないか。
 でも、だれが、それじゃあ、暴力団事務所へ行って、「危険なことはやめてください」と訴える?
 そういうことをするのが、家族の代表、たとえば父親だったり、母親だったりする。こういうときこそ、変な言い方だが「家長制度」がのさばってもいい。
 そう考えると。
 やっぱり、ここは安倍が(なんといっても「最高責任者」が)北朝鮮に直接出かけて、直談判すべきなのでは。
 「親分」は会ってくれないかもしれない。下っぱが出てきて、銃をチラつかせ、帰れとすごむかもしれない。でも、出かけていって、対話を試みるというのが、国民から選ばれた「責任者」の仕事では?
 だいたいねえ、アメリカの核に守られているから核禁止条約には賛成できないといっておいて、アメリカと対立している北朝鮮が核を開発するのは許せないというのは、「論理」として成り立たないのでは? 核兵器には反対する。アメリカの核であろうが、北朝鮮の核であろうが、全ての核に反対すると言わない限り、「二枚舌」。そんな人間は信頼されない。
 自分の家に拳銃を隠しておいて、暴力団に「怖いから拳銃を持つのはやめて」とお願いしても、応じてくれるはずがない。「おまえが拳銃をもっているなら、おれだって持つ。おまえが我が家に強盗に入らないという保障はどこにある?」と言われるだけだろう。

 核禁止条約に署名する。いまある核を一個ずつでも削減する。そういう状況をつくりだして、それから北朝鮮と交渉するのが「対話」ではないのか。それは被爆国の責務ではないのか。

 拉致問題にしても、安倍が拉致問題で北朝鮮を行ったのはいつ? 最初の被害者帰国のときに行っただけではないか。
 横田めぐみさんひとりのために北朝鮮に行くことはできない、と安倍は言うかもしれない。けれど、ひとりのためであっても、行ってほしい、救出してほしいと願っている人がいるはずだ。
 「熱意」が必要なのだ。
 安倍は、自分は安全な場所にいて、軍隊を指揮したい、戦争がしたいと言っているだけに見える。その戦争も自分ひとりでは怖いから、みんなで北朝鮮と戦争しようと言っているように見える。アメリカといっしょに戦争すれば、アメリかが守ってくれる。戦争するな、トランプがいるいましかない、と考えているとしか思えない。

 同じ紙面に、

北に人道的支援800万ドル/韓国決定/制裁に逆行 批判も

 という記事がある。
 たしかに制裁措置には逆行するとしか見えないかもしれないが。
 韓国は北朝鮮と直接接している。隣国である。そして同じ民族である。直接となりにいるひとにしか見えないこともある。壁を接している部屋からしかうかがいしれない隣人の事情というものもあるだろう。それが韓国にはわかるということがあるかもしれない。
 そうであるなら、まず、直接国境を接している国の意見、同じ民族の意見をじっくり聞いてみる必要もあるのではないだろうか。
 批判は簡単だが、批判ではなく、「対話」をこそしてほしい。
 北朝鮮とも、韓国とも。
 アメリカよりも、まずその二国と安倍は対話をしてほしい。

 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
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天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』

2017-09-22 10:14:40 | 詩集
天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』(響文社、2015年05月15日発行)

 『2017韓中日詩選集』に収録されている天童大人の作品はメッセージが強すぎて、私にはあまりおもしろく感じられない。選んだ人の好み(韓国人の好み)が反映しているのかもしれない。韓国の詩人の詩には「意味」が強いものが多い。「意味の動き」で論理を動かし、感情に近づいてくることばが多い。まあ、こういうことは、そのときの印象なので、あすは違ったことを書くかもしれないが。
 天童大人『ピコ・デ・ヨーロッパの雪』は少し古い詩集。ヨーロッパを放浪(?)したときのことが書かれている。
 私がひかれるのは、次のような連。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ
リエバナ一体の中心の村ポーテスから
日に数回 大西洋岸の町ウンケイラへ
の路線バスは世界への唯一の道

 風景の描写と説明。その「ことば」のつながり方に、どきどきする。二行目の「を」、五行目の「の」位置に、ああ、そうか、とこころが動く。
 散文(あるいは、学校教科書の「ことば」のつなぎ方)では「を」「の」は文頭へ来ることはない。あくまで先行することばのあとに置かれる。このあとに、まだことばがありますよ、と事前に知らせるのが「を」や「の」なのだ。
 でも、天童は、そういう書き方をしていない。
 このとき天童の「肉体」は何を見ているのか。何をつかんでいるのか。

川の流れに沿った断崖絶壁

 がまず最初にある。それを見る。しっかりとつかむ。「川の流れ」になって断崖絶壁に触れるのか、「断崖絶壁」になって川の流れを見るのか。流れる水の音を聴くのか。どちらであってもいいが、この一行のなかで「世界」は一瞬完結する。
 世界が完結したあと、新しい世界がまた始まる。ひとつの世界から、別のひとつの世界へ動いていく。その「動き」そのもの、「飛躍」を「を」がつないでいる。
 「川の流れ」(永遠の時間と自然の力)が、川岸を「断崖絶壁」に変える。水(の流れ)と時間、風や雨も含まれるだろうが、そういうものが「岩」を削り、「断崖絶壁にした」。そこにある「永遠の時間と運動」を「肉体」でつかみとる。そこから「彫る」とか「削る」とかいう「肉体」で再現できる動きが、「肉体」のなかでうごめき、

