詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(2)

2017-11-26 09:29:28 | 詩集
清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』(2)(リトルモア、2017年12月01日発行)

 最果タヒの詩には「透明」に通じることばがよく出てくる。

全身を透かすようにして、しずかな青が過ぎていくとき、    (かくとだに)

 「透かす」は「透明にする」。それは「しずか」という感覚と通じる。「しずか」を漢字で書くと「静か」。そのも字のなかに「青」があるせいだろうか、「透明」「しずか」「青」は響きあう。「寒色」の方が「透明」の感覚を呼び覚ますかもしれない。

深い緑の時間の重さに、追われ、塗りつぶされていた。     (わすれじの)

 ここには「緑」という寒色がある。「深い」は「透明」に通じる深さだろう。不透明で、底知れない深さというものもあるが、不透明では次の「塗りつぶす」がおもしろくない。「不透明」ではほんとうに塗りつぶされる。透明だと、塗りつぶしても塗りつぶしても、その奥から何かが「見える」。それが「深さ」を呼び覚ます。「透明」を揺り起こす。
 この感じは、

美しさはどれほど重なり合っても、澄み切っていられるものなのですね。
                              (いにしへの)

 と言いなおされる。美しさはどれほど「塗り」重ねても、「澄み切っていられる」。
 この「透明」感覚には、「時間」ももぐりこんでいる。「過ぎていくとき」は「とき(時)が過ぎていく」でもある。「一瞬」ではなく「過程」である。「幅をもった時間」というか、「時間を感じさせる長さ、持続」。それは「追われ、塗りつぶされ」という「動詞」の持続感覚と重なる。
 最果は「時間」を「透明」に見渡している。見渡せるものとして「時間」がある、ということだろう。

透明のおちる音、透明にすべる光、
透明の粒子がはじけるたびに、冷えていくもの、
私たちは知らない、すべてが透明の中に沈められ、刹那のふりをしていること。
                              (たきのおとは)

 この詩には「刹那」ということばが出てくる。「透明におちる音」というのは、「刹那」に聞こえるものだろう。「はじけるたびに、冷えていく」というのも、その「刹那」「刹那」を描いている。
 しかし、「刹那」だけではなく、やはり「時間」が「幅」をもって見渡されている。それは「おちる」「すべる」「はじける」「冷える」「沈める」と複数の動詞の存在からもわかる。ある「刹那」は別の「刹那」と呼応する。そのとき「刹那」と「刹那」のあいだに「時間」が拡がる。その「広がり」を「透明」なものとして見ている。
 いや、見渡すことで、「時間」のその「間(ま)」を「透明にする」のが最果の肉体(思想)なのだろう。

あなたが贈ってくれたよもぎの歌には、確かに露がついていた。 (ちぎりをきし)

 「透明」のかわりに「露」という「具体的なもの」が突然あらわれるときもある。「抽象」は「具象」によってふたたび立ち上がり、「具象」は「抽象」によってふたたび立ち上がる。そういうことが詩集全体の中で展開されている。そのときの「運動」(ふたたび立ち上がる/動き出す)を支えるもののひとつが「透明」ということになる。

夜の両端が北と南にひっぱられたみたいに、目の前で、
暗闇が裂けていく。                     (あさぼらけ)

 という「暗闇」ということばをつかった、逆の透明もある。「裂ける/裂く」ことによって、「暗闇」の向こう側から「透明」が噴出してくる。これも最果の「透明」が「運動」に結びついている(時間の中で展開する)ということを明らかにしてくれる。

 ということを、感想の出発点として、また違うことも考えた。

せめて、という言葉に心の底がやぶれていった。        (なげきつつ)

 「心の底がやぶれていった」は「暗闇が裂けていく」に通じるが、そのきっかけとなっているのが「せめて」ということばであることが、とても、とてもとても、おもしろいと思った。
 「せめて」は「せめて朝がきてほしい」ということばとなって動いているのだが、「せめて」は実はほんとうに欲していることには届かない。かなわないことがあるから、「せめて」これこれしてほしい、という具合につかう。
 不可能性にきづいたとき「せめて」ということばが動く。
 これは飛躍した言い方になるが、「透明」とは逆の何かである。「透明」はどこまでも見渡す。「せめて」は「果て」が見とおせない。「果て」の手前で妥協する。妥協するしかない。そういう感じだ。
 ここに、「不透明な肉体」、人間の「肉体」の、「具体」のもっている「限界」のようなものがある。
 「精神(抽象)」はどこまでも「透明」を貫くことができる。不透明を排除し、透明を積み重ねることで、より透明になっていく。(この「透明化」のスピード、リズムが最果の詩が若い人に好評な大きな要素になっていると思う。)
 一方、生身の「肉体」は「抽象」を貫くことができない。どこかで「つまずく」。そこから、どうふたたび立ち上がる。そういう問題が、実は、とても重要だ。
 最果は、どうするのだろう。
 「ながらへば」で、こう書いている。

感情も呼吸も思考もすべてが刃となって身体の底に降り注ぐ、
この時間さえ生きながらえば、
この痛みも懐かしく思う日が来るのだと、知っている私は立ち尽くしている。

 「身体」と「痛み」。「痛み」はまだ「抽象」かもしれない。「刃」ということばを手がかりにして言えば「痛み」とは「傷」だろう。「肉体」そのものに刻まれた「傷」。それを最果は、ふたたび言いなおす。

すべてがひび割れていく、
その跡は、いつかうつくしい陶磁器の模様のように見えるでしょう、
私は手のひらで撫でながら、
ここに痛みがあったのだということを思い出すようになるでしょう。

 「手のひらで撫でる」これは、「透明」なのものを「目で見る」のとは違う。「不透明」に「肉体」を重ね、「目」以外の「肉体」で、「目」では見えないものを知ることである。この「知る」のなかにも、「透明」が隠れている。

舞うとあなたの指先が、またたく光につながり、溶けるよ。    (あまつかぜ)

 というときの「溶ける」とは違う、別の「溶ける」がある。単に「つながる」のではなく、もっと「面積」が広い。「指先」で「つながる」ではなく、「手のひら」で「撫でる」。「撫でる」は「つながる」のように「強固」ではないが、強固ではないからこそ、逆に深いものを感じさせる。

ほんとうは、それがわたしの瞳から溢れていく時間だとわかっていました。
                               (はなさそうふ)

 「撫でる」ときに何が動くか。「撫でられたもの」から、なにかが「溢れる」。「撫でる/撫でられる」ときに動き出す(あふれだす)もの、それが「わたしという時間」かもしれない。

 最果がどういう順序で「百人一首」を詩に翻案していったのかわからないが、青春の鮮烈さ(透明な輝き)を生きて、不透明なものをも抱きしめながら変わっていく最果の「現在」を一緒に生きている感じになる詩集だ。

千年後の百人一首
クリエーター情報なし
リトル・モア
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