石田瑞穂「小鳥たちの手紙」、杉本真維子「拍手」(2017年09月15日、韓中日詩人フェスティバル)
石田瑞穂「小鳥たちの手紙」の朗読を聞いた。聞きながら、石田は、詩を書くとき「読む(聞かせる)」ことを前提にして書いているのか、書いたものをたまたま読んだのか、という疑問にとらわれた。
私は「黙読派」である。朗読はしたいと思わないし、聞きたいとも思わない。私は音痴だ。つまり、耳が悪い。聞こえた音を正確に肉体の中に取り入れ、それを反復することができない。文字で、つっかえ、つっかえ、時には途中で引き返したりして読む。そういうことが「肉体」にしみついている。「朗読」を聞いていると、そういう「引き返し」ができない。だから困ってしまう。
石田の詩には、読んでもわからないし、聞けばもっとわからないような部分がある。
「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」には「比喩」(言い直し)がつづけざまにふたつ出てくる。「臍」と「漂鳥の都」。目で読めば、かろうじて意味が取れる。耳で聞いただけでは、私は混乱する。「臍にして」の「……にして」という言い方が、私の感覚では「文語」。目で読んでも、古くささにぎょっとするが、聞いただけでは首をかしげてしまう。「ヘソニシテ」という地名かと思ってしまう。
比喩をふたつもはさむのは、「口語(声)」のことばにしては無理があると思う。だから、私は、この詩は「読むこと(朗読)」を前提としては書かれていないと感じた。
ただ、黙読派の私の感覚からすると、それにつづく数行は非常に気持ちが悪い。(「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」も気持ちが悪いのだが。)
句読点がないので、石田の「文体」の意識を正確にとらえていないかもしれないが、いま引用した部分は「一文」だと思う。長い。そして、うねる。
「手紙」が「紙」ということばから「紙のレコード」に変化し、「レコードを聴く」が「音信を聴く」へとつながっていく。この連続感、動いていく感じはとても技巧的だ。これも「聞かせる」というよりも「読ませる」ものだと思う。だからこそ「レコード」という古いことばがつかわれるのだと思う。「レコード」なんて、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」の「夜というのに派手なレコードかけて」以来、耳で聞いた記憶がない。いや、それ、以後、どこで「レコード」ということばがつかわれているか、聞いた記憶を思い出せない。
こんなことば、いまは、だれも言わないぞ。(もっとも、またレコードブームで、新しいことばなのかもしれないけれど。これからまた復活してくることばなのかもしれないが。)これも、「書きことば」ならではのものだと思った。
さらに、
「音ずれ」は「訪れ」である。小鳥の鳴き声の違い、音の違い、ずれを重ね合わせている。これは韓国語でどう翻訳されているのかわからないが、そのままでは「耳」ではつかみきれないものを含んでいる。
日本人が聞いても「訪れ」としか理解しないだろう。だから、ここも「朗読」というよりは「黙読」を前提として書いているように思う。
でも、これを石田は「読む」のである。しかも、淡々と読むのではなく、身振りをまじえ、音にも変化をつける。ことばのスピードが急にあがって、あ、何を言っているのだろうか、と思った瞬間、
小鳥の鳴きまねをする。私はカタカナ難読症で、実は、この部分を黙読したときは、どう読んでいいのかわからなかった。石田の声をとおして、はじめて、あっ、そうか、とわかった。いまは、かろうじて読むことができるが、石田の声を聞くまでは、読まずにすっ飛ばしていた。
この部分を聞き、はじめて「朗読」のために書いたのかもしれないなあと思った。
でも、最後の部分、石田は声をマイクにのせずに、何やら口だけ動かしていた。それは詩に書かれていないことばかもしれない。私はよくおぼえていないが、
までは、聞いたように記憶している。そのあとが「もごもご」読んでいるふり。
で、ここからです。私がきょう書こうとしているのは。
