新井豊吉『掴みそこねた魂』(思潮社、2017年09月30日発行)
新井豊吉『掴みそこねた魂』は、「主役」が他人のことが多い。新井自身を語るのではなく、新井が寄り添っている人間を「主役」にしてことばを動かしている。寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている。「ゆっくり」のなかで「主役」が自然に動き出す。この瞬間が美しい。
たとえば「なかよし学級」。
「風なんかじゃない」と否定したあとのことばが強い。
「ぬるく」が、特に強い。
「わたし」がいつも感じているのは「ぬるく」とは違うものなのだ。いつも、冷たい、熱い。極端で過激である。そういう「粗野」なものが「わたし」は嫌い。
「ぬるい」ものは、何か、ゆったりする。身を任せていられる。「時間」が、そこではゆっくりしている。
私はいま、「ぬるく」を「ぬるい」と言い換える形で感想を書いたが、「ぬるく」は「ぬるい」とは違う。「ぬるい」は「名詞」と結びつくが、「動詞」と結びつく。副詞だ。この「動詞」と結びつくところが、「ぬるい」よりもさらに強い。「動詞」というのは「肉体」のことである。「肉体」を動かす、その動きを説明するのが「副詞」。「わたし」はいつでも「肉体」を感じている。「粗野」も「粗野に」と「動き」につながるものとして書かれている。「肉体」で「粗野」を感じているのだ。
「肉体」は「かすかな」ものをしっかりと感じる。「押し返す」力の強さを、「かすかな」と言いなおすとき、その「かすかな」は「客観化」できない「動き」である。「数字」にはできない。「肉体」が「肉体」だけの基準で感じる。そして、その感じ方は、いつでも「正確」である。この「強さ」なら気持ちよくて、この「強さ」はだめ、ということが「肉体」にはわかる。「強さ」という名詞(客観化された数字)ではなく「強く」「よわく」という「動き」として「わかる」。
「頭(客観)」では「わからない」が「肉体」は「わかる」。
「額」「前髪」と具体的な「肉体」が書かれている。「触れる」は「肉体」に触れるのだ。それは「わたしだけのもの」。「肉体」はそれぞれが個別である。絶対に入れ替わることができない。
「わたしだけのもの」というのは、「わたし」に触れていった「ぬるい風」のような何かを指しているのだが、それが「触れた」と感じる「わたしの肉体」そのものをも指している。「わたしの肉体」と「ぬるい風のようなもの」は、一体になり、つまり一緒に動き、動きのなかで「主客」が入れ替わる。
この「時間」を「わたし」は「待っている」。「待つ」という「動詞」はある意味では「抽象的」だが、それを「わたし」は「肉体」ではっきりと「時間」にしている。「時間」を充実させ、それを至福に変えている。
ここに書かれていることは、では、新井はどうやってつかみ取ったのだろうか。寄り添うことで、想像力を働かせたのか。
私はこの感想の最初に「寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている」と書いたのだが、その「ととのえる」は間違っている。
新井は、他者の、ことばにならないことばを「ととのえ」、わかりやすいものにしているのではない。
「いらっしゃい」に新井の作品をつらぬくキーワードが出てくる。
「わたし(新井)」は「きみ」にうまく向き合えない。何かが「きみ」を反発させてしまう。どうしていいか、「わたし」にはわからない。
その「わたし」が家庭訪問をする。
「教えてもらう」という「動詞」がつかわれている。新井は「きみ」を支えるのではなく、そのことばをととのえるのでもない。新井は「教えてもらう」。支えられ、ととのえられるのは新井の方である。「主客」が入れ替わる。
新井いは「教えてもらう」でとどまらず「だけ」ということばを付け加えている。「教えてもらうだけ」。そこに集中している。
ここにも「だけ」があった。
「他者」を描きながら、新井はそこに書かれた「わたし」になる。「わたし」を生きる。「教えてもらって」、教えられた生き方を生きる。その静かな積み重ね「だけ」が詩集になっている。
「だけ」もまた新井のキーワードだろう。生きる「いのち」がある「だけ」。そこには「主客」の区別はない。「主客」は入れ替わりながら「いのち」そのものになる。「いのち」そのものに帰っていく。
新井豊吉『掴みそこねた魂』は、「主役」が他人のことが多い。新井自身を語るのではなく、新井が寄り添っている人間を「主役」にしてことばを動かしている。寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている。「ゆっくり」のなかで「主役」が自然に動き出す。この瞬間が美しい。
たとえば「なかよし学級」。
わたしは
外を見るのが好きなわけではない
ただ待っているだけ
グラウンドを守る
松林の向こうからきた
