詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石田瑞穂「小鳥たちの手紙」、杉本真維子「拍手」

2017-09-24 12:37:26 | 詩(雑誌・同人誌)
石田瑞穂「小鳥たちの手紙」、杉本真維子「拍手」(2017年09月15日、韓中日詩人フェスティバル)

 石田瑞穂「小鳥たちの手紙」の朗読を聞いた。聞きながら、石田は、詩を書くとき「読む(聞かせる)」ことを前提にして書いているのか、書いたものをたまたま読んだのか、という疑問にとらわれた。
 私は「黙読派」である。朗読はしたいと思わないし、聞きたいとも思わない。私は音痴だ。つまり、耳が悪い。聞こえた音を正確に肉体の中に取り入れ、それを反復することができない。文字で、つっかえ、つっかえ、時には途中で引き返したりして読む。そういうことが「肉体」にしみついている。「朗読」を聞いていると、そういう「引き返し」ができない。だから困ってしまう。

 石田の詩には、読んでもわからないし、聞けばもっとわからないような部分がある。

返事が遅れてしまったのは
きみの書いてくれた手紙をここ
フランスの臍にして
漂鳥の都
ブールジュにエアメールで転送してもらったからです

 「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」には「比喩」(言い直し)がつづけざまにふたつ出てくる。「臍」と「漂鳥の都」。目で読めば、かろうじて意味が取れる。耳で聞いただけでは、私は混乱する。「臍にして」の「……にして」という言い方が、私の感覚では「文語」。目で読んでも、古くささにぎょっとするが、聞いただけでは首をかしげてしまう。「ヘソニシテ」という地名かと思ってしまう。
 比喩をふたつもはさむのは、「口語(声)」のことばにしては無理があると思う。だから、私は、この詩は「読むこと(朗読)」を前提としては書かれていないと感じた。
 ただ、黙読派の私の感覚からすると、それにつづく数行は非常に気持ちが悪い。(「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」も気持ちが悪いのだが。)

子午線のこちら側はAM2時
一時間ほど前にベッドにもぐりこんだのですが
きみの手紙を想うと眠れず
バンショー
(シナモンスティックを入れたホットワイン
お隣のブドウ畑で収穫したもの)を注いで
紙のレコードを聴くように
もう一度
君の音信を聴き返しています

 句読点がないので、石田の「文体」の意識を正確にとらえていないかもしれないが、いま引用した部分は「一文」だと思う。長い。そして、うねる。
 「手紙」が「紙」ということばから「紙のレコード」に変化し、「レコードを聴く」が「音信を聴く」へとつながっていく。この連続感、動いていく感じはとても技巧的だ。これも「聞かせる」というよりも「読ませる」ものだと思う。だからこそ「レコード」という古いことばがつかわれるのだと思う。「レコード」なんて、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」の「夜というのに派手なレコードかけて」以来、耳で聞いた記憶がない。いや、それ、以後、どこで「レコード」ということばがつかわれているか、聞いた記憶を思い出せない。
 こんなことば、いまは、だれも言わないぞ。(もっとも、またレコードブームで、新しいことばなのかもしれないけれど。これからまた復活してくることばなのかもしれないが。)これも、「書きことば」ならではのものだと思った。
 さらに、

日本のヤマギ ホオジロ
ヒヨドリに似た鳥たちが
庭に生えたオリーブを
次から次へ「音ずれ」ています

 「音ずれ」は「訪れ」である。小鳥の鳴き声の違い、音の違い、ずれを重ね合わせている。これは韓国語でどう翻訳されているのかわからないが、そのままでは「耳」ではつかみきれないものを含んでいる。
 日本人が聞いても「訪れ」としか理解しないだろう。だから、ここも「朗読」というよりは「黙読」を前提として書いているように思う。
 でも、これを石田は「読む」のである。しかも、淡々と読むのではなく、身振りをまじえ、音にも変化をつける。ことばのスピードが急にあがって、あ、何を言っているのだろうか、と思った瞬間、

ピル ピルルル ピョッピョ
ピウィー ピッピ

 小鳥の鳴きまねをする。私はカタカナ難読症で、実は、この部分を黙読したときは、どう読んでいいのかわからなかった。石田の声をとおして、はじめて、あっ、そうか、とわかった。いまは、かろうじて読むことができるが、石田の声を聞くまでは、読まずにすっ飛ばしていた。
 この部分を聞き、はじめて「朗読」のために書いたのかもしれないなあと思った。
 でも、最後の部分、石田は声をマイクにのせずに、何やら口だけ動かしていた。それは詩に書かれていないことばかもしれない。私はよくおぼえていないが、