を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 という「彫る」「削る」ということばといっしょに世界を出現させる。それは単に目で見える風景ではなく、「肉体」と深くつながる風景である。天童の「肉体」が目覚めて、世界の中で動いている。
 このときの「目覚め」の驚きが「を」にある。行頭にある。「行末」では、驚き、目覚め、目覚めることによって飛躍していく感じが消えてしまう。行頭にあるから、この印象が生まれる。
 いったん完結した世界の、その世界の奥にある肉体を引っ張りだし、自分の肉体で反復し、拡大していく「起点」がそこにある。
 最初の一行を書くことによって、肉体の中で何かが目覚め、肉体を刺戟し、そのことに驚きながら次の世界に入っていくという感じが、「を」に集約している。最初から「世界」を知っているわけではない。肉体が動くことで世界が動き、その世界といっしょに「生まれ変わる」。そういうことが「を」に結晶している。
 「一車線」は、このあと「唯一の道」の「一」につながっていく。「一」は小さな数だが、そして最小の単位かもしれないが、小さいだけではない。
 「リエバナ一帯」というとき「一帯」は広がりをもっている。「中心」ということばがあるが「中心」と「周辺」をふくんだものが「一帯」。その「リエバナ」と「ウンケイラ」を結ぶとき、そこにまた「一本」の道が生まれる。「一」を発見する。
 その驚きがあって、五行目の「の」で始まることばがつづく。
 ことばの中に、世界を発見するときリズム、認識がことばになるときのリズムがそのまま動いている。
 こういう作品をこそ、天童の「声」で聞きたいと思った。
 肉体が、声(ことば)を発しながら、世界を発見し、自分のものにしていくという運動。発見したことを「ひとつ」にする声の響き、その運動をこそ聞いてみたいと私は思う。(天童の朗読を聞いたのは、今回が初めてだった。)

 ことばと肉体(声と耳とことば)、ことばと世界の認識については、次の部分が天童の姿を正直に描いている。

続いて入ってきた男
ウン ビノ ブランコ ポルファボール
主人はボトルからグラスに白ワインを注いだ

身近で話されている聲とコトバと
を聴いてはひとことずつ繰り返し
躰に覚えさせていく

 「ビノ ブランコ」とは何か。知らなくても、主人が「白ワイン」を注いだのだから「白ワイン」とわかる。「ウン ビノ ブランコ ポルファボール」と言えば白ワインがのめるのだ。声を(聲、と「耳」の文字を含む表記を天童はつかっている)聴いて(ここにも「耳」がある)、それを繰り返す。つまり天童自身の「肉体(舌、喉)」を動かして再現するということを繰り返して、おぼえる。「頭」でおぼえるのではなく「躰に覚えさせていく」。
 最初の詩にもどると。

川の流れに沿った断崖絶壁
を手彫りで削り出した道幅は一車線のみ

 これも「肉体」による「声」の繰り返し(反復)なのである。
 川が流れる。その水の「肉体」。水が「岩」を削る。そのときの「無言の声」は、手で何かを「彫る」「削る」ときの、人間の「無言の声」になる。「ビノ ブランコ」は聞こえる声だが、そのことばを言うときにだって「無言の声」がある。バルの主人に対するめくばせ、カウンター(テーブル)に近づいていくときの足取り。「肉体の声」がある。ひとは、そういうものを含めて聞き取る。
 水が一本の川になって流れるなら、ひとは手で一本の道を刻んで作る。そこに「無言の声」の響きあいがある。
 音楽がある。
 私たちは、こういう「無音」の音楽を聴きながら、「無音」の音楽となって生きている。
 「肉体」でつかみ、「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」というのは、忘れることができない。肉体はいつでも「音楽」であり、そこには「和音」がある。それは人を支えてくれている。
 自転車に乗れるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、倒れずに自転車をこげる。泳げるひとは、長い間泳いでいなくても溺れることはない。「肉体」はおぼえたことを忘れないのだ。
 ことばも「肉体」でおぼえれば忘れない。「頭」でおぼえれば「頭」から逃げていくことがあるが、ことばは「肉体」から逃げていくことはない。

 余談だが、ある朝、天童が朝食の席で女性と話している。聞くつもりはなかったが、天童の声が大きいので話が聞こえてくる。その会話の中で、天童は「エステアニョ」と言いかけて「ジィスイヤー」と言いなおした。「エステ」がくっきりと聞こえてきた。「エステ」が他のことば(英語)とは違って、真っ直ぐに声になって飛び出していた。その響きに強烈な力があった。スペイン語が「肉体」にしみついている。「肉体」でおぼえてしまっている。英語は頭で理解しているが、スペイン語は肉体でつかんでいるのだ。
 引用した詩のそのままに、天童は生きてきたのだ。
 偶然に聞いてしまった「エステ」に天童の「思想(肉体)」を感じたというと、詩人への感想にはならないか。
 いや、なるだろうなあ。

長編詩 ピコ・デ・ヨーロッパの雪 (詩人の聲叢書1)
クリエーター情報なし
響文社
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