詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)

2017-09-25 08:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 金秀福(kim Soobok)「間」「丸いという思い」(李國寛訳)を読んで、少し不思議な気持ちになる。

 「間」は、こういう作品。

目を瞑り空を見上げると
間がとてもいい

私と私の間
人と人と間
木と木の間
鳥たちと鳥たちの間
沈む太陽と昇る太陽の間

辿り着くべき時代の停留場があればもっとよかった

 「間」が繰り返されている。「あいだ」と読むのだと思う。でも、「ま」と読んでみたい気もする。器機でははかることのできない「感覚」を含んだもの、と。
 「目を瞑り空を見上げると/間がとてもいい」の「間」が何を指すのか、よくわからないからだ。計測できない何かを感じるからだ。
 「目を開いて見た空(現実)」と「目を瞑って見る空(想像?)」の「違い」のことを「間(ま)」と呼んでいるのだろうか。
 「私と私の間」とは「現実の私」と「私が思い描く私」の「違い」のことか。「違い」を「隔たり」と読み直せば、たしかに「あいだ」というものがあるかもしれない。でも、これも計測できない。
「人と人と間/木と木の間/鳥たちと鳥たちの間」も「現実の人/木/鳥たち」と「私が想像する人/木/鳥たち」の「違い(隔たり)」、ぴったりと重なり合わない「ずれ」のようなものを指しているのかもしれない。「間(ま)」は、「ずれ」の別称かもしれない。
 「沈む太陽とのぼる太陽の間」はどうだろう。ここにも「隔たり」はあるが、それは「空間」というより「時間」である。「隔たり」には「空間」と「時間」がまじりあっている。「空間と時間」が「一体」になっている、ということか。「間(ま)」の領域がひろげられている感じ。
 よくわからないが、何か「現実」から離れて、「現実に似た何か(理想かもしれない)」を思い描くときの「感じ」を思い出す。やはり、計測できない、あいまいなもの。感じるのに、客観化できないもの。
 客観化できないけれど、それは、私自身にとっては「絶対的」なもの。
 目をつむって空を見あげるとき、「絶対的」な不安のようなものを感じる。体がふわっと浮き、ここではないどこか、どこでもないところへ行くような感じ。
 で、最終行。
 私はこの行を読んだ瞬間、「辿り着く」と「停留場」に下線を引き、それを別な線でつないでいる。つないでしまう感覚が「間(ま)」なのか。つないでしまうと、「辿り着く」と「停留場」は「関係」になる。「関係」が「間(ま)」だ。
 「停留場」は「目的地」ではない。たぶん、通過地点の「場」である。でも、それがあることで「目的地」がたしかなものになる。「関係」がひろがって、たしかさをささえる。「停留場」がないと、「目的地」があるのかどうかまで、不安になる。
 「停留場」は「あいだにある場」であると同時に、出発点と目的地を確固としたものにする何かである、と感じた。
 こういうことはすべて「比喩」なのだが、比喩でしか言えない何かを金は書こうとしている。それを私は「間(ま)」であると考える。
 「沈む太陽とのぼる太陽の間」が「時間」を呼び起こし、「辿り着く」という動詞が人間の肉体がつくりだす「時間」を呼び覚ます。ひとは、何かを「つくる」。「目的地」がそのとき想定されているのだが、そこまでは「遠い」。どこかに「中継点(停留場)」があれば、きっと「もっといい」という感じなんだろうなあ。こういうことが、入り乱れて、私の感覚を揺さぶる。
 抽象的なことしか書けないが、抽象的なまま、そういうことを感じ、考えた。
 もう一篇「丸いという思い」。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく間、
幼虫の部屋から蝶が飛び上がる間、
洞窟から人が出てくる間、
空の斜面から転げ落ちた一番星がまた上る間、
別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛のように悲しい顔がよぎる

 この詩にも「間」が繰り返されている。この詩の「間」は「時間」と言い換えてもいいかもしれないが、やはり「間(ま)」かもしれない。。
 まず、先に読んだ「間」も「時間」と読み替えてみようか。