粗野に野球帽をとばす
風なんかじゃない
ぬるく 押し返すような
かすかな弾力
見えない明らかな固まり
額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの
「風なんかじゃない」と否定したあとのことばが強い。
「ぬるく」が、特に強い。
「わたし」がいつも感じているのは「ぬるく」とは違うものなのだ。いつも、冷たい、熱い。極端で過激である。そういう「粗野」なものが「わたし」は嫌い。
「ぬるい」ものは、何か、ゆったりする。身を任せていられる。「時間」が、そこではゆっくりしている。
私はいま、「ぬるく」を「ぬるい」と言い換える形で感想を書いたが、「ぬるく」は「ぬるい」とは違う。「ぬるい」は「名詞」と結びつくが、「動詞」と結びつく。副詞だ。この「動詞」と結びつくところが、「ぬるい」よりもさらに強い。「動詞」というのは「肉体」のことである。「肉体」を動かす、その動きを説明するのが「副詞」。「わたし」はいつでも「肉体」を感じている。「粗野」も「粗野に」と「動き」につながるものとして書かれている。「肉体」で「粗野」を感じているのだ。
「肉体」は「かすかな」ものをしっかりと感じる。「押し返す」力の強さを、「かすかな」と言いなおすとき、その「かすかな」は「客観化」できない「動き」である。「数字」にはできない。「肉体」が「肉体」だけの基準で感じる。そして、その感じ方は、いつでも「正確」である。この「強さ」なら気持ちよくて、この「強さ」はだめ、ということが「肉体」にはわかる。「強さ」という名詞(客観化された数字)ではなく「強く」「よわく」という「動き」として「わかる」。
「頭(客観)」では「わからない」が「肉体」は「わかる」。
額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの
「額」「前髪」と具体的な「肉体」が書かれている。「触れる」は「肉体」に触れるのだ。それは「わたしだけのもの」。「肉体」はそれぞれが個別である。絶対に入れ替わることができない。
「わたしだけのもの」というのは、「わたし」に触れていった「ぬるい風」のような何かを指しているのだが、それが「触れた」と感じる「わたしの肉体」そのものをも指している。「わたしの肉体」と「ぬるい風のようなもの」は、一体になり、つまり一緒に動き、動きのなかで「主客」が入れ替わる。
この「時間」を「わたし」は「待っている」。「待つ」という「動詞」はある意味では「抽象的」だが、それを「わたし」は「肉体」ではっきりと「時間」にしている。「時間」を充実させ、それを至福に変えている。
ここに書かれていることは、では、新井はどうやってつかみ取ったのだろうか。寄り添うことで、想像力を働かせたのか。
私はこの感想の最初に「寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている」と書いたのだが、その「ととのえる」は間違っている。
新井は、他者の、ことばにならないことばを「ととのえ」、わかりやすいものにしているのではない。
「いらっしゃい」に新井の作品をつらぬくキーワードが出てくる。
常同的に飛び跳ねる子どもたちのもとから
車イスとマットの職へうつった四月
おそるおそるきみを抱きかかえた
わたしの腕は硬く
きみは棒のように反り返った
「わたし(新井)」は「きみ」にうまく向き合えない。何かが「きみ」を反発させてしまう。どうしていいか、「わたし」にはわからない。
その「わたし」が家庭訪問をする。
ただ教えてもらうだけの家庭訪問を迎えた
玄関から部屋の奥にいるきみが見えた
おひな様は補助イスに座りベルトで固定されていた
きみの瞳はいつもより大きく
頬の筋肉が弛緩し
微笑みとは言えない微笑みがあった
「教えてもらう」という「動詞」がつかわれている。新井は「きみ」を支えるのではなく、そのことばをととのえるのでもない。新井は「教えてもらう」。支えられ、ととのえられるのは新井の方である。「主客」が入れ替わる。
新井いは「教えてもらう」でとどまらず「だけ」ということばを付け加えている。「教えてもらうだけ」。そこに集中している。
額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの
ここにも「だけ」があった。
「他者」を描きながら、新井はそこに書かれた「わたし」になる。「わたし」を生きる。「教えてもらって」、教えられた生き方を生きる。その静かな積み重ね「だけ」が詩集になっている。
「だけ」もまた新井のキーワードだろう。生きる「いのち」がある「だけ」。そこには「主客」の区別はない。「主客」は入れ替わりながら「いのち」そのものになる。「いのち」そのものに帰っていく。
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