小鳥たちの歌は
止んだ瞬間に
酢へてが聴こえてくるのですから

 までは、聞いたように記憶している。そのあとが「もごもご」読んでいるふり。

 で、ここからです。私がきょう書こうとしているのは。
 朗読が終わったあと、私は石田がやっているのは「朗読」ではなく「演技」なのだと思った。「朗読」以上のものを含んでいる。「読んでいるふり」の「ふり」。
 最後の口だけ動かすというのは、詩のつづきがある。それはまだことばになっていない、ということを語っているのかもしれない。「余韻」ということかもしれない。それを「演技」をとおして明らかにしている。
 押しつけている、と言ってもいいのだけれど。
 そして私は、この「押しつけ」が嫌いである。「朗読」を聴くのが嫌いなのも、「朗読」だと、どうしても「押しつけ」がまじってくる。「肉体」というのも、「声」というものは、もうそれだけで「感情」であり、そんなものを前面に出されては息苦しい。私はわがままなので、ことばは、私自身の好き勝手に読みたい。書いた人が何を感じて書いたか、何を思って書いたかには興味がない。そのことばから何を引き継ぎ、考えることができるか。そのことばを動かしていけば、どういうことが起きるのか、ということにしか関心がない。だから、作者からの「押しつけ」は、どんなものであっても、大嫌いなのだ。
 「演技」としての「押しつけ」。これは、石田の「朗読」だけではなく、「文字(書き言葉)」そのものにも含まれていると思う。「紙のレコード」という比喩の部分などに、それがあらわれていると思う。この比喩は、美しいといえば美しいのかもしれないけれど、私には非常に古い抒情の「押しつけ」に感じられてしまう。年代が違うからかもしれない。若い世代には「新鮮」かもしれないが。
 言い換えると、ことばすべてが「演技」している、という感じがする。ことばが「肉体」から出てくるとき、まっすぐに出てくるのではなく、ある種の「演技作法」にしたがって動いているという感じがする。
 「演技」が「感情」の動きを、一種の「作法」として明確にしたのか。石田の朗読は、韓国人聴衆(若い世代)に非常に好評だったということだった。(後日、フェスティバルの実行委員のような人が、そう語った。)

 少し、前後するが。
 石田の「音のない朗読」の部分で、私は映画「風の丘を越えて」を思い出した。パンソリの歌い手がいる。盲目である。彼女には弟がいる。その弟が姉を探し当て、パンソリを聞かせてくれと言う。太鼓をたたく。それにあわせて姉が歌う。弟には姉がわかっている。姉には弟がわかったか。たぶん、わかっただろう。昔,いっしょに歌い歩いていたのだから。このクライマックス、太鼓の音は聴こえるが、姉の声は聞こえない。かわりにフルートの音が流れる。しかし、それが姉の声に聴こえる。思わず鳴きそうになってしまう。
 その映画の主演女優が、そのとき「司会」をしていた。そういうこともあって、石田の朗読が、「演技」に見えたのかもしれない。



 同じステージで杉本真維子は「拍手」を朗読した。

背骨の、したのほうに、小さな、拍手がある
装置でも、偶然の、産物でもなくて
ある朝方、それをみつけて
スイッチを押したようだが、記憶はなかった、
博士の指示にしたがい
朝と夜だけ、多くても一日二回まで
という決まりだけは守った

 うーん、石田のことばが「文体」(連続することで明確になるもの)として「演技」を目指しているのに対して、杉本のことばは、ひとつひとつが「独立」するのことを目指しているように感じられる。一つ一つが、独自に「自己主張」する。その「自己主張」のどこかに共感すれば、杉本の肉体に近づいて行ける、ということだろう。
 私は「拍手」と「博士」の向き合い方に刺戟を受けた。対立というのではないが、同一でもない。向き合うことが「自己」と「他者」をうみだし、「自己主張」を明確にする。その感覚が「わたし」を動かしている。断絶しているのだが、間接的につながっている。「指示」ということばがあるが、それを「私」がうけとめるときにのみ生まれるつながりと、「背骨の、したのほう」という切り離せない「私」と「拍手」のつながりが交錯する。
 何が書いてあるのか、よくわからないが、そのわからないところに杉本がひとりの人間として「いる」ということを感じさせる朗読だった。