朗読が終わったあと、私は石田がやっているのは「朗読」ではなく「演技」なのだと思った。「朗読」以上のものを含んでいる。「読んでいるふり」の「ふり」。
最後の口だけ動かすというのは、詩のつづきがある。それはまだことばになっていない、ということを語っているのかもしれない。「余韻」ということかもしれない。それを「演技」をとおして明らかにしている。
押しつけている、と言ってもいいのだけれど。
そして私は、この「押しつけ」が嫌いである。「朗読」を聴くのが嫌いなのも、「朗読」だと、どうしても「押しつけ」がまじってくる。「肉体」というのも、「声」というものは、もうそれだけで「感情」であり、そんなものを前面に出されては息苦しい。私はわがままなので、ことばは、私自身の好き勝手に読みたい。書いた人が何を感じて書いたか、何を思って書いたかには興味がない。そのことばから何を引き継ぎ、考えることができるか。そのことばを動かしていけば、どういうことが起きるのか、ということにしか関心がない。だから、作者からの「押しつけ」は、どんなものであっても、大嫌いなのだ。
「演技」としての「押しつけ」。これは、石田の「朗読」だけではなく、「文字(書き言葉)」そのものにも含まれていると思う。「紙のレコード」という比喩の部分などに、それがあらわれていると思う。この比喩は、美しいといえば美しいのかもしれないけれど、私には非常に古い抒情の「押しつけ」に感じられてしまう。年代が違うからかもしれない。若い世代には「新鮮」かもしれないが。
言い換えると、ことばすべてが「演技」している、という感じがする。ことばが「肉体」から出てくるとき、まっすぐに出てくるのではなく、ある種の「演技作法」にしたがって動いているという感じがする。
「演技」が「感情」の動きを、一種の「作法」として明確にしたのか。石田の朗読は、韓国人聴衆(若い世代)に非常に好評だったということだった。(後日、フェスティバルの実行委員のような人が、そう語った。)
少し、前後するが。
石田の「音のない朗読」の部分で、私は映画「風の丘を越えて」を思い出した。パンソリの歌い手がいる。盲目である。彼女には弟がいる。その弟が姉を探し当て、パンソリを聞かせてくれと言う。太鼓をたたく。それにあわせて姉が歌う。弟には姉がわかっている。姉には弟がわかったか。たぶん、わかっただろう。昔,いっしょに歌い歩いていたのだから。このクライマックス、太鼓の音は聴こえるが、姉の声は聞こえない。かわりにフルートの音が流れる。しかし、それが姉の声に聴こえる。思わず鳴きそうになってしまう。
その映画の主演女優が、そのとき「司会」をしていた。そういうこともあって、石田の朗読が、「演技」に見えたのかもしれない。
*
同じステージで杉本真維子は「拍手」を朗読した。
うーん、石田のことばが「文体」(連続することで明確になるもの)として「演技」を目指しているのに対して、杉本のことばは、ひとつひとつが「独立」するのことを目指しているように感じられる。一つ一つが、独自に「自己主張」する。その「自己主張」のどこかに共感すれば、杉本の肉体に近づいて行ける、ということだろう。
私は「拍手」と「博士」の向き合い方に刺戟を受けた。対立というのではないが、同一でもない。向き合うことが「自己」と「他者」をうみだし、「自己主張」を明確にする。その感覚が「わたし」を動かしている。断絶しているのだが、間接的につながっている。「指示」ということばがあるが、それを「私」がうけとめるときにのみ生まれるつながりと、「背骨の、したのほう」という切り離せない「私」と「拍手」のつながりが交錯する。
何が書いてあるのか、よくわからないが、そのわからないところに杉本がひとりの人間として「いる」ということを感じさせる朗読だった。
石田瑞穂「小鳥たちの手紙」の朗読を聞いた。聞きながら、石田は、詩を書くとき「読む(聞かせる)」ことを前提にして書いているのか、書いたものをたまたま読んだのか、という疑問にとらわれた。