目を瞑り空を見上げる(と)
(その)「時間」がとてもいい

私と私の「時間」
人と人と「時間」
木と木の「時間」
鳥たちと鳥たちの「時間」
沈む太陽と昇る太陽の「時間」

辿り着くべき時代の停留場があればもっとよかった

 ということになる。
 こう読んだとき、私が感じるのは、今度は「違い(隔たり)」ではなく、なぜか「同じ」という感じである。「同時性」、「いっしょにいる時間」といいなおせばいいのか。「隔たり」があるかもしれないが、いっしょにいることによって生まれてくる「充実」のようなもの。
 「停留場」では、人がいっしょに乗り物がやってくるのを待っている。
 でも、こういう読み方は強引だし、そこから再び「丸いという思い」へ返ってくると、何かが違ってしまう。
 違ってしまうけれど、私は、さらに強引に「誤読」する。
 「いっしょにいる」という感覚が、どうも、ついてまわるのである。これが「間(ま)」という感覚なのかなあ。いっしょにいるものと、感覚的にしっくりこないとき「間(ま)がわるい」と言ったりするなあ。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく間、

 というとき、言葉が転がっていく「時間」、私は言葉と「いっしょにいる」、ということ。その「転がっていく言葉」を見ているときの感じというのは、どういうものだろう。「転がっていく言葉」と「それを見ている私」は、同一のものだ。「一つになって(一体になって)」「私」が転がっていく。こういうときの「間(ま)」には「悲しい」という感情がしのびこんでくる。
 「間(ま)」をつかわずに、言いなおしてみることはできないか。
 「言葉」と「私」は違うものである。しかし、それが「同じ」であるとしたら、そのうちのどちらかが「比喩」なのだ。
 ここから、私はさらに「誤読」する。
 「比喩」は「……のよう」。これを「時間/動詞」に重ね合わせるときは「……のように」になるかもしれない。

愛しているという言葉があなたへ転がっていく「ように」、
幼虫の部屋から蝶が飛び上がる「ように」、
洞窟から人が出てくる「ように」、
空の斜面から転げ落ちた一番星がまた上る「ように」、

 こう読みたい気持ちなる。いま感じている不安、具体的には言えないけれど、「のように」という具合に、どうしても何かを言わずにはいられない不安。
 客観化できない何か、計測できない何かが、「ように」と「間(ま)」ということばのなかで重なるように動く。

別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛のように悲しい顔がよぎる

 「間」ということばを持たないこの二行はどうなるのか。
 「間」ということばは持たないが、私が「間」を「読み替えた」ときのことば「ように」がある。「愛のように」。
 この「ように」は「間(ま/あいだ)」と言い換えられないか。「愛」は「名詞」だが、それを「動詞」にして「間」をつかって言いなおすとどうなるのだろうか。つまり「時間」と言いなおすと、どうなるだろうか。

別れという言葉が返ってくるのを恐れる太陽は丸く消えて
愛する「時間」を悲しい顔がよぎる

 愛しているけれど、それが報われず、別れが現実のものになり、私の「時間」が「悲しい」ものになる。私とあなたの「間(あいだ/ま)」に、悲しいものがしのびこんでくる。別れの予感の中で(予感する時間のなかで)、私はやがて消えていく。いつかは沈む「太陽のように」。
 「比喩」にしてしか語れない何かを、賢明に語ろうとしている感じがする。
 「意味」ではなく、「感じ」が「手触りのあるもの」として、そこにある。

 二篇だけでは、キーワードがつかみきれないが、何か「比喩」と「間」の認識が交錯していることばの運動を感じる。
 韓国語に「間(ま)」ということばがあるかどうか、私は知らない。それを「間(あいだ)」とどう区別しているかもわからないのだが、私に日本人であり、「間(あいだ)」も「間(ま)」もほとんど無意識に区別してつかっている。だから、こういう読み方になる。
 こういうことを韓国人と話すことができれば、詩人フェスティバルという交流の場はとても刺戟的になると思うが、「ことばの壁」がたちはだかる。



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