まどろみの島
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リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

2017-09-24 09:57:58 | 映画
リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン

 マイケル・ファスベンダーが善と悪の二役って、あ、これはもう「ターミネーター」じゃないか。「エイリアン」じゃなくて、「ターミネーター コヴェナント」。「コヴェナント」なんていうことばの意味は知らないけれどね。
 この続編はきっと、「エイリアン」をつくりだしたアンドロイドの動きを阻止するために、未来からあたらしいアンドロイドがやってくる、という映画になるなあ。
 創造に目覚めたアンドロイドが、完璧な生命体とは何か、と考え始める。理想(?)とする生命体の中に入り込みながら、DNA(?)を吸収し、自分を作り替えながら成長する、というのはなかなかおもしろいテーマというか、ストーリーだが、どうもうまく生かされていない。
 ストーリー(意味)が単純に二極化されているためである。善と悪は、愛と憎しみということばに言い換えられている。それが美と醜という形で視覚化、聴覚化されている。
 初代アンドロイドは、善というか、「完璧」なのものを教えられた。この世界には「完璧」がある。それを具現化しているのが初代アンドロイドである。でも、初代アンドロイドは、それをつくった男に愛されなかった。男が愛しているのは「完璧」なもの、たとえばワーグナーの音楽だった。アンドロイドに求められているのは「完璧」を再現し、提出すること。それが「仕事(義務)」だった。自分が愛されているわけではないと知ったアンドロイドが、愛に飢え、憎しみをつのらせていく。と書けば、これは「フランケンシュタイン」にもなるなあ。「フランケンシュタイン」が下敷きになっていることは、バイロンやシェリーが登場してくるところからも推測できる。
 映画好きには「ターミネーター」を、文学好きには「フランケンシュタイン」を連想させるというのが、狙いかもしれないけれどね。
 あるいは、映画にしろ何にしろ、あらゆる「芸術」というのは、何かに「寄生」しながら、「母体」を破壊し、生まれかわかることという「哲学」を語っているのかもしれない。「芸術」がそういうものであるから、リドリー・スコットが「ターミネーター」に寄生し、「フランケンシュタイン」に寄生し、「エイリアン」を改良していくのは、ごくごく自然なことなのであるけれど。
 どうも、ストーリーがというより、ストーリーを動かす「思考」が見え透いている。
 この「見え透いている」部分を、どう破壊するか。思いもかけなかったことを「映像」として提出するか、何を「破壊」するか、がいちばん問題なのだけれど。破壊することで、観客の「肉体」をどう刺戟するかが問題なのだけれど。「頭」にこのパズル解けるというような信号をいくら送られてもねえ。
 新しいことは、何もない。宇宙船をコントロールする「マザー」というコンピューターは「2001年宇宙の旅」の「HAL」そのものだし。エイリアンはすでに見ているし、体に侵入して、体を突き破って生まれるというのも見ているし、エイリアンを船外機に誘い出し宇宙に放出するというのも見ているし。いや、すでに「醜い」ものが「美しい」ものを凌駕して、こころを引きつけるというのは、「エイリアン」の出発点そのものであったしなあ……。
 初代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーが次世代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーにキスして始まる「混乱(闘争)」が、カンフー映画みたいになってしまったことが失敗なのかなあ。アンドロイドだから「混乱」しないというのが「基本」なのかもしれないが、「愛」というのは「混乱」から始まるものだからねえ。「混乱」のなかから、何を選び、自分を変えていくかが「愛」にとっていちばんおもしろい部分なのに、そこが省略されている。単なる「破壊ごっこ」(相手を殺す)に終わっている。
 いや、ラストシーンは違うぞ、という意見もあるだろうけれど、(透明カプセルに入ったエイリアンの胎児を口から出産するというのは、ちょっと新しいグロテスクだけれどね)、でもこの「ご都合主義」がいちばんおもしろくない。キャサリン・ウォーターストンが見たものは(気づいたことは)、アンドロイドが彼女を守ってくれていた(愛していてくれた)アンドロイドなのか、それとも初代のアンドロイドなのか、あるいは彼女を守ってくれていたアンドロイドの内部で何かが新しく生まれたのか(変質したのか)を観客にまかせて、「続編がありますよ」というのは、安直すぎる。
                        (2017年09月23日、中洲大洋1)


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