私は「黙読派」である。朗読はしたいと思わないし、聞きたいとも思わない。私は音痴だ。つまり、耳が悪い。聞こえた音を正確に肉体の中に取り入れ、それを反復することができない。文字で、つっかえ、つっかえ、時には途中で引き返したりして読む。そういうことが「肉体」にしみついている。「朗読」を聞いていると、そういう「引き返し」ができない。だから困ってしまう。
石田の詩には、読んでもわからないし、聞けばもっとわからないような部分がある。
返事が遅れてしまったのは
きみの書いてくれた手紙をここ
フランスの臍にして
漂鳥の都
ブールジュにエアメールで転送してもらったからです
「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」には「比喩」(言い直し)がつづけざまにふたつ出てくる。「臍」と「漂鳥の都」。目で読めば、かろうじて意味が取れる。耳で聞いただけでは、私は混乱する。「臍にして」の「……にして」という言い方が、私の感覚では「文語」。目で読んでも、古くささにぎょっとするが、聞いただけでは首をかしげてしまう。「ヘソニシテ」という地名かと思ってしまう。
比喩をふたつもはさむのは、「口語(声)」のことばにしては無理があると思う。だから、私は、この詩は「読むこと(朗読)」を前提としては書かれていないと感じた。
ただ、黙読派の私の感覚からすると、それにつづく数行は非常に気持ちが悪い。(「フランスの臍にして/漂鳥の都/ブールジュ」も気持ちが悪いのだが。)
子午線のこちら側はAM2時
一時間ほど前にベッドにもぐりこんだのですが
きみの手紙を想うと眠れず
バンショー
(シナモンスティックを入れたホットワイン
お隣のブドウ畑で収穫したもの)を注いで
紙のレコードを聴くように
もう一度
君の音信を聴き返しています
句読点がないので、石田の「文体」の意識を正確にとらえていないかもしれないが、いま引用した部分は「一文」だと思う。長い。そして、うねる。
「手紙」が「紙」ということばから「紙のレコード」に変化し、「レコードを聴く」が「音信を聴く」へとつながっていく。この連続感、動いていく感じはとても技巧的だ。これも「聞かせる」というよりも「読ませる」ものだと思う。だからこそ「レコード」という古いことばがつかわれるのだと思う。「レコード」なんて、私は沢田研二の「勝手にしやがれ」の「夜というのに派手なレコードかけて」以来、耳で聞いた記憶がない。いや、それ、以後、どこで「レコード」ということばがつかわれているか、聞いた記憶を思い出せない。
こんなことば、いまは、だれも言わないぞ。(もっとも、またレコードブームで、新しいことばなのかもしれないけれど。これからまた復活してくることばなのかもしれないが。)これも、「書きことば」ならではのものだと思った。
さらに、
日本のヤマギ ホオジロ
ヒヨドリに似た鳥たちが
庭に生えたオリーブを
次から次へ「音ずれ」ています
「音ずれ」は「訪れ」である。小鳥の鳴き声の違い、音の違い、ずれを重ね合わせている。これは韓国語でどう翻訳されているのかわからないが、そのままでは「耳」ではつかみきれないものを含んでいる。
日本人が聞いても「訪れ」としか理解しないだろう。だから、ここも「朗読」というよりは「黙読」を前提として書いているように思う。
でも、これを石田は「読む」のである。しかも、淡々と読むのではなく、身振りをまじえ、音にも変化をつける。ことばのスピードが急にあがって、あ、何を言っているのだろうか、と思った瞬間、
ピル ピルルル ピョッピョ
ピウィー ピッピ
小鳥の鳴きまねをする。私はカタカナ難読症で、実は、この部分を黙読したときは、どう読んでいいのかわからなかった。石田の声をとおして、はじめて、あっ、そうか、とわかった。いまは、かろうじて読むことができるが、石田の声を聞くまでは、読まずにすっ飛ばしていた。
この部分を聞き、はじめて「朗読」のために書いたのかもしれないなあと思った。
でも、最後の部分、石田は声をマイクにのせずに、何やら口だけ動かしていた。それは詩に書かれていないことばかもしれない。私はよくおぼえていないが、
小鳥たちの歌は
止んだ瞬間に
酢へてが聴こえてくるのですから
までは、聞いたように記憶している。そのあとが「もごもご」読んでいるふり。
で、ここからです。私がきょう書こうとしているのは。
朗読が終わったあと、私は石田がやっているのは「朗読」ではなく「演技」なのだと思った。「朗読」以上のものを含んでいる。「読んでいるふり」の「ふり」。
最後の口だけ動かすというのは、詩のつづきがある。それはまだことばになっていない、ということを語っているのかもしれない。「余韻」ということかもしれない。それを「演技」をとおして明らかにしている。
押しつけている、と言ってもいいのだけれど。
そして私は、この「押しつけ」が嫌いである。「朗読」を聴くのが嫌いなのも、「朗読」だと、どうしても「押しつけ」がまじってくる。「肉体」というのも、「声」というものは、もうそれだけで「感情」であり、そんなものを前面に出されては息苦しい。私はわがままなので、ことばは、私自身の好き勝手に読みたい。書いた人が何を感じて書いたか、何を思って書いたかには興味がない。そのことばから何を引き継ぎ、考えることができるか。そのことばを動かしていけば、どういうことが起きるのか、ということにしか関心がない。だから、作者からの「押しつけ」は、どんなものであっても、大嫌いなのだ。
「演技」としての「押しつけ」。これは、石田の「朗読」だけではなく、「文字(書き言葉)」そのものにも含まれていると思う。「紙のレコード」という比喩の部分などに、それがあらわれていると思う。この比喩は、美しいといえば美しいのかもしれないけれど、私には非常に古い抒情の「押しつけ」に感じられてしまう。年代が違うからかもしれない。若い世代には「新鮮」かもしれないが。
言い換えると、ことばすべてが「演技」している、という感じがする。ことばが「肉体」から出てくるとき、まっすぐに出てくるのではなく、ある種の「演技作法」にしたがって動いているという感じがする。
「演技」が「感情」の動きを、一種の「作法」として明確にしたのか。石田の朗読は、韓国人聴衆(若い世代)に非常に好評だったということだった。(後日、フェスティバルの実行委員のような人が、そう語った。)
少し、前後するが。
石田の「音のない朗読」の部分で、私は映画「風の丘を越えて」を思い出した。パンソリの歌い手がいる。盲目である。彼女には弟がいる。その弟が姉を探し当て、パンソリを聞かせてくれと言う。太鼓をたたく。それにあわせて姉が歌う。弟には姉がわかっている。姉には弟がわかったか。たぶん、わかっただろう。昔,いっしょに歌い歩いていたのだから。このクライマックス、太鼓の音は聴こえるが、姉の声は聞こえない。かわりにフルートの音が流れる。しかし、それが姉の声に聴こえる。思わず鳴きそうになってしまう。
その映画の主演女優が、そのとき「司会」をしていた。そういうこともあって、石田の朗読が、「演技」に見えたのかもしれない。
*
同じステージで杉本真維子は「拍手」を朗読した。
背骨の、したのほうに、小さな、拍手がある
装置でも、偶然の、産物でもなくて
ある朝方、それをみつけて
スイッチを押したようだが、記憶はなかった、
博士の指示にしたがい
朝と夜だけ、多くても一日二回まで
という決まりだけは守った
うーん、石田のことばが「文体」(連続することで明確になるもの)として「演技」を目指しているのに対して、杉本のことばは、ひとつひとつが「独立」するのことを目指しているように感じられる。一つ一つが、独自に「自己主張」する。その「自己主張」のどこかに共感すれば、杉本の肉体に近づいて行ける、ということだろう。
私は「拍手」と「博士」の向き合い方に刺戟を受けた。対立というのではないが、同一でもない。向き合うことが「自己」と「他者」をうみだし、「自己主張」を明確にする。その感覚が「わたし」を動かしている。断絶しているのだが、間接的につながっている。「指示」ということばがあるが、それを「私」がうけとめるときにのみ生まれるつながりと、「背骨の、したのほう」という切り離せない「私」と「拍手」のつながりが交錯する。
何が書いてあるのか、よくわからないが、そのわからないところに杉本がひとりの人間として「いる」ということを感じさせる朗読だった